2008年4月18日金曜日


第11章  家庭内の事

私は一人の男性についてお話しすることにします。時々お会いしてましたし親しくして頂きました。この方は王冠を頂かれたのですが。今では、サンクトペテルスブルグに一市民として生活しておられます。この方はスタニスラウス・アウグストゥス・ポニアトフスキーと言いポーランドの最後の国王です。私がまだ若いころ、この方が国王になる前ですが、マダム・ジョフリンのお宅に集まっていた。人たちからお噂をうかがったことがあります。この方はマダム・ジョフリンのお宅に食事に見えることがありました。この当時のお仲間は、この方の親しみやすさと風采を賞賛していました。

スタニスラウス・アウグストゥス・ポニアトフスキーは、優しく勇敢でした。おそらく、彼には国内の反乱勢力を抑える精力に欠けていたのでしょう。彼は貴族や人民の意見に従うよう最大限の努力をしました。彼は一部成功しました。ポーランドを獲得しようとする、近隣の三大強国の企みに加えて、内部にさまざまな混乱する諸問題を抱えていました。彼が勝利したとしたら、奇跡でしたでしょう。彼はとうとう屈服してグロドゥノに引きこもりました。彼の王国を分割したロシア、プロイセン、オーストリアから年金を受けて生活していたのです。

エカテリナ二世の死後、皇帝パーベルはポニアトフスキーを彼の戴冠式に招待しました。非常に長い式典の間前国王は立っていました。彼の全盛時代を思うとき、みなは心を痛めました。その後、彼がサンクトペテルスブルグに滞在することを願い出たときは、パーベルは彼を丁重に扱いました。ネバ川の埠頭から見える大理石の宮殿に彼を住まわせたのです。

ポーランド国王には快適な住居が与えられました。彼にふさわしい社交界もできました。ほとんどはフランス人でしたが、一部彼の好きな外国人もいました。彼は私を見つけるや、私をパーティーに招待し、ウィーンのカウニッツ公のように、「親愛なる友人」と呼んでくださいました。私が大変感激しましたのは、彼が国王時代に私とワルシャワで帰った後に繰り返し言って下さったことです。事実私は覚えております。誰かが私がポーランドに行く予定であることを彼に告げました。彼は特別にもてなしただろうにと言いました。過去について言うことは大変苦痛だったに違いありません。

彼は非常に背が高く、顔立ちがよく、上品で親切そうでした。彼は声が大きく、歩くときの姿勢は真っ直ぐでしたが、決して驕る様子はありませんでした。彼は非常に文学を愛し、知識がありましたので、彼の会話は非常に魅力的でした。彼は美術の熱烈な愛好家で、国王時代には、いつもワルシャワの画家のスタジオを訪問しました。彼は想像できないぐらい、思いやりがある方でした。その証拠が一つあります。でも思い出すたびに私は恥ずかしくなります。私が絵を書いていた時のことです。モデルの方以外どんな方であっても、私はお会いすることを断ってきました。そのため一度ならず、私は仕事中に訪問された方に失礼をしました。ある朝私は肖像画を完成しようと夢中になっていました。そこへポーランド国王が訪問されました。私は馬の音を聞きました。私はてっきり訪問客だと思い込んでいました。私は仕事に夢中で腹が立ったので、彼がドアを開けた瞬間「私はいません!」と叫びました。国王は一言も言わずに外套を着て出て行かれました。私はパレットを置き、冷静に自分のしたことを思い出しました。私は非常に気がとがめて、その晩早速、国王のもとに行き、言い訳をして許しを乞いました。「今朝は大変なもてなしをしてくれましたね!」と彼は私を見つめて言いました。「よくわかりますよ。忙しい画家が仕事の邪魔をされると我慢ならないでしょう。信じてください。私は怒ってはいません」彼は親切にも、夕食までいるように言いました。私の失礼には一切触れませんでした。

私はポーランド国王のささやかな夕食会を欠席したことはほとんどありません。イギリスのロシア大使ウィットワース卿とド・リヴィエール侯爵も同じでした。三人とも大宴会よりもこのような親密な集まりが好きでした。夕食後には決まって楽しいお喋りがありました。特に国王は興味深い逸話を一杯ご存知でしたので楽しいものでした。私がいつもの招待に伺ったある晩のことです。国王の様子がただならないのに驚きました。彼の左目が特にひどくて、びっくりしました。帰りに際、私は階段で、ウィットワース卿と私に腕を貸してくれたド・リヴィエール侯爵に「私は国王のことが非常に心配ですけど」と言いました。二人は「どうして?非常に体調が良いようだったし、いつものようにお話ししてたよ」と言いました。「私はいつも予言があたりませんが、彼の目は普通ではありません。国王の死は間近だと思います」ああ!私の予言は一度だけ的中してしまいました。次の日、国王は卒中で死亡されました。数日後彼は、エカテリナの近くの城塞に埋葬されました。私は彼の死亡を聞き深い悲しみに襲われました。ポーランド国王を知る人はすべて同じ気持ちでした。私は目の表情を見誤ることはないのです。ド・マザラン公爵夫人に最後にお会いしたときのことです。彼女は健康そのもので、誰も変化を見ることがありませんでした。私は夫に「公爵夫人の命は1カ月と持たない」と言いました。私の予言はあたりました。

スタニスラウス.・ポニアトスキーは結婚しませんでした。姪が一人と甥が二人いました。年上の甥はジョゼフ・ポニアトスキーです。彼はその軍事的才能と勇気で「ポーランドの鹿毛」と呼ばれていました。私がサンクト・ペテルスブルグでお会いしたときは、彼は25歳から27歳ぐらいと見受けました。額はすでに髪が薄くなっていましたが、顔は非常にハンサムでした。目鼻だちは素晴らしく整っており、高貴な精神を表しておりました。彼は驚嘆すべき勇気と取ることのその後の戦争で軍事的知識を示しました。一般の人はすでに偉大なる指導者と呼んでおりました。私は彼にお会いして、この若さでこのような名声を得たのに驚きました。サンクト・ペテルスブルグではすべての人が競って彼を歓迎し、もてなしました。大規模な晩さん会が彼のために開かれ、私も呼ばれました。女性たちは私に肖像画を描いてもらうように言いました。彼は特徴である謙虚さで「マダム・ルブランに描いてもらうには、もう少し戦争に勝たなければなりません」と答えました。

私がジョゼフ・ポニアトスキーとパリで再会したとき、あまりの変わりように、最初は彼と気づきませんでした。その上で、さらに彼はひどいカツラをかぶっており、それですっかり変わってしまったのです。それでも彼の名声は高く、彼の美貌が失われても、彼が落胆することはなかったのです。彼はナポレオンの指揮のもとにドイツに戦闘に出かける準備をしていました。彼はポーランド人としてナポレオンの忠実な同盟者だったのです。1812年から1813年までのこの戦闘で彼が示した英雄的行動と彼の高貴な経歴を終わらせた悲劇的な事故はよく知られております。

ジョゼフ・ポニアトキーの弟は全然似ていませんでした。彼は痩せこけて冷たい感じの人でした。私は彼をサンクト・ペテルスブルグで間近に見るました。私が記憶しているのはある朝のことです。彼は私の家を訪問してストロガノフ伯爵の肖像を眺めました。彼が関心があったのは額縁だけでした。それでも、必ず彼は絵が好きであるふりをしました。素描が上手な絵描きの意見を受け売りしました。この画家の特徴はラファエロのスケッチを模倣することでした。その結果、フランス派に対する軽蔑を抱いていました。
ポーランド国王の姪であるマダム・メニチェクは私に親切でした。パリで彼女に再会できて私は大喜びしました。サンクトペテルスブルグで、彼女は当時ほんの子供であった娘の絵を描かせてくれました。それと、彼女の伯父にあたるポーランド国王をアンリ四世風の衣装で描きました。この魅力的な国王の肖像画は私が自分のためにとってあります。

私の旅行中いちばん嬉しかった思い出の一つがあります。私はサンクト・ペテルスブルグのアカデミー会員に選ばれました。当時、美術部門の会長であった。ストロガノフ伯爵が私の就任の日取りを知らせてくれました。私はアマゾン風のアカデミー会員の制服を注文しました。紫色のヴェスト、黄色のスカート、黒い帽子と羽飾りでした。9時に私が到着した部屋は長い絵画陳列室に通じており、その奥にストロガノフ伯爵がテーブルに向かっているのが見えました。私は彼の部屋に来るように言われました。このため、私はその長い絵画陳列室を通らなければなりませんでした。そこには何段ものベンチが置かれ、観客でいっぱいでした。観客の仲に何人が友人や知人を見かけましたので、私は迷うことなく陳列室の奥にたどり着くことができました。伯爵は私に短い賛辞を述べ、皇帝の代理としてアカデミーの会員であるという証書を授与しました。全員が拍手し。私は感動して涙を流しました。私はこの感動的な場面を一生忘れないでしょう。その夜私はこの光景を見た人たちにと会いました。みなさんは観客でいっぱいの絵画陳列室を通った私の勇気を口にしました。「私はみなさんの表情から、ご親切にも、私に挨拶に来てだったのだと思いましたので」と答えました。私は早速、サンクトペテルスブルグのアカデミーのために自画像を制作しました。パレットを手にして絵に向かっている私自身を描きました。

私の人生での楽しい思い出ばかりを話して、つい悲しみ、サンクトペテルスブルグでの平安と幸福をかき乱す不安について語る時を引き延ばしてきました。しかしここでこの悲しい事柄についてお話しすることにしましょう。

私の娘は17歳になりました。彼女はすべての点で魅力的でした。彼女の輝く大きな瞳、ちょっぴり上を向いた鼻、かわいらしい口元、すばらしい歯並み、まばゆいような白い肌 ― すべてが、かわいらしい顔立ちにしていました。彼女の体格と言えば、背は高からず、しなやかですが痩せてはいませんでした。仕草と心が活発ですが、自然な風格が彼女全体に備わっていました。彼女の記憶力は素晴らしいものでした。彼女が授業で習ったこと読んだことを忘れることはありませんでした。彼女の声を聞くのは楽しいものでした。彼女はイタリア語で上手に歌うことができました。ナポリとサンクト・ペテルスブルグでは、彼女に歌の先生をつけました。さらに英語とドイツ語の先生もつけました。さらに彼女はピアノやギターで伴奏することもできました。なによりも私が有頂天になったのは彼女の絵の素質です。私はどれほど彼女の才能に怒りと満足を覚えたことでしょう。私の娘は私の人生の幸福であり、私の老後の喜びであり、私を上回ったとしても驚くことではありませんでした。私の友人たちが「お嬢さんを溺愛して彼女に従っているのではないの?」と言いました。私は「ご覧のように、私の娘は誰からも愛されています」と答えたものです。事実、サンクトペテルスブルグの有名人は彼女を褒め、呼びました。私は娘と必ず一緒に招待を受けました。社交界での彼女の成功は私をはるかに上回るものでした。

私は朝のうちはスタジオを出ることはめったにありませんでした。私はチェルニチェフ伯爵夫人がソリで遠出する時娘を乗せてもらうことがありました。娘はソリが大好きでしたし、伯爵夫人は娘と夜を過ごすこともありました。そこでチェルニチェフ伯爵の秘書であるニグリスと出会いました。このムッシュー・ニグリスは、かなり風采の良いでした。彼は30歳ぐらいだったと思います。彼の能力に関して言えば、彼は絵が少々描け、字はきれいに書きました。仕草は穏やかで、ちょっと暗い表情、それに青白い肌で.ロマンチックな雰囲気がありました。私の娘がこれに惹かれ、彼と恋に落ちました。直ちにチェルニチェフ家の人々は協議して、彼を私の婿にしようと企んだのです。ことの次第を知らされて私の嘆きがいかばかりであったかは、ご想像にお任せします。私の娘たった一人の子供を才能もなく、財産もなく、名前もない男に呉れてやるなんて!私はムッシュー・ニグリスについて調査しました。彼のことをよく言う人もいましたが、悪く言う人もいました。私が決断しかねるうちに日にちは経つばかりました。

私は娘にこの結婚で幸せになれることがないということを理解させようとしましたが、結局無駄でした。彼女の頭は向こうに行ってしまい、私の愛情や経験からは、何も取ろうとしませんでした。その一方で、私の同意を取り付けようとする人たちはあらゆる画策を労して、私から切り離そうとしました。ムッシュー・ニグリスは娘を連れ出して、どこか田舎の宿屋で結婚しようとしているという話も聞きました。かけ落ちとか秘密の結婚は信じていませんでした。ムッシュー・ニグリスは財産もありませんし、彼と親しくなった家族も有り余る金を持っているわけではありません。私は皇帝の名前で脅されたことがあります。私は「それでは皇帝に申しあげましょう。世界中の全皇帝よりも古くからの正当な権利を持っているのは母親です」と言いました。信じられませんでしょう?私に陰謀を企てた人たちは、悩んだ末に私が折れると思っていたのです。この人たちはすでに持参金をほのめかしていました。私が大変金持ちだと思われていたのです。ナポリ王国から大使がやってきて、私の資産をはるかに上回る金額を貸してくれと頼みに来ました。私はポケットに八十涙を持ってフランスを出ました。そして私の蓄えの一部はヴェニス銀行で失いました。

陰謀家が広め、各方面から繰り返された悪意の馬鹿げた中傷には我慢できたでしょう。耐えられなかったのは、我が娘がよそよそしくなり、私を信用しなくなったことです。昔からの家庭教師であるマダム・シャロは私の知らぬ間に娘に小説を読ませていたのです。彼女は完全に娘の心をつかみ、私に敵意を持たせようとしました。母親の愛情も彼女の影響に立ち向かうことはできませんでした。ついに痩せはて娘は病気になりました。そこで私も降伏せざるを得なくなりムッシュー・ルブランに結婚の承認の返事を送るように手紙を書きました。ムッシュー・ルブランは最近の手紙で、絵の世界で今評判のゲランと娘を結婚させたいと書いてきました。私はこの話に関心にありましたが、それどころではありませんでした。私はムッシュー・ルブランに書き送りました。私たちには一人しかない子供だから彼女の希望と幸福のためにすべてを犠牲にしようと思わせました。

手紙送って、私の娘が回復するのを見て満足しました。ですが、私の娘から得たものは満足だけでした。パリとの距離のために、父親の返事はずいぶん遅れました。何者かが娘をたぶらかしたのです。私がムッシュー・ルブランに彼女の幸福を妨害するように書いたと。このような疑いに私は傷つきました。私は再び手紙を何通も書きました。私の手紙を彼女に読ませ彼女に与えました。そうすれば彼女自身が投函できます。これほどまでに尽くしても娘は、夢から覚めませんでした。彼女に絶え間なく注ぐ不信で、彼女はある日言いました。「確かにお母さんの手紙を出したけども、きっと反対の手紙を書いているに違いないわ」私は驚き、胸がつぶれる思いでした。ちょうどそのとき、郵便配達人がムッシュー・ルブランの同意する旨の手紙を届けました。普通の母親ならこんな時は詫びとか感謝を期待するものです。しかし、悪意のある人たちがどれほど娘の心をつかんだかを理解していただくために、私は告白いたしましょう。この残酷な娘は私が娘のためにすべての願いも希望も憎しみも捨ててしてきたことに何らの感謝も示しませんでした。

それでも結婚式は数日後にとり行われました。私は娘に素敵な結婚衣裳と宝石をあげました。大きなダイヤのブレスレットもありました。そこに彼女の父親の絵を描きました。彼女の持参金と私がサンクト・ペテルスブルグで描いた肖像画は銀行家リビオに預けました。

娘の結婚式の翌日、私は娘に会いに行きました。娘は、この幸せにもてのぼせている様子もなく平然としていました。二週間後に私は娘の家に行き「彼と結婚できたんだから幸せでしょう?」とたずねました。ムッシュー・ニグリスは誰かと話をしていて、わたしたちには背中を向けていました。彼はひどい風邪を引いていたので、肩に重いコートを着ていました。彼女は「あのコートは幻滅だわ。あんな格好の男に私がまいると思う?かくして二週間で愛は覚めたのです。

私はと言えば、我が人生の魅力のすべてが破壊され、もう取り返しがつきませんでした。我が娘を愛する喜びもなくなりました。でも娘の仕打ちにもかかわらず私が依然として娘を愛していたことは神様はご存知のはず。母親だけが私を理解してくれるでしょう。結婚をまもなく娘は天然痘にかかりました。私がこの強い病気にかかったことはありませんでした。皆が引き留めましたが、私は病床に駆け付けました。彼女の顔は膨れ上がって私は恐怖に震えるました。でも私が恐れたのは、娘のことでした。病気が続いている間、私は一瞬たりとも、自分のことは考えませんでした。彼女が病気から回復して跡が残っていないのを見て、私は喜びました。

だから私はモスクワに立つことにしました。私はサンクト・ペテルスブルグから移りたかったのです。ここでは私は健康に影響するほど苦しみました。結婚後、持ちあがった忌まわしい話が私に印象を与えたからではありません。逆に私の人柄を中傷した人々は不正を悔やんでいました。それでも私は過去の数カ月の記憶をぬぐうことはできませんでした。私は惨めでしたが、災難をひとりで背負いました。私は誰の悪口もいませんでした。私は親友にも沈黙を守りました。娘と娘が私に息子としてくれた男に関しても何も言いませんでした。弟からはもう一つの不幸知らされてから、しばしが手紙を出していましたが、弟にも沈黙を守りました。私の人生でこのときは涙にくれました。母を失ったのです。

気をそらし景色を変えることによって悲しみからの解放がたかったのです。皇后マリアの等身大の肖像画と半分の大きさの肖像画を急ぎ、1800年10月15日にモスクワに向かいました。

第11章終わり

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