2008年4月17日木曜日


第12章  モスクワ

サンクトペテルスブルグからモスクワまでの旅で、これほどの疲労が待ち受けているとは思ってもいませんでした。私が凍ってるものと期待した道は ― 私は信じこまされていました ― そうではありませんでした。道は事実恐るべき状態でした。道に敷いた丸太は厳しい天候では役に立ちませんでした。まだ霜で丸太がくっついていないので、車輪の下でいつもゴロゴロして海の波と同じようでした。私の馬車は半分泥をかぶり、恐ろしく揺れるものですから、いつもお手挙げの状態でした。この苦痛から多少とも逃れるために私は途中ノゴロウドの宿屋で下車しました。この宿屋は道中唯一のものでした。この宿は私が聞いていた話では、食事も寝泊まりも快適だということでした。私は休息したくお腹も空いていたので、部屋を頼みました。病気になりそうな恐ろしい臭気を嗅ぎくつろぐどころではありませんでした。宿屋の亭主に部屋を変えてくれるように頼むましたが、他にはないということで、私はあきらめました。この耐え難い臭気は部屋のドアから来ているとわかり、ボーイを呼び、ドアについて尋ねました。「昨日からドアの向こうで死んだ人がいました。たぶんそれで臭いがするのでしょう」もうこれ以上期待できないので、馬に馬具をつけて出発しました。モスクワまでの旅を続けるために一切れのパンは持ちました。

私は旅の半ばでしたが、残りのは旅はさらに疲れるものでした。別に高い丘があるわけではありませんでした。道路は絶え間なくでこぼこしていて、私には拷問でした。いちばん耐え難いなったのは、旅の途中に田園の風景を見ることができないことでした。厚い霧が窓の両面を覆っていて、私は失望しました。この試練に加えて、私はパンを食べてからの食事の制限を考えてください。お分かりになると思いますが、旅は非常に長く感じられました。

ついに私はロシアのかっての大首都に到着しました。私はまるで絵で見てきたイスファハンに来たようでした。モスクワの光景はヨーロッパの他の都市とは全く違いました。巨大な十字架を頂く数千の金色のドーム、広い道路、素晴らしい宮殿の数々、大部分が庶民の住居から離れた所にありました。この効果を敢えて語るつもりはありません。モスクワの印象を得るためには実際に、見なければ分かりません。

私はムッシュー・ディミドフが貸して下さった邸宅に馬車で行きました。この大きな建物の前には手すりで囲まれた大きな庭がありました。この家には他の入居者はいなく、私はホッとしました。私の極度の疲労と道中のみじめな食事の後では、、私が考えることは、まず私の飢えを和らげてから寝ることでした。しかし運が悪かったのです!朝五時にはすさまじい騒音で目が覚めました。ロシア人の楽隊が私の隣の部屋を占拠し、練習を始めました。全員が一つの調べしか吹けないのです。おそらくこの部屋は大変広く、この種のリハーサルには適していたのです。私はボーイに毎日この音楽の練習があるのか尋ねてみました。この屋敷は誰も住んでいないので、この目的のために使われるという返事でした。私のものではない家のしきたりを変える気はありませんでした。私は家を探すことにしました。

私の探検の第一歩は、私の昔からの友人の奥さんである、ストロガノフ伯爵夫人を訪問することでした。彼女は非常に高い所にある所に釣り上げられていました。それは前後に揺れるだけです。私には信じられませんでしたが、彼女はこの永久運動に我慢できたのです。彼女は健康のためにこれをしていたのです。彼女は歩けなかったからです。それでも彼女は私に愛想がよく応対してくれました。私は彼女に家のことで困っていると話しました。彼女はすぐに答えたくれました。彼女は現在住人のいない綺麗な家を持っており、私にどうか住んでくれと言いました。家賃を支払いたいとお願いしたのですが、聞き入れてくれませんでした。それで私はこのお話をお断りしました。どうしてもだめとわかると、彼女は非常に愛らしい娘を呼びました。家賃の代わりに娘の肖像を描いてくれと私に頼みました。私は喜んで同意しました。こうして数日後、私は静かな家に転居しました。私はひとりで生活することになりました。

新しい住居に落ち着くと、厳しい気候が許す限り私は街に出掛けました。5ヶ月私はモスクワです過ごしましたが、雪は解けませんでした。素敵であるといわれた風景を見る喜びを失いました。

モスクワは少なくとも直径が10マイルはあります。モスクワ川が市を二分しています。モスクワ川には二つの流れが注いでいます。その光景は誠に驚くべきものです。数々の宮殿、見事な記念碑、修道院、教会、これらが一体になり、周囲の風景と混ざり合っているのです。都会の壮麗さと田園の素朴さが混じりあって、見事で幻想的な効果をもたらし、新奇なものを求める旅行者を楽しませてくれます。この年には数多くの教会があり、「モスクワには40掛ける40の教会がある」と言われます。モスクワには42万人の住人がいるとされています。商業は大規模です。名前は忘れてしまいましたが、ある地域では店が6千ありました。クレムリンと呼ばれる地域には同名の要塞があり、かってはツアーの宮殿でした。要塞は町とともに古いものでした。12世紀の半ばに建てられたと言われています。その場所は高台にあり、その下をモスクワ川が流れています。その古めかしい様式以外にとくに注目すべきものはありません。塔が立ち並ぶ城壁の近くに半ば土の中にある巨大な鐘がありました。宮殿のチャペルに吊るそうとしたが、無理だったという話を聞きました。

モスクワの墓地は並外れたものでした。ロシアの習慣に従って、年に数回、とくにロシアで、われわれの祥月命日に相当する気には墓地は、大勢の人たちでいっぱいになります。男女は一族の墓でひざまずき、その嘆きの声は遠くまで聞こえます。

サンクトペテルスブルグ同様、モスクワでも一般的な習慣はスチーム・バスです。男用と女用のバスがあります。男たちがこのバスに入り、出てくるときは真っ赤です。どんなに寒くても雪の中に飛び込み、転び回ります。ロシア人がたくましく健康なのはこの習慣のせいでした。胸の病やリューマチを彼らが知らないことは確かです。

市場はモスクワでの散歩の楽しみです。市場にいけば珍しい高級な果物がそろっています。市場は庭園の真ん中になり広い通りがあり、市場を魅力的にしています。高貴の婦人がそこに出掛け、自分で買い物をするのは普通のことです。夏には馬車で買い物をし、冬にはソリで買い物をします。

私の見る所、サンクトペテルスブルグの社交界はいわば一つの大家族です。貴族たちは互いに親戚同士でした。モスクワでは一般大衆も貴族も数多く社交界も数多くの家族から成り立っていました。たとえば、6000人の大舞踏会があります。そこでは初対面の家族もあるわけです。舞踏会場は地上数フィート高くなった柱廊で囲まれています。ダンスをしてない人たちはそこで散歩をします。さらに舞踏会場に隣接した部屋もあり、食事をしたり、カードを楽しみます。私は舞踏会に一度出かけたことがありますが、集まった美しい女性の数に驚きました。ソルティコフ元帥から招待を受けた舞踏会でも同様でした。若い女性はほとんどは素晴らしい美人でした。私はエカテリナ二世の舞踏会に出かけるエリザベス大皇女にお勧めした古代風の衣装ですが、彼女達は早速その衣装を着ていました。彼女達は金のフサ飾りのついた。カシミヤのチュニックを着ていました。豪華な宝石で短い袖を止めていました。ギリシャ風の頭飾は大部分をダイアモンドついたリボンで結んでありました。これほどおしゃれで豪華な衣装はないでしょう。これらの衣装は、この上なく綺麗な女性たちはいっそう美しくなっていました。特に私の目についたのは、トゥファキン公と結婚して間もない若い女性でした。彼女は整った繊細な顔立ちでしたが、憂いを帯びた表情でした。私は彼女の結婚後に肖像画にとりかかりましたが、モスクワでは頭部を完成しただけです。ですから私は絵をサンクトペテルスブルグに持ち帰って完成させました。ところがまもなくこの魅力的な若い女性の死亡を知りました。彼女は、やっと17歳になったばかりでした。私は彼女を雲の上に座り、波打つスカーフをまとったアイリスにして描きました。

マダム・ソルティコフはモスクワでも、最上級の邸宅を持っていました。私は到着そうそうに彼女のお宅にうかがいました。彼女とモスクワの市長であるご主人は私に非常に親切にしてくれました。私は彼女から元帥の肖像画を頼まれました。さらにウラディーミル伯爵の令息である、グレゴリー・オルロフ伯爵と結婚した元帥の娘の肖像画も頼まれました。そのとき、私はストロガノフ伯爵夫人の娘の肖像を描いていました。私は約10日間の間に6枚の肖像画を描き始めました。善良で愛想のいいマダム・ドュクレの似顔絵を勘定に入れてませんでした。私はモスクワで彼女につい会いたくなりましたし、愛らしいので。彼女をぜひ描くと約束しました。私の命を奪ったかもしれない事件のせいで、私はスタジオを使えなくなり、これらの作品の完成が遅れました。

私はストロガノフ伯爵夫人からお借りした家で平穏に暮らしておりました。しかしこの家は7年間誰も住んでいませんでしたので、非常に寒かったです。これを補うために、私はありとあらゆるストーブをたいたのです。夜は寝室で火をつけたままにしました。ベッドでも寒くて鎧戸も密閉し、少しでも空気を暖めるために小さなランプを近づけ、窒息の危険を冒して頭にリボンで枕を結びつけました。ようやく眠りについたある晩のことです。私は息が詰まるような煙で目が覚めました。私はなんとか女中を呼びました。彼女は火は全部消したと言いはりました。私は彼女に通路の扉を開けるように言いました。彼女がその通りにしたときには彼女のローソクは消えてしまいました。私の部屋と家全体は煙でいっぱいになりました。二人で急いで窓を割りました。この恐ろしい煙がどこからくるのかを知りませんでした。どれほど不安であったが、ご想像いただけるでしょう。私はそれから火をつけた男の一人を呼びました。この男はもう一人の男がパイプの蓋を開くのを忘れたと言いました。これは屋根の上だと思います。ストロガノフ伯爵夫人の家の放火という恐怖からは解放されて部屋に戻りましたが、私はびっくり仰天しました。私が肖像画を描いていた部屋の近くには大きなストーブがあり、二つの口がありました。私は乾かすためにソルティコフ元帥の肖像画をその前に置いたのです。肖像画は焦げてやり直さなければなりませんでした。しかし災難の夜でいちばん悲しかったのは、主人から送ってもらった多くの画家たちの絵を運び出せなかったことです。もちろん大変傷んでいました。

朝の五時までには煙は知り始めましたが、窓を割ってしまったので。ここには居られません。何をすべきか?どこに行くべきか?マダム・ドュクレ・ヴィレヌーヴに使いを出しました。彼女はすぐにやってきて、私を彼女の家に連れて行ってくれました。私はここで二週間滞在しました。その間私にさまざまの配慮をしてくれました。私は一生忘れないでしょう。私は家に戻ることにしました。私はまずムッシュー・ドュクレ・ヴィレヌーヴと見に行きました。窓は取りかえられていませんでした。家は煙の悪臭で当分住むことは不可能でした。私が非常に感激したのは、グレゴリー・オルロフ伯爵が、ロシア人本来の親切で彼の所有する空き屋を貸そうと申し出てくれました。私はこの申し出を受け直ちに家に引っ越しました。ところでこの家ですが、雨がだだ漏りでマダム・ソルティコフがやってきて私の絵が飾ってある部屋に数分おられましたが、傘をかしてくれといいました。新たな不便にもかかわらず、モスクワを発つまでこの家にいました。

ロシアの貴族は、サンクト・ペテルスブルグ同様にモスクワでも贅沢でした。モスクワには、非常に高価に語りかけた素晴らしい大邸宅が数多くありました。いちばん豪華なのは、アレクサンドル・クラキン公の邸宅でした。私は彼とサンクト・ペテルスブルグで知り合い、彼の肖像画を二度描いています。彼は私がモスクワにいることを知り、私に会いに来て、私の友達であるドュクレ・ヴィレヌーヴ伯爵夫人とご主人を晩餐に招待してくれました。広大な邸宅で、外部の装飾は王侯の宮殿のようでした。私たちが通り抜ける度に部屋はますます豪華になっていき、ほとんどの部屋には家の主の全身か半身の肖像画がありました。テーブルに着く前に、彼の寝室を見せてくれましたが、最も優雅なものでした。見事な絨毯を敷いた台の上にあるベッドには、優雅に飾られた枠がありました。台の四隅には二つの像と花瓶が置いてありました。上品な趣味の椅子高価な長椅子があり、ビーナスの住処にふさわしいものでした。食事の間に着く前に私たちは広い廊下を行きました。両側にはお仕着せの服を着た農奴が松明を持ち、まるで私は厳粛な儀式に臨むような気分でした。食事の間中、上の方からホルンの演奏が聞こえてきました。クラーキン公の財力で、彼は王様の生活を維持できました。彼は優秀な人物で、身分同等の者に対しては慇懃でしたが、かといって目下の者に威張る事はありませんでした。

私はガリチン公のを招きを受けたこともあります。気軽で親しみやすい振る舞いのせいで、彼は引く手あまたでした。彼は高齢で、四十人もの客と食卓に坐っているのも大変だったはずです。それでも贅沢な料理が次々に出てきて、食事の会は3時間以上も続きました。私は非常に疲れました。特に高い窓に向かい合って着席した場合です。窓の光で目が暗みました。この宴会は私には耐え難いものでしたが、そのかわりに食事の前に素晴らしい画廊を見る楽しみがありました。この画廊には凡庸な作品も確かにありましたが、大家の絵画が収集されていました。ガリチン公自身は高齢で病弱であったために、甥に私を案内するように命じました。この青年は絵については無知で、絵の主題の説明に専念しました。プシケの絵の前で、その発音ができず「これはフィシェです」と言いました。私は笑いを抑えるのに難儀しました。

ガリチン公の長い食事で思い出すことがもう一つあります。私は我慢して大柄で太ったモスクワの大金持ちの銀行家の食事の会に参加しました。食卓に座ったのは全部で18人でした。私は人生で、これほど不細工な顔が集まったのを見たことがありません。典型的な蓄財家の顔です。私は一度顔を見た後二度.と目を上げませんでした。顔を合わせるのが怖かったからです。会話は全くありませんでした。彼らががつがつ食べなかったならば人形かと思われたでしょう。時間がこのように過ぎました。私は退屈で、めまいがしそうになりました。ついに私は意を決して気分の悪いふりをしここを立ち去りました ― 彼らはまだ残っていたと思います。

ついてなかった日のことです。その晩に楽しくはなかったけれども、喜劇的なエピソードが起きた日です。何の理由だったか、私は一人のイギリス人の女性を訪問しました。知り合いの女性が私を連れてってくれました。また戻ってくると約束して、彼女はしばらく出て行きました。都合の悪いときはこんなもので、イギリス人の女性はフランス語を一言も知りませんし、私は英語を一言も知りません。ご想像いただけるでしょうが、お互い非常に気まずいものでした。私はそれでも、小さなテーブルの前の彼女を見つめています。二つのローソクが真っ青の顔を照らしていました。彼女は礼儀作法から義務と思ったのでしょうか、私が理解できない言葉で話しかけていました。私はフランス語で、彼女に話しかけました。彼女は全く理解できなかったのです。二人は一時間以上共に過ごしましたが、この一時間は私には百年に思えました。おそらく、この気の毒なイギリスの女性も同じように長く感じたことでしょう。

私がモスクワに滞在していた時期、モスクワおそらくロシアで一番のお金持ちはベズボロドコ公でした。彼は自分の領地から3万の軍勢を招集できると言われていました。大勢の小作人を所有しており、誰もが知っているようにこの人たちはロシアでは領地の一部なのです。各地にある領地で彼は非常に大勢の農奴を所有していました。彼は農奴に対して非常に親切に扱い、いろんな仕事ができるように指導しました。私が彼のを屋敷を訪問した時ですが、家じゅうの家具を見せていただきました。家具はパリの有名な室内装飾家、ダゲールの仕事場から買い入れたものです。この家具を彼の農奴に模倣させました。本物と模倣品の違いを当てるのは不可能でした。この素晴らしい作品を見てから、私はロシアの人たちが極めて知的であり、何事も理解して完成させる才能を持っていると断定するようになりました。ド・リーニュ公が「ロシア人の船乗り、猟師、演奏家、技術者、俳優を見てきた。彼らがこれらの仕事を主人の望み通りにやり遂げているのも見えてきた。銃弾や砲弾が降りそそぐ中で塹壕で歌って踊り、雪と泥の中に突っ込むのも見てきた。ロシア人は機敏で、注意深く、従順で、礼儀正しい」と書いておられます。

ベズボロドコ公は有能な人でした。彼はエカテリナ二世とパーベルの治世まず内閣の大臣になりついに1780年には外務大臣になりました。数え切れないほどの陳情攻勢を避けるために彼はできる限りよそよそしくしました。女たちが彼の馬車に乗り込むこともありました。彼女たちの要求に対する回答は「忘れます」でした。誓願の場合は「失くします」でした。彼の偉大な才能はロシア語を徹底的に正確に知っていることでした。加えて、彼には驚くべき記憶力と考えを見事に言葉にする能力がありました。これを証明する有名な例があります。ある時女帝は彼にある草案を書くように命じました。しかし、非常に仕事が忙しくて、彼は忘れてしまいました。彼が次に女帝にお会いした時政治の問題で、彼と相談した後。彼女は草案を要求しました。ベズボロドコはうろたえることなく書類入れから、一枚の紙を引き出し、ためらうことなく、草稿のすべてを初めからしまいまでその場で書き上げました。エカテリナは、この様子に大いに喜び紙を取り上げて見ました。紙が博士であるのを見たときの彼女の驚きは、ご想像できるでしょう。ベズボロドコは丁寧に言い訳をしました。しかし彼女は褒めたのです。次の日に彼は枢密院顧問になりました。

ベズボロドコ公と並んで驚くべき記憶力の持ち主であるロシア人はブチュールリン伯爵でしょう。私は彼をモスクワでよく存じあげておりました。ところで、私は彼とは遠く離れた所に住んでいましたのでブチュールリン伯爵のお宅で食事を頂く時には2マイルほど行かなければなりませんでした。伯爵は経験と知識において、私が知る限り最も傑出した人物の一人です。彼はあらゆる言葉を容易に話すことができました。あらゆる問題に関して知識があり、彼の話は非常に興味深いものでした。傑出した人物でしたが、決して気取ることなく、友人に対して優しく寛大でした。モスクワの彼の蔵書は珍しく高価であり、いろんな言語の書物がありました。彼が歴史的あるいは逸話的な話をするときには、彼が述べたことの出典がどの部屋のどの棚にあるか分かっていました。。これには私は驚きました。いちばん驚くのは、彼のヨーロッパのすべての都市とその際だった特徴について、彼は長年そこに住んでいたかのように話しますが、彼はロシアから一歩も足を踏み出したことは無いのです。彼はわりとその建物それに、ありとあらゆる興味深いものを私に語ります。その詳細に私は驚き「あなたがパリに来たことがないなんて信じられません!」と叫びました。

肖像画の注文もあり、楽しい仲間もあり、私は五ヶ月。モスクワに滞在しました。そのうち私が部屋で過ごしたのは6週間でした。しかし私は気分が悪く病気でした。休息が必要だと感じていました。特に暖かいところで、息を吸う必要がありました。それで私は、サンクトペテルスブルグに戻り、娘に会いロシアを去ることにしました。それでも数日はいつもと違う苦しい不快に襲われ、出発が遅れました。

第12章終わり

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

古い記事にコメントして申し訳ありません。トゥファキン公について詳しく教えていただけますか?資料が全く見つかりません。スペルだけでも良いのでどうぞ宜しくお願いします。

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