2008年4月18日金曜日


第6章 トリノとウィーン

私はフランスを見たいという希望がありました。こうした目的もあって、私はトリノに行きました。ルイ16世の二人の伯母は親切にも姪のサルディニア王妃、クロティルダに手紙を送ってくださいました。二人は私の描いた肖像画がぜひ欲しいと言われました。私が底に着くと、陛下の前に参上しました。オデライーデ王女とビクトリア王女の手紙を読んだ後、彼女は優しく、私を迎えてくれました。彼女は残念ながら、伯母たちの希望にそえないと言われました。隠遁生活を送っているので、肖像画をも断らなければならないと言いました。私が見た限り彼女の言われることと決心はるような気がしました。さらにニア王妃は髪の毛を短く切り頭には小さな帽子をかぶっていました。これは他の衣装同様、非常に簡素なものでした。彼女は痩せているのに、私はびっくりいたしました。私は彼女が非常に若いときに結婚される前にお会いしていました。彼女はフランスの「肥夫人」と呼ばれていたからです。この変わり様は厳格な宗教的な行いに基づくものか、彼女の一族の幸運で、彼女が被った悩みでこうなったか知りませんが。彼女は分からないほど変わっていました。国王も部屋に入ってられまされましたが、青ざめておられ、お二人を見るのはつらいものでした。

私は直ちにルイ18世の奥方に会いに参りました。彼女は温かく迎えてくれただけではなく、トリノ近郊に素晴らしい景色を馬車で、見物するよう段取りをしてくださいました。私は彼女の事情である。マダム・ド・クビランと彼女の息子と一緒に出かけました。この周囲は非常に美しかったですが、私たちの行楽はそれほど幸運ではありませんでした。私たちは日中の熱いさなかに山の頂上にある修道院をたずねました。山の勾配は非常に急でしたので、途中で歩いて登らなければなりませんでした。記憶では、私たちは清らかな泉を通りました。雫がダイヤモンドのように光っていました。農民たちによれば、この水は万病に効くということです。長時間登っていましたので、私たちは疲れ果てて空腹で死にそうになりながら、ついに修道院に到着しました。テーブルは修道僧や人々のために準備されていました。私たちは大喜びでした。私たちが食事を待ちきれなかったのは、ご想像できるでしょう。時間が遅れましたので、私たちが何か特別のものがでてくると思いました。マダムが修道僧に私たちの紹介状を書いて、その紹介状を私たちに持参させたからです。ついにカエルの胸肉がでてきました。私はチキンのシチュウだと思いました。私はお腹が空いていたのですが、これを食べてもう一口も食べられないと思いました。さらに三皿でてきました。蒸したものあげるフライしたもの、焼いたものでした。ああでも、全部カエルだったのですと私たちは乾いたパンだけを食べ。水を飲みました。この修道は決してお酒を飲まず、ワインを出してくれませんでした。私がぜひとも食べたかったのはオムレツでしたが。ここには卵はなかったのです。

私が初めて修道院でポルポラティに会いました。彼は私にトリノから2マイルのところに彼が持っている農場に住まないかと言うのです。質素ではあるけれども、快適な部屋があると言うのです。私は喜んでこの話を受けました。私は都市生活が嫌いでした。私は直ちに娘と家庭教師と一緒にそこに住むことにしました。この農場は広々とした田舎にありました。周囲は野原で、小川のほとりには高い樹々があり、快適な木陰になっています。この人里離れた素敵な場所で、朝から晩まで私たちは散歩しました。娘は新鮮な空気を吸い、私はこの除かれる静かな場所で生活できました。この農家な場所で、このように幸せな気分でいましたのに、私は打ちのめされました。ある夜、馬車が手紙を届けてくれました。私の義理の妹の兄であるムッシュー・ド・リヴィエールからの手紙を受け取りました。彼は私に8月10日の恐ろしいできごとを知らせてくれました。さらに恐ろしいことを詳細に伝えてくれました。私は打ちのめされすぐにトリノに戻ることにしました。

町に入るや、ああなんという!私が街、広場で見たのは、あらゆる年齢の男女でした。彼らはフランスを逃げ出し、トリノに来て住家を求めていました。何千人もの人たちが町にやってきたのです。この光景に私の心は痛みます。ほとんどの人々は荷物もお金も食べるものも持っていませんでした。この人たちは時間がなくて命からがら逃げてきたんです。同じようなことは高齢のド・ヴィエロア公爵夫人から聞きました。この方のメイドは、ほんのわずかのお金を持っていましたが、逃げる途中で命をつなぐために1日10スーのお金しか使えませんでした。子供達はかわいそうに、お腹が空いて泣いていました。事実、これほど悲惨なことは見たことがありません。サルディニア王はこんな人々に家と食事を与えるように命じました。しかし、引用収容する余裕はありませんでした。マダムは彼らを救うために全力をつくしました。私たちは彼女の侍従に伴われてこの間人たちの家と食事を求めて町中を歩きまわりましたが、必要なだけ調達することはできませんでした。

私が忘れられないのは、ある年老いた兵士でした。彼は65歳ぐらいでしょうか、聖ルイ十字章をつけていました。彼は上品で、風采の良い人でした。彼は侘びしい街角に凭れていました。彼は誰にも何もせびりませんでした。しかし見ただけで、大変な不幸を体験したことは、顔に刻まれていました。私たちは彼のところに行き登っていった。わずかばかりのお金を彼にさしあげました。彼は薄いなりながら私たちに感謝しました。次の日、彼は他の人と一緒に王宮に寝泊まりしていました。町にはもう部屋がなかったからです。私がパリに行く計画を放棄したことは、ご想像できると思います。私はそのかわりにウィーンに出発することにしました。

ウィーンは32の郊外まで含めるとかなり広いのです。大変美しい宮殿がいっぱいあります。帝国美術館には偉大な画家のがありましたので、私はしばしば観賞に参りました。さらにリヒテンシュタイン公のコレクションも見ました。彼の画廊は7部屋あり、そのうち一部屋はヴァン・ダイクの絵だけでした。その他の部屋にはティツイアーノ、ルーベンス、カナレット等の絵が展示されていました。帝国美術館には名の通った画家の傑作がいくつかありました。

プラーテルは存在する散歩道で、最高のものであるという話は残念ながら、真実です。これは長くて、見事な通りで、優雅な馬車が数多くと思っておりました。チュィルリーの大通りのように道の両側には腰をおろした観客がいました。プラーテルが楽しくて、のように美しい理由は、この通りをいくと森があることです。鹿が沢山入って、しかも馴れているので、人が近づいても、鹿は驚かないのです。ドナウ川の堤にも散歩道があります。日曜ごとに中流階級の人たちが集まってはフライドチキンを食べるのです。シェーンブルンの公園も日曜日には人が大勢集まります。広い通りと美しい休憩所が、公園の端の高台にあり、散歩するのがとても楽しいのです。
ウィーンでは、舞踏会に行きました。特にロシア大使ロソモフスキー伯爵の舞踏会にはよく行きました。ウィーンの人たちはワルツを激しく踊りますので、人々がこんなに早くスピンをしてめまいで倒れないのは不思議でした。男女ともに、このはげしい動作に慣れていますので、舞踏会が続く間、片時も休むことはありません。「ポロネーズ」も踊られますが。これはずっと楽です。この踊りは静かに二人ずつで、静かに歩く行進にすぎません。この踊りは綺麗な女性には良いと思います向いています。彼女たちの顔や姿をすべて見る時間があるからです。

私は宮廷の大舞踏会を見てみたいと思いました。私は宮廷舞踏会に招待されました。皇帝フランツ二世が彼の二番目の妻シシリーのマリア・テレサのために開いたものです。私は1792年にこの王女を描きました。でも彼女に舞踏会で会ったとき、彼女はすっかり変わっていて彼女とは見えませんでした。彼女の花は伸び頬はこけてしまい、彼女は父親を恨んでいました。彼女が母親に似てないのは、たいへん気の毒でした。母親を見ると、私はフランスの魅力的な王妃を思い出しました。

ウィーンで、旧交を暖められたのはド・ブリオンヌ伯爵夫人、ド・ロレーヌ公女でした。彼女は私が若い頃に非常に親切でした。私は以前のように、彼女の家で夕ご飯を頂きました。彼女の家で、私は時々勇敢なナッサウ公とお会いしました。彼は戦いにおいてで強く、サロンでは優しくて謙虚な方でした。

コベンチェル伯爵の妹のド・ロンベック伯爵夫人のお宅をしばしば訪問しました。ド・ロンベック伯爵夫人はウィーンの著名人をお宅に招待しました。私がメッテルテルニヒ公と彼のご令息にお会いしたのはここでした。彼は永らく総理大臣をつとめていましたが、単なる若くてハンサムな男性にすぎませんでした。同じ場所で、タクシーは愛想のいいド・リーニュ公とお会いしました。彼は女帝エカテリナ二世に同行してクリミアに楽しい旅をした話をしてくれました。この話を聞いて、私は、この偉大な君主に会いたいという希望が湧いてきました。同じところでド・ギシェ公爵夫人にも出会いました。彼女の愛らしいを顔は全く変わっていませんでした。彼女の母親であるド・ポリニャック公爵夫人はウィーンに近いところにずっと住んでいました。彼女がルイ16世の処刑を知ったのは、ここでした。この話が彼女の健康を損ねました。王妃処刑の恐ろしい知らせを聞いたとき、彼女は倒れました。彼女の悲嘆のせいで、彼女の綺麗な顔が彼女とは思えないほど変わってしまいました。誰もが彼女はあまり、長生きはできないと思いました。事実その通りになりました。彼女はしばらくして死にました。

フランスで起こった恐ろしい出来事が彼女にどのようなものであったかは、私が経験した悲しみから、私にはよくわかりました。私は新聞のニュースを知りませんでした。マダム・ド・ロンベックのお宅で新聞を開いて、私の知人が九人もギロチンにかけられたのを見てしまったからです。みなさんは気を使って政治的なパンフレットを私に見せないようにしました。私は恐ろしい出来事を弟から知りました。彼は些細なことまで書いて送ってくれました。彼はただ、ルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台で消えたと書いてきました。その後、自分自身をいたわる気持ちから、この恐るべき殺人の前後について質問しないことにしました。ですから私は、私が将来語ることになるかもしれない、確実な事実以外はこの日まで何も知りませんでした。

春が来ると、私はウィーン近郊の村フイツィングに一軒の小さな家を借り、そこに引っ越しました。。この村はシェーンブルン公園に隣接していました。私は描きかけていたリヒテンシュタイン公爵夫人の肖像画をフイツィングに運び、そこで完成しました。この公爵夫人は体格がよく、かわいらしい顔をして、表情は優しく、天使のようでした。私は彼女をイリスの女神にすることを思いつきました。彼女にはひらめく虹色のスカーフをまとわせました。もちろん、彼女は裸足でした。この絵がご主人の画廊に飾られたとき、公爵夫人が靴をはいのを見て一族の長は憤慨しました。公爵は私に、この肖像画の下に素敵なスリッパを置いた、という話されました。公爵は両親に彼女がこのスリッパを履いて、すべて地面に落としたと言ったそうです。

ウィーンでは一族や国から離れた人同様に幸せでした。冬はヨーロッパでいちばん華やかな社交界がありましたし、天候が回復すると、私は田舎に引きこもりました。私が無事フランスに戻る前はは、オーストリアを離れることなど考えたこともありませんでした。ところがロシア大使とフランス人が私をサンクトペテルスブルクに行くことを強く勧めました。サンクトペテルスブルクでは女帝が私に会いたいはずだと言いました。ド・リーニュ公がエカテリナ二世について話すことで、私は女帝に一度お目にかかりたいと思うようになりました。私はパリに戻る前に一財産作りたいと思っていましたが、ロシアに短期間滞在するだけで、それが可能だと思うになりました。

二年半のウィーン滞在の後、1795年4月にプラハに向けて発ちました。それからブトワイスに向かいました。この周囲の景色には大変引きつけられました。この町はさびれて、城塞も破壊されていました。老人と女と子供には出会いましたが、それほど多くの人はありませんでした。ついに私はドレスデンに到着しました。途中、エルベ川に沿った高くて狭い道を通りました。川は広い谷を流れていました。到着したその日に私は、世界に類のない、有名なドレスデンの美術館に行きました。ここにある作品は非常によく知られていますので、私は特に説明しません。どこでも言えることですが、この美術館でもラファエロが他の画家たちを断然引き離していることです。私は部屋をいくつか回りました。私はある絵の前に立っていました。その絵は未だかって経験したこともない感動を呼び起こすました。その絵は処女マリアが雲の上に乗り、幼子イエズスを抱いている絵です。この人物像は神聖な絵筆のみが描くことの出来る美しくて高貴な絵です。幼児の顔は無邪気であると同時に天国的な表情をしております。マリアの着衣のひだは正確に描かれており、その彩色は申し分のないものです。マリアの右手には実物どうりに聖人が描かれています。彼の二つ手は特に注目に値します。左手には若き聖女が頭を傾け、絵の下にいる二人の天使を見つめています。この聖女の顔は愛らいと同時に、誠実で謙虚です。二人の小さな天使は手に顔を乗せ、彼らの目は、その上の人物に向けられています。二人の天使の顔は実に巧みに繊細に描かれており、言葉では表すことができません。

サンクト・ペテルスブルグに急ぐため私はドレスデンからベルリンに向かいました。ここで私は5日間滞在しました。私の計画では、再びここに戻り、ロシアからの帰途長期間滞在し、プロシアの魅力的な王妃にお会いすることです。

第6章終わり

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