
第13章 さようならロシア
私は充分に回復して、私の出国とお別れの挨拶をしました。私に留まるように、いろんな説得がありました。私がサンクトペテルスブルグで受け取っていたい以上の謝礼を払うという申し出もありました。そうすれば、疲れることもなく、作品を完成させることができるからです。今思い出しますのは出発直前の日でした。家の一階で荷物の準備をしていたところです。突然私の前に予告もなく、白いコートを着た大きな男が現われました。それを見たとき、私は死ぬほど驚きました。モスクワでも、パーベルは絶えず多くの人をシベリアに送っていたからです。二人だけですがフランス人も流刑されました ― 二人とも、ロシアを誹謗する記事を書いたのです。そこで私は、この男がパーベルの密偵であると思い込みました。彼がモスクワを出て行かないでくれ、家族全員の絵を描いてくれと頼むのを聞いて、私はようやく胸をなで下ろしました。この最後の要請に私は心を動かされ、私の健康状態のせいで、この要請に答えられないのが残念でした。私は今確信してますが、そのとき進められていた陰謀に加わっていた人たちから二、三日出発を見合わせるように言われました。この人たちは、いっしょにサンクト・ペテルスブルグに行くと約束してくれました。しかし私はこの陰謀を全く知りませんでしたので、どうしても出発すると言いはりました。これは大失敗でした。もう少し待てば、あのひどい道路で体験した苦労をしなくても済んだのです。道路は雪解けで、ほとんど通行不可能でした。
1801年3月12日のことでした。私はモスクワと、サンクト・ペテルスブルグの中間にいましたが、パーベルの死亡のニュースを聞きました。郵便局の前には多くの密使が各地に知らせを伝えていました。彼らが馬を全部使いますので。私には馬が一頭もありませんでした。しかたがないので、私は馬車に乗っていました。馬車は川の堤の道端においてありました。厳しい風が吹いてきて、私は凍えそうになりました。しかし、夜は馬車で過ごさざるを得ませんでした。ついに私は馬を何とかして雇い、翌朝の8時か9時に、サンクト・ペテルスブルグに到着しました。
みなは大喜びでした。街ではみな歌い踊り互いにキスを交わししていました。私の知人も馬車に駆け寄り、私の手を握り「万歳」と叫びました。家々は一晩中明かりがともされていました。要するに、この哀れな皇帝の死に皆が大喜びだったのです。
この恐るべき事件の詳細について一切秘密はありませんでした。私は断定できますが、私がその日聞いた話はみな同じでした。首謀者の一人パルへンはありとあらゆる手段を使ってパーベルに、皇后と子供が玉座を狙っていると脅しました。
パーベルはいつも猜疑心の虜でしたから、偽りの情報を信じこみました。彼は激怒してとうとう皇后と大公たちを要塞に閉じ込めるように命じました。パルへンは皇帝のサインにの許可がない限り、従えないと言いました。パーベルはサインをしました。パルへンは直ちにその文章を持ってで、アレクサンドルのもとに行きました。「ご覧ください。父上は狂っておられます。私たちが機先を制して陛下を閉じ込めなければ、あなた様の命はありません」。アレクサンドルは彼と家族の生命が危険であると信じましたが、この話に黙って同意しただけです。これはただ狂人を隔離するという提案だったと思われます。しかしながら、パルへンと共謀者はさらに徹底することが必要だと考えました。首謀者のうち5人が暗殺を実行しました。一人はプラト・ズーボフ、エカテリナのかっての寵臣であり、パーベルが流刑から呼びもどし可愛がった人物でした。パーベルが寝室に入ってから5人は忍び込みました。扉に入った二人の防衛平和勇敢に守りましたが、二人の抵抗は無駄でした。一人は死にました。激昂した男たちが部屋に入り込むの見て、パーベルはベッドから起きました。彼は力が強かったので、暗殺者と長い間争いました。とうとう彼らは皇帝を肘掛け椅子で閉め殺しました。この哀れな人物の最後の言葉は「ズーボフお前もか?私はお前は友人だと思っていたぞ」でした。
この陰謀は成功したのは、すべての点で偶然が幸いしていたと思われます。連隊が、宮殿を取り囲んでいました。大佐は陰謀団の会議には全く関わっておらず、皇帝の命を狙う試みは失敗するに決まってると信じ込んでいました。連隊の一部がにはを頭で、パーベルの窓の下の部署に付く所でした。あいにくパーベルは兵士の行進で目が冷めませんでした。いつも屋根の上にいるカラスの群れの鳴き声でも目が冷めませんでした。文字目が覚めていたが、この不運な皇帝は、部屋の隣にある秘密の階段に行けたはずです。その階段を降りて、彼が全幅の信頼をおいていたマダム・ナリシキンの部屋に行けたでしょう。そうなれば、宮殿横の運河につけてある小舟で脱出することはいとも容易でした。さらに、皇帝が皇后に抱いていた不信から、彼は皇后の部屋を分ける扉にである扉に二重に鍵をかけていました。扉から逃げようとしても手遅れでした。暗殺者たちは用心のために鍵を取っておきました。その上さらに忠実な召使いであるクタイソフ殺人が行われたその日、ボを暴露する手紙を受け取ったでいました。しかしこの男は彼の義務を怠ったのです。手紙をきちんと読まなかったのです。クタイソフは、陰謀を暴露する手紙をテーブルに置いたままでした。次の日手紙を開いて、この哀れな男は絶望的な状況に陥り、今にも死にそうでした。軍隊を宮殿に配置した大佐も同様でした。この若い士官、名前はタレシンですが、犯行が実行されたことを知り、だまされたことで嘆き、高熱を発して帰宅しました。この熱で重体に陥りました。事実、全く無実の彼はこの衝撃で長く生きられなかったと思います。しかし私がはっきり覚えていることがあります。アレクサンドル一世は彼の病気の間、毎日見舞いに行き、患者の家の近くでの射撃の練習を禁じたことです。
私が申しあげましたように、パーベルの暗殺にはさまざまの障害がありました。結論的にはこの計画の考案者は結果については疑っていなかったと思われます。サンクト・ペテルスブルグの人々はすべて知ってますが、この事件の夜、この陰謀に加わってハンサムな青年S―kyは、かなりの数の仲間といっしょにいました。彼は深夜時計を出して「もうすべて終わったのはずだ」と言いました。事実パーベルは死にました。彼の死体は直ちに防腐処置が施され、6週間安置されました。顔を見ることができましたが、顔ほとんど変わってはいませんでした。紅を塗っていたからです。未亡人のマリア皇后は毎日、ベッドにひざまずいて祈りを捧げるました。一番若い子供のニコラスとミカエルを連れていきました。まだ幼いニコラスはある日、母親に「どうしてお父さんはいつも寝てるの?」と尋ねました。
アレクサンドル一世に父親の追放を同意させるための策略 ― 彼はこの事件知りませんでした ― はストロガノフ伯爵が認めた事実です。ストロガノフ伯爵は非常に賢く、正直な人ですがロシアの宮廷のことならいちばんよく知っている人です。この哀れな人物は、いつも猜疑心にさいなまれていましたから、皇后と自分の息子を牢獄に入れる命令にサインさせるのは、非常に容易であったことを伯爵は疑ってはいませんでした。暗殺のその夜に宮廷の大コンサートがありました。皇帝の家族は全員出席していました。ストロガノフ伯爵との私的な会話で、皇帝は彼に「君はわしのことを非常に幸福な人間だと思うだろう。わしは聖ミカエル宮殿に住むことになった。この宮殿は私が立てたし、わしの好みに合わせた。わしはここで初めて家族といっしょに住むことになった。皇后まだ若く見えるし。長男もいい男だし、娘たちも器量が良い。わしと正反対だ。あいつらを見ると、みんなわしを殺そうとしているように見える」ストロガノフ伯爵は恐れをなし、後ずさりして「陛下のそばに誰かがいます。これは不名誉な中傷です」と叫びました。パーベルは伯爵をやつれた目で見つめ、彼の手を抑えて「わしが言ったことは真実だ」と断言しました。
私は心底信じてますが、アレクサンドルは父親の命にかかわる企てを全く知りませんでした。私が当時知ったすべての事実が充分ではないとしても、皇太子のよく知られた性格から確信しております。アレクサンドル一世は高貴で、寛大な心の持ち主でした。信心深いのみならず、非常に正直であり、政治においても策略や欺瞞に頼る人だと思われていませんでした。パーベルが死去したことを知ったとき、彼の嘆きは激しく、彼に近づいた人は皆、彼が暗殺に加わっていないことを確信しました。怒り狡猾な人であっても、彼のようには涙を流すことはできなかったでしょう。彼の嘆きですぐに皇帝になることを拒絶しました。皇太子妃のエリザベスが、彼の前にひざまずいて帝国の統治者になるよう嘆願していたのを知っております。アレクサンドルは皇后である母のもとに行きました。彼女は彼を見るや、遠くから「行きなさい!行きなさい!お前は父親の血にまみれている」と言いました。アレクサンドルは、涙ながらに天に向かい、心の底から「母上、神に誓って申しあげます。私はこのような恐ろしい罪を命じた覚えはありません!」この言葉が真実の印を帯びていたので、母親は彼の話を聞くことにしました。彼女は陰謀家が計画を実行するために息子をだましたこと知り、ひざまずき「では、私が皇帝に臣下の礼をとります」と言いました。アレクサンドルは彼女を立ち上げ今度は、彼女の前にひざまずきました。彼は母親の腕をとり敬意と愛のしるしを与えました。彼はこの愛に偽ることはありませんでした。彼は生涯母親の言うことを聞きました。この上に対する敬意は非常なもので、彼女に対する宮廷のマナーを、従来同様に維持することを主張しました。かくして、彼女は常に皇后エリザベスの上座に居ました。
パーベルが死にましたが、通常支配者の交代によって騒動があるものですが、何もありませんでした。パーベルの恩顧にあずかった人たちは、その報酬を維持し続けるました。パーベルの付き人であるクタイソフ、パーベルのおかげで、大金持ちになった床屋であり、ロシアの最高勲章を受けましたが、ご主人のお金で悠々自適の暮らしをしました。パーベルの友人たちの分け前に変化がないとしても、犠牲者には変化がありました。流刑者たちは帰され、財産は返還され、数知れぬ気まぐれの犠牲になった人々に正義が施されました。実際、ロシアの黄金時代が始まりました。ロシア人の新皇帝に対する愛と尊敬と熱狂を見るとき、これを否定することはできません。この熱狂ぶりは大変なもので、すべての人は、アレクサンドルを一目でも見たいと願ったものです。彼が夜夏宮殿に出かけたり、サンクト・ペテルスブルグの街を歩こうものなら、群衆は彼の周りを取り囲み、彼を祝福しました。一方慈悲深い彼はこの上ない優雅さで、彼らの歓声に答えました。私は戴冠式のためにモスクワに行くことはできませんでしたが、モスクワにいた人に聞くと、この上なく感動的で美しいものだったそうです。人々の喜びは街や教会に満ちあふれていました。アレクサンドルが皇后エリザベスの頭に美しく光り輝くダイアモンドの冠を授けたとき、美しいカップルにものすごい歓声が上がりました。
この全国的な喜びのさなかに私は幸運にも、サンクト・ペテルスブルグに到着して数日後に波止場で皇帝にお目にかかりました。彼は馬に乗っておられました。パーベルの勅令はもちろん廃止されておりましたが、私は馬車をとめて、アレクサンドルが通るのを喜んでお見送りしました。彼は直ちに私の方に馬をすすめ、モスクワの感想と道が大変ではなかったかと尋ねられました。私はあのような見事な街で、充分にその素晴らしい景色を眺められるなくて残念でしたと答えました。道路に関しては、私は大変だったと申しました。彼も同じ店でのさなければならないと言っておりました。その後わたしに優しいお言葉をかけて立ち去られました。
翌日ストロガノフ伯爵は皇帝のことで、私どもの家を訪れました。皇帝の半身像さらに騎馬像も描くようにという命令でした。このうわさが広がりと多くの人が私の家を押し掛けました。どちらかの模写を欲しいというのです。彼らにしてみれば、アレクサンドルの肖像画でさえあればどちらでも良かったです。私の人生で、今回こそは財をなす機会だったでしょう。でもああ私に付きまとう精神的な悩みもさることながら、私の体の状態から、この機会を生かすことができませんでした。全身像を制作するのは無理と感し、皇帝のパステルの胸像画と皇后のも描きました。サンクト・ペテルスブルグを後にする場合には、これをドレスデンかベルリンで拡大することにしました。まもなくその日がやってきました。私の病状が耐えがたくなりました。私が診てもらったお医者さんはカールスバードで温泉治療をすることを勧めました。
サンクト・ペテルスブルグを去るときの名残おしい気持は言い表せないものでした。この都市での生活は大変幸せでした。私が娘に別れを告げるとき心が痛みました。娘の心が私から離れているのを見るのは辛いものでした。娘は悪意ある家庭教師を中心とする一派の言うなりでした。すべて不幸なことは、この家庭教師のせいです。私の出発の数日前、私の婿は私が財をなす絶好の機会にサンクト・ペテルスブルグを去るのは考えられないと言いました。私は「私の心が痛みます。その理由は分かりになるはずです」と答えていました。
他の方々との別れの辛さも同様でした。クラーキン公女、ドルゴルキ公女、素敵なストロガノフ伯爵からは、私は数々の友情の印を頂きました。 ― この方々と別れることは、私が断念した財産よりはるかに残念なことでした。私は覚えてますが、この優しい伯爵は私が出発することを聞くとすぐに私の家にやってきました。彼は狼狽して、私が絵を描いているスタジオでオロオロして歩き回り、「彼女が行ってしまうなんて。そんなこと!」とつぶやきました。娘がそこに居合せましたが、彼が狂ったと思いました。行くなんてとつぶやいていましたました。親切に愛着の情を示されましたが、私が答えることができたのは、サンクト・ペテルスブルグに戻るという約束でした。私の強い意志はこのようなものでした。
私が出発を決意したとき、皇后との面会をお願いしました。これは直ちに認められ、私は参内いたしました。そこには皇帝もいらっしゃいました。私は両陛下に心からの遺憾の意を表明しました。私の健康状態で、やむなく、カールスバードで温泉治療に行かなければならないと申しあげました。これに対して、皇帝は優しく答えました。「治療のためにそんなに遠くまで行くことはない。皇后の馬を貸しましょう。馬に乗ったらその内に治ります」。この申し出に私は皇帝に何度となく感謝して、実は馬に乗れないと申しあげました。彼は再び「じゃあ、あなたに乗馬の先生をつけましょう」と申されました。私はこのご親切な心にどれほど感激したことでしょう。両陛下に暇を乞うときには、私の感謝の気持ちを表す言葉を必死に探したものです。
この面接の数日後に立つ宮殿を散歩しておられる皇后とお会いしました。私は娘とムッシュー・ド・リヴィエールと一緒でした。皇后陛下は私に近づき言われました。「お願いですから行かないでくださいマダム・ルブラン。此処にとどまって健康を回復してください。あなたが行ってしまうなんて残念です」私は陛下に、サンクトペテルスブルグに戻り彼女と再会するのが、私の願いであり。そのつもりであることを強く約束いたしました。私が真実を申し上げたことは神様がご存知です。それにもかかわらず、私がロシア滞在をお断りしたことは両陛下に恩知らずと思われるのではないか、またお二人が私をお許しならないのではないかという懸念は、いつもありました。
私がロシアの国境を越えるとき、涙が溢れ出ました。私はもう一度旅路をたどりたいと思いました。私に山ほど友情と献身を下さりと私の記憶に残っている方々の所に戻ると誓いました。しかし運命というものがあります。今でも第二の母国と思っている国を再び見ることはありませんでした。
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