2008年4月18日金曜日


第4章 亡命

私がフランドルに旅行した年のことです。私はランシーにしばらく滞在しました。ルイ・フィリップの父であるオルレアン公がそこに滞在され、彼の肖像画とマダム・ド・モンテソンの肖像画を描いてくれと言って来られました。その時、私は困ったのですが、思い出してはおもわず笑ってしまいます。マダム・ド・モンテソンがポーズを取っているとき、高齢のド・コンティ公女がある日。彼女に会いに行きました。公女はどうしても私をマドモアゼルと呼びました。高貴な女性が目下のものに向かって、こう呼ぶのは、以前は習慣でしたが。このような宮廷の気取った作法はルイ15世とともに無くなったものです。

有名な田舎の別荘ジェネヴィエールはド・ヴォードルール伯爵が所有していました。彼は非常に気分の良い人でした。ド・ヴォードルール伯爵はタルトア伯爵殿下のために、この土地を購入しました。ここには猟場があったからです。彼は購入して、ここを美しくしました。邸宅の調度は趣味が良く、これ見よがしではありませんでした。この邸内には素敵な小劇場がありました。私の義理の妹、私の弟、ムッシュー・ド・リヴィエールと私は、マダム・ドゥガゾン、ガラー、カイヨー、ラルエットたちといっしょにコミック・オペラを演じました。タルトア伯爵とお友達は私たちの演技をご覧になりました。ジェネヴィエールの小劇場で、最後に演じたのは、コメディー・フランセーズの俳優による「フィガロの結婚」でした。マダム・コンタはスザンヌ役を見事に演じました。会話、詩、その他すべてはこの邸内での出来事にしてありました。この建物は現在でも大部分残っています。ボーマルシェは感激してしまいました。暑いという声があるや、彼は窓を開く時間も惜しんで杖で窓ガラスを割ってしまったのです。

ド・ヴォードルール伯爵は「フィガロの結婚」を後援したことを後悔しました。事実、この上演のすぐ後、ボーマルシェは殿下への接見を申し出ました。申し出が受け入れられるや、伯爵が起きあがったばかりの早い時間にベルサイユに到着しました。この劇作家は彼がもくろんでいた、うまくいけば莫大な金が転がり込んでくる話を持ち出しました。伯爵は黙って聞いていました。ボーマルシェが話しおわると伯爵は答えました。「ムッシュー・ド・ボーマルシェ、君はもう少しいい時間に来れなかったのかね。私は昨晩楽しかったものでね、胃腸の調子はいいし、今日ほど気分の良い日はないよ。君が昨日こんな申し出をしたら、君を窓から放り出しただろう。」

私が訪問したことのある素敵な田舎はヴィレットです。ヴィレット侯爵は素敵とも愛すべきとも呼ばれていましたが、私を招待してくれました。私はそこでに二、三日、過ごしました。たまたま公園のフェンスを塗装している男がいました。この塗装工は非常に機敏に仕事をしていましたので、ムッシュー・ド・ヴィレットは褒めました。応えは、「はい、私はルーベンスが描いた全作品を1日で塗りつぶしてみせますよ」私はサントゥアンで何度かド・ニヴェルネ公爵とお食事をしました。公爵はここに美しい邸宅をもっておられました。彼は非常に楽しい仲間を集めていました。公爵は上品で鋭いユーモアで称賛されていましたが、気取ることなく、優しくて、威厳のある方でした。彼は年齢を問わず女性に非常に礼儀正しいことで知られていました。この点については、詩がド・ヴォードルール伯爵とお知り合いにならなかったとしたら、公爵はほかに例のない方と言っていいと思います。伯爵はド・ニヴェルネ公爵よりずっと若く、洗練された親切に、真心こもった礼儀作法を心得ておられるました。実際上品なくつろぎというか、感じの良い礼儀作法をお伝えするのは非常に難しいことです。これこそが40年前のパリの社交界を魅力的にしたものです。当時は女が社交界を取り仕切っていました。革命がそれを壊しました。ド・ニヴェルネ公爵は非常に小柄で痩せた方でした。私が彼に強いした時には、すでに高齢でしたが、生き生きとしていました。彼は詩が大好きで、魅力的な韻文を書いておられました。

サン・ジェルマンの入り口にある、ド・ノエイユ元帥のすばらしい邸宅で何度かお食事をしたことがあります。当時そこには、見事に手入れされた広大な公園がありました。元帥は非常に社交的な方で、彼の知性とユーモアはお客にも影響しました。彼は高名な文学者やパリや宮廷の著名人から客を選んでいました。

1786年のことですが、私は初めてルヴェシエンヌに出掛け、マダム・デュ・バリーの肖像を描きました。当時彼女は45歳ぐらいだったでしょうか。彼女は背が高かったのですが、高すぎることはありませんでした。彼女は多少丸みを帯びていました。喉ははっきりみえましたが、美しい方でした。顔は依然として魅力的であり、顔立ちは整って上品でした。彼女の髪は乾いた感じでしたが、子供の髪のようにカールしていました。しかし肌は衰えはじめていました。彼女は私を丁寧に迎えてくれました。行儀のいい方とお見受けしましたが、心はのびのびとした方だと思いました。彼女は長い目を完全に開かないものですから、生めかしい眼つきでした。彼女の声は子供っぽく、年齢にはそぐわないものでした。

彼女は私を建物の一室に泊めてくれましたが、絶え間ない騒音で悩まされました。私の部屋の下に美術品が陳列されていました。この部屋は手入れされず、胸像、壺、頭、珍しい大理石、その他高価な品々が雑然と展示されていました。これら贅沢のなごりと対照的なのは、彼女の簡素な服装と生活ぶりです。冬も夏も天気に関係なくマダム・デュ・バリーは綿か白のモスリンの服を着ていました。彼女は、公園の内か外を散歩していましたが、別段何事もありませんでした。この田舎での生活が、彼女を丈夫にしたのでしょう。長い間彼女をとりまいていた、数々のへつらいとも縁を切って生活していました。夜になると、マダム・デュ・バリーと私の二人だけが炉端にいました。彼女はルイ15世と宮廷について私に話をしました。彼女は話だけではなく行動により価値ある女性であることを示していました。彼女はルヴェシエンヌでは慈善活動をし、貧乏人を助けていました。食事が終わると、豪華で、趣味の良い華麗なな装飾で有名なあのパヴィリオンで、コーヒーを飲みました。マダム・デュ・バリーが初めて私を案内してくれたとき、彼女は言いました。「光栄にもルイ15世陛下が食事にお出ましになったのはここです。食事中歌手や演奏家のためのバルコニーが上にありました」

マダム・デュ・バリーが恐怖政治以前にイギリスにいったときのことです。彼女は盗まれたダイヤモンドを取り戻しにたのです。彼女は取り戻しました。イギリス人は彼女を暖かく迎えました。彼らは何とかして彼女をフランスにだけは戻さないように努力しました。しかしながら、お金を持っている人は誰でもそうですが、まもなく彼女を待ち受けていた運命に屈することになりました。彼女はザモレという名の黒人に裏切られ、密告されました。この男のことは、あらゆる回想録に書かれていますが、彼女やルイ15世にたいそう可愛がられたのです。逮捕、投獄され、マダム・デュ・バリーは裁判にかけられ、1793年の終わりに革命法廷で死刑の判決を受けました。この恐るべき日々に多くの人々が消えて行きましたが、彼女だけが毅然として処刑台に上れなかった女性です。彼女は泣き叫び、周囲のいやらしい群衆に助命を乞いました。群衆が非常に動揺しましたので、処刑者は急いで役目をすましました。このことで私の信念を強めることになりました。すなわち、この忌まわしい記憶の時期の犠牲者が誇りを持って毅然として死んでいったものだから、恐怖政治は早く終結しなかったのです。

私はマダム・デュ・バリーの肖像画を3枚描きました。まず最初に麦わら帽子をかぶったガウン姿の半身像を描きました。二番目の肖像画では、彼女は白いサティンを着て花輪を手にし、一方の手を台座にもたせかけていました。マダム・デュ・バリーの三番目の肖像画は私が持っております。私が描き始めたのは1789年9月の中旬でした。ルブシエンヌでは、遠くの方で銃声が聞こえました。彼女は悲しそうに「ルイ15世がご存命だったら。こんなことはなかったでしょうに」と言いました。私は顔を描き、手と体の輪郭は描きましたが、パリに行かなければならなくなりました。ルブシエンヌに戻り、仕上げたかったのですがベルティエとフロンが殺されたと聞きました。

私はもう震え上がってフランスを出ることにしか考えていませんでした。恐るべき1789年の年の瀬も押しつまっていました。上流階級の人々はすべて恐怖にとりつかれていました。今でもしっかり覚えていますが、私がお友達をコンサートに家に招待した夜のことです。到着した人々のほとんどが仰天して部屋に入ってきました。彼らはその朝ロンシャンに歩いて行ったのですが、エトアール門に集まった群衆が馬車でいく人たちに恐ろしい剣幕で罵声を浴びせたというのです。馬車の踏み台によじ登って「来年にはお前たちは馬車の後に付いてくるさ、俺達が馬車に乗るのだ」と叫んだ悪党もいたそうです。

私はといえば、詳しいニュースを聞かなくてもどんな恐ろしいことが起こるか予測出来ました。私が三カ月前に引っ越したばかりのグロ・シェネ通りの家は悪党どもに狙われていること明らかでした。連中は硫黄を空気口から地下室に投げ込むいました。もしこれが私の窓際でしたら、この無法者たちは私にこぶしを振り上げていたことでしょう。いやな噂が各方面から山ほど私の耳に届きました。

事実私の生活といえば、不安と悲しみの連続でした。私の健康はすぐに影響されました。私の親友建築家ブロンニアール夫妻が私の家にやってきました。私がやつれはてているので、二、三日彼らの家に来て養生しないかと言ってくれました。私はこの好意をありがたお受けました。ブロンニアールはアンヴァリッドに部屋を借りて、そこで私はパレ・ルヴァイヤルの典医の指示を受けました。彼の使用人はオルレアンの制服を着ていました。これが当時の唯一の制服でした。ここで私は最善の治療を受けました。私が食べられるようになると、私は上等のブルゴーニュ・ワインとスープで栄養をとりました。マダム・ブロンニアールはいつも付き添ってくれました。お二人は私の暗い見方を少し直すように配慮してくれたおかげで、私は少し落ちつきました。それでも私の悪い予感を振り払うことはできませんでした。「生きていて、何の意味があるの?養生して何の意味があるの?」と私は、お二人にたずねました。私の将来を支配する恐怖で、人生がおぞましいと思えたからです。確かにいくら想像してみても、今後犯される犯罪のほんの一部しか予想できなかったということです。

ブロンニアールの家で当時アンヴァリッドの所長をしておられた、ムッシュー・ド・ソンブリュール閣下といっしょに食事をしたことがあります。彼が予備に所持していた武器を押収しようとする試みがあるという話が出ました。「しかしわしは絶対に見つけられないところに隠してある」といいました。このお人好しの人物は自分以外に誰も信用できないとは思わなかったのです。その武器が押収されたところを見ると、彼が雇っている使用人の誰かが彼を裏切ったのです。

ムッシュー・ド・ソンブリュールは彼の軍事的才能のみならず、徳のある方で有名でした。彼は9月2日に独居房で殺される囚人の一人でした。殺人者たちは彼の勇敢な娘の涙ながらの嘆願に命を助けることにしました。しかし、悪逆非道な連中は助命と引き換えにマドモアゼル・ド・ソンブリュールに牢獄の前に流れていた血を飲むことを強要しました。その後長い間赤いものを見ただけで、この令嬢は激しく嘔吐しました。数年後(1794年)ムッシュー・ド・ソンブリュールは革命法廷により、断頭台に送られました。

私はフランスを離れる決心をしました。ここ数年間、私はローマに行きたいと思っていました。しかし私が約束した肖像画の数が多すぎて、この計画を実行できなかったのです。しかし私はもう描くことができなくなりました。恐怖におびえ、絵を描く元気をなくしたのです。さらに、誹謗中傷が私の友人たち、知人、私自身にも降り注ぎました。私は神様もご存知の通り生きてる人を傷つけたことなど一度もありませんのに。「私はノートルダムの塔はちゃんと立っているのに、塔を盗んだといわれている。でも有罪と言われたから、私はあの世に行くことになるのさ」と言った男の気持ちで考えていました。私は描きかけた肖像画を置いてきました。その中にはマドモアゼル・ド・コンタの肖像画がありました。同時に、私はマドモアゼル・ド・ラボルド(後のノアイユ公爵夫人)の肖像はお父さんが彼女を連れてきましたが、お断りいたしました。彼女はようやく16歳になったばかりで、非常にかわいらしいお嬢さんでした。しかしもはやお金の問題ではありません。人の首を救うのかどうかの問題です。私は荷物を積み、パスポートの準備もでき、次の日には娘と家庭教師とともに家を出る予定でした。その時です。共和国護衛兵の一団がマスケット銃を持った私の部屋になだれ込んできました。彼らは飲んだくれて、みすぼらしく、悪い人相をしていました。数人がやってきて、実に下品な言葉遣いで私に行ってはならぬ、そこでおれと言いました。誰もが自由に行動する権利があるから。私もその権利を行使しますと答えました。連中は私の言うことを聞こうともせず、ただ「行ってはならぬ、市民、行ってはならぬ!」と繰り返すだけです。とうとう連中は出て行きました。そのうち二人が戻ってきたとき、私は不安のどん底に突き落とされました。

この二人は悪党のな仲間でしたが、二人は脅しはしませんでした。二人が私に危害を加えるつもりは無いことが分かりました。「マダム」と一人が云いました。「我々は隣人だから、忠告しにきたのです。出来るだけ早くここを立ち去りなさい。あなたはここにはもう住めない。あなたが気の毒だとは思います。しかし、馬車で行ってはいけない。駅馬車でいきなさい。ずっと安全です。」私は心から二人に感謝し、忠告に従いました。同時五、六歳だった娘を連れて行きたかったので、席を三つ予約しました。しかし、2週間たつまでは娘と家庭教師の身の安全は確信できませんでした。亡命した人は皆駅馬車に乗ったからです。ついにその日がやってきたのです。

10月5日のことでした。王と王妃がパイクに取り囲まれて、ベルサイユからパリに連れてこられました。その日の出来事で、両陛下と高貴な方々の運命が心配で仕方がありませんでした。深夜心は乱れながらも、私は駅馬車に向かいました。私はフォブール・サントアーヌの検問が不安でしたが、なんとかバリエール・ド・トローヌに到着できたのです。弟と主人は駅馬車の扉から離れずに、この門まで付きそってくれました。私が不安だった郊外は全く静かでした。住民や職人その他は国王の家族を捕えにベルサイユに行き、疲れ切って眠ていたのです。

駅馬車の向かい側には薄汚い男が一人いました。疫病のような嫌な匂いがしました。この男は平気で時計その他を盗んで来たことを話しました。幸いなことに欲しくなるようなものが私には無いとみました。私は衣類をほんのちょっぴりと80ルイを持っているだけでした。私の重要な資産や宝石はパリに置いてきました。私の苦労の成果は私の主人が握っており、彼は全部使い果たしてしまいました。私は外国ではの収入だけで生活していきました。

彼の手柄を話すだけでは満足できず、ひっきりなしに有名人を並べたて、私の知人の名前も数多くしゃべりました。娘はこの男が悪い男だと思い、怖がってしまいました。そこで私は勇気をふるって「お願いですから、子供の前では人殺しの話はしないでください」といいました。これで彼は黙まりました。そして娘と戦争ごっこを始めました。私が座っていた座席にはグルノーブルからやってきた狂ったジャコバンが座っていました。50歳くらいでしょうか、顔色の悪い男で、食事のために宿屋で馬車を降りるたびに非常に恐ろしい話を乱暴な調子でしゃべりました。すべての町では、群衆がパリのニュースを知ろうと駅馬車をとめました。「諸君、すべて順調だ!パン屋とおかみさんはパリでは大丈夫だよ。新しい憲法が作成されることになる。連中は受け入れざるを得ないはずだ。そうなれば、すべて終わりだ。」この男をまるで賢者であるかのように信用しているバカがいっぱいいました。あれやこれやで私の旅は憂鬱でした。私自身にはもう恐怖はありませんでした。しかし、私は他の人々のことが心配でした ― 母、弟、私のお友達。私は両陛下のことが大変心配でした。旅行中ずっと、リオンまで来ても、馬に乗った男たちが駅馬車に近づいてきては、王と王妃が殺され、パリは燃えていると話しました。かわいそうに、私の娘は震え上がりました。この娘はお父さんが死に、家が焼け落ちだと思ったのです。彼女を慰めたと思ったら、さらにもう一人の男が現われ、同じ話をしました。

ボーボアザン橋を渡り切ったときの私の気持ちを表すことはできません。これで自由に息をすることができるのです。私はフランスを後にしました。フランスは私の生まれた国です。この国を出てこんなにホットする自分を責めたものです。山々の景色のおかげで、私の悲しい心は慰められました。私はこんなに高い山をかって見たことがありません。サヴォイの山々は、天にも届きそうで、まるで水蒸気と混じり合うようです。私の最初の感動は怖れに近いものでした。知らず知らずに、この光景に慣れ、ついにはこの風景に見とれました。道中の一部で、私はうっとりしました。「タイタンの壁」を眺めているようでした。以後ずっと私はそう呼んでいます。この美しさを満喫しようとして私は馬車からおりましだ。ほんの少し歩いた所で、私は仰天しました。キャノン千発分の威力のある火薬の爆発があったからです。岩から岩へとこだまして、まるで地獄のようです。

私は他の人たちと一緒に、モン・スニ峠にのぼりました。左馬騎手が近づいてきて「奥様はラバに乗った方が良いですよ。歩いて登るのはすごく疲れます」と言いました。私はいつも働いてますから、歩くのには慣れていますと答えると「あはは」という笑いが戻ってきました。「奥様は働いておりません。奥様が誰かみんな知っています。」「じゃあ私は誰なの?」と私は尋ねました。「あなたは絵がお上手なマダム・ルブランです。一同、あなたを無事にお届けできて喜んでおります。」この男がどうして私の名前を知ったのか敢えて憶測しませんでした。ジャコバンが数多くのスパイを持っていたかという証拠です。幸運にも私もう彼らを恐れる必要はなくなりました。

ローマに到着すると同時に、私はフィレンツェの画廊のために自画像を描きました。私はパレットを手にして、キャンパスの前にいる自分を描きました。キャンパスには王妃の姿が白いクレヨンで描いてありました。その後でミス・ピットを描きました。彼女は16歳で、非常にきれいでした。私は彼女をヘベの姿で描きました。雲の上でゴブレットを手にしています。一羽の鷲がゴブレットから飲もうとしています。私は実物の鷲を描きました。私は食べられるのではないかと思いました。ド・ベルニ枢機卿の飼っていた鷲です。このいやな猛禽は、中庭で鎖につながれ屋外に慣れていましたので、部屋の中で私を見ると、怒り狂いは私に飛びかかろうとしました。私は確かに恐い思いをしました。

このころ私はポーランドのポトシュカ伯爵夫人を描きました。彼女は夫と一緒にやってきました。彼女の夫が帰った後、冷静に話しました「あの人は私の三番目の夫ですが、最初の夫を戻すことを今考えています。その人は大酒飲みですが、私には合っていると思います。私はこのポーランドの女性を非常に絵画的に描きました。背景には苔むした優雅があり、水が流れ落ちていました。

ローマに住む楽しみが唯一、愛する国、家族、友人たちを後にした私を慰めてくれました。制作によってローマ市中や郊外を散歩する楽しみを奪われることはありませんでした。私はおしゃべりや質問で楽しみを台無しにされたくないのでいつも一人で宮殿に行き、そこで展示されている、絵画や彫像を見ました。
宮殿はすべて外国人に解放されていました。偉大なローマの貴族たちの親切に非常に感謝しました。一生涯、宮殿や教会で、人生を過ごすことも可能です。信じられないようですが真実です。教会には絵画や途方もない記念碑のすごい宝物がありました。サン・ピエトロの宝物はこの点でよく知られています。建築物に関して、いちばん見事な教会はサン・パオロです。その内部は両側の柱が並んでいます。
レント期間中のローマを見なければ、カトリック教会の偉大な力が分からないでしょう。イースターの日には私はサン・ピエトロ寺院の広場に出かけ、法王が祝福されるの見に参りました。これほど厳粛なものはありません。広大な広場は朝早くから農民や町の住民で埋め尽くされました。じつにいろいろな衣装を着ております。華やかで、色とりどりです。それに数多くの巡礼者もいました。彼らは広場の中央にあるオリエントの花コウ岩のオベリスクのようにじっと立っていました。10時に法王様は全身白い装束で冠をかぶり到着されました。法王様は教会の外の中央の台の上にある、見事な高いビロードの玉座に腰かけられました。枢機卿たちは綺麗な衣装を着て、法王様の周りにいました。彼の健康そうな顔つきからは年齢による疲労は見受けられませんでした。法王様の手は白くてふっくらしておりました。法王様はひざまずいて、祈りを捧げました。その後立ち上がり法王様は"Urbi et Orbi."と言われて祝福をくださいました。そしてまるで電気に打たれたように信徒、外国人、衛兵、その他一同はひざまずきました。その間大砲の音が鳴り引き、この場は一層厳粛になり、動けなくなりました。

祝福を与えられると、枢機卿たちは大量の紙を回廊からまきました。私が聞くところによればこれらは免罪符であるとのことです。みんなが手をのばして、それを取ろうとしました。押し合いへし合いして群衆が熱狂する様を言い表す言葉はありません。法王様が退出されるとき、軍楽隊はファンファーレを鳴らし、衛兵隊は太鼓を打ち鳴らして行進しました。夜になると、サンピエトロ寺院のドームには明かりがつけられました。まず彩色されたガラスを通して光がともされ、次に華麗な白い明かりがともされました。なんと速くこの変化が効果的であるのでしょう。想像もつかないことです。しかしこの光景は珍しいばかりでなく、美しいものでした。サンタンジェロのお城から豪華な花火が打ち上げられました。火薬や火の風船が空に舞い上がりました。最後の仕掛けはこの種のものでは最も華麗でした。このすばらしい花火はティべール川に写り効果を倍化させました。

ローマでは、あらゆるものが素敵でした。大邸宅には哀れなランプはありませんでした。各邸宅には大きな燭台があり、そこから巨大な炎が燃え上がりローマ市のすべてを昼のように明るくしました。この贅沢な照明で、外国人がびっくりするのはローマの市街はマドンナの前で燃えるランプで照らされていることです。

外国人にはカーニバルよりも聖週間の方が魅力的です。私もカーニバルには驚きませんでした。仮面をつけた人たちが幾重にも並んでいました。ハーレキンやプルチネロに変装していました。パリで見かけるのと同じです。違いはローマでは騒動を起こさないことです。一人の若い男がフランスふうの格好をして街を歩いていました。彼はフランスの伊達男をそっくり真似ようとしていましたが、私たちはすぐばれてしまいました。馬車や荷馬車が詰めかけて派手な衣装をした人たちで一杯になりました。今は羽やリボンや鈴をつけていました。召使いたちはスカラムッシューがハーレキンの格好をしていました。しかし全員非常に静かに去っていきました。最後に夕方になると、大砲が鳴り響き、競馬の開始をつけます。これで各気づきます。

上流階級の人なら持っている資産を全て無くしたとしても、ローマほど楽しく夜を過ごせる都市は世界中にありません。城壁の中を散歩するのは楽しみです。コロセウム、キャピトル、パンテオン、柱廊のあるサンピエトロの広場、見事なオベリスク、それに愛らしい噴水には太陽が虹を作ってくれます。陽が沈むころと月の光に照らされると広場は、とても印象的です。用事があるときもないときも、ここを通るときはいつも楽しい思いをしました。

私がローマで非常に驚いたことがあります。日曜日の朝、最下級の女たちが贅沢に飾りたてていました。飾りを身に付け、耳には人造ダイヤモンドの星の耳飾をつけていました。この衣装で彼女らは教会に行くのです。家の者が後に付いていくことがあります。たいていは夫です。夫の職業といえばたいていは召使いです。女たちは家では何もしません。仕事がないので、彼らは非常に貧しいのです。彼女たちはローマ市中の窓で見かけます。花や羽を頭に飾り、顔を化粧しています。彼女たちの衣装の上は見ることができます。衣装は非常に贅沢なもんです。ところが彼女たちの部屋に入るとびっくりします。彼女たちには汚いペチコートしかないのです。私が申し上げたローマの女性たちは貴族の役を演じることができます。ヴィラに出かける季節には、彼女たちは注意してシャッターをおろします。田舎へ出かけたと思い込みたいのです。

ローマの女性はすべて短剣を持って歩く習慣があることを知りました。貴婦人がものを持って歩くとは信じられませんでしたが、風景画家デニスのところに私は間借りをしてましたが、奥さんはローマの女性でしたが、彼女が持って歩いている短剣を私に見せでくれました。男性はといえば、必ず持っています。それがもとで、深刻な悲劇が起こることがあります。私が到着して3日後の晩のことです。街で叫び声を聞き、その後で騒動がありました。私は人をやって何事かを知ろうとしました。男はもう一人を短剣で殺したというのです。この特異な習慣で私はとても怖くなりました。外国人はこわがることはないと言われました。これはたんにイタリア人同士の復讐の問題にすぎないとも言われました。この場合に関して言えば、殺人者と犠牲者は10年前に争いごとをしており、敵を見つけ、直ちに短剣で刺し殺したのだという話でした。イタリア人はずいぶん長い間、怨みより抱き続けていることの証拠です。

上流階級の習慣はそれより穏健であることは確かです。上流階級はヨーロッパ中ほとんど同じだからです。しかしながら、私は絵画以外には何の判断力も持ち合わせていない女ですし、私にはいろんなパーティーの招待がありました。私はローマの貴族の夫人とお知り合いになる余裕はありませんでした。これはフランス人の仲間を求めていた他の亡命者たちも同様でした。1789年と1790年にはローマはフランスの亡命者たちで溢れかえりました。私のほとんど知っていましたので、すぐに友達ができました。ジョゼフ・ド・モナコ公女とフルーリ公爵夫人、それに貴族の方々が到着されるのを見ました。ジョゼフ・ド・モナコ公女は、顔が魅力的で、人柄も優しく魅力的な方でした。彼女にとって不幸なことでしたが、彼女はローマにとどまりませんでした。彼女の子供達に残されたわずかの資産のためにパリに戻りました。彼女は恐怖政治のときにパリにいました。投獄され、死刑の判決を受け、断頭台に上りました。

多くの人たちがローマに到着して、多くのお知らせを受け、毎日泣いたり笑ったりしました。たいていは悲しい話でしたが、たまにはうれしい話もありました。たとえばこんな話です。私が国を出てすぐ後ですが、国王はご自身の肖像を描いてもらうように言われました。国王は「いや私はマダム・ルブランが帰るのを待っている。王妃の肖像にマッチするような私の肖像を彼女に描いてもらいたいのだ。ムッシュー・ド・ラ・ペルーズに世界一周の指令を出しているところを、全身像で描いて欲しいのだ」とお答えになったそうです。

第四章終わり

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