2008年4月17日木曜日


第15章  新旧の友人

パリに到着し、早速リュ・グロ・シェネのわが家に行きました。ムッシュー・ルブラン、弟、義理の妹と娘は馬車から降りると、私を待ち受けてました。皆うれし涙を流しました。私も感動しました。階段には花が並んでいました。私の部屋は準備万端整っていました。私の寝室の壁紙やカーテンは黄色い波紋の絹で縁取りした緑色の布でした。ムッシュー・ルブランはベッドに金箔の星の冠をかぶせ、家具は便利でしかも趣味の良いものでした。すべてが快適に配置されていました。ムッシュー・ルブランはずいぶん高いお値段を私に払わせましたが、私は彼の部屋を快適な住居にするための苦労を感謝しました。

リュ・グロ・シェネの家はリュ・ド・クレリに面した家と庭で分かれていました。この家をはムッシュー・ルブランのものでした。この第二の家には大きな部屋があり、快適なコンサートが催されました。到着した夜、私はここに連れて行かれました。私がこの部屋に入ると、全員が私の方を見て、聴衆は拍手しました。演奏家は弓でバイオリンをトントンと鳴らしました。この歓迎の意意にすっかり歓迎して、私は涙を流しました。思い出しますが、輝くばかりに美しいマダム・タリアンが出席していました。

次の日最初の訪問者はグルーズでした。彼は変わっていませんでした。彼の髪の毛は以前と同じでした。彼の以前の巻き毛が波打っていました。― 私がパリを出る時と同じでした。私は彼の配慮に感謝し、再会を喜びました。グルーズの後に私の親友マダム・ド・ボヌイユが来ました。依然と変わらず綺麗でした。この素敵な女性の見事な作法は全く変わっていませんでした。彼女によれば彼女の娘であるマダム・ド・サンジャン・ダンジェリーが翌日の舞踏会を催すのでぜひ私も来るようにと言いました。私は舞踏会用のドレスを持っていないと答えました。そして彼女にマダム・デュバリーから頂いたインドの布を見せました。これは私の大旅行中も肌身離さず持ってきたものです。マダム・ド・ボヌイユは素晴らしいと言い、有名な夫人服の仕立屋であるマダム・ジェルマンに届けました。彼女は早速流行のガウンを作ってくれ、ちょうどその夜に届けてくれました。私はマダム・ド・サンジャン・ダンジェリーの舞踏会に出掛け、この当代きっての美しい女性たちに出会いました。最初にマダム・ルニョウール、次にマダム・ヴィスコンティでした。二人とも顔と姿の美しさでひときわ目立つ方でした。私は綺麗な貴婦人たちを見渡していました。私の前に坐っていた女性が振り向きました。彼女は素晴らしく上品でしたので、私はつい「あなたはなんてお美しい!」と叫びました。彼女はマダム・ジュベルトンで後に、ルシアン・ボナパルトと結婚しました。私はこの舞踏会で数多くのフランスの将軍とお会いしました。マクドナルド、マルモン、その他が私の注意を引きました。確かにこれは新しい社交界でした。

帰国数日後のある朝マダム・ボナパルトが私を尋ねました。革命以前にいっしょに参加した舞踏会に着いて話をしました。彼女は非常に思いやりのある女性で、第一執政の晩餐に来るように言ってくれましたが、日時については何も言いませんでした。

友人のロベールはすぐに訪問してくれました。ブロンニーアルとメナジオも訪問してくれました。友人や知人が示してくれた喜びに深く感動しました。この人たちとは大喜びと複雑な気持ちに混ざり合ったものでした。私は存じあげなかったのですが、多くの方々が亡くなっておられました。来られた方で、母親、夫、親類縁者を亡くさなかった方はいませんでした。

私にはもう一つの試練がありました。最悪のものです。私の大嫌いな継父に挨拶するのも作法というものでしょう。彼はまだ生きていて、ニュイルリーの私の父の小さな家に住んでいました。私はここには小さい頃しばしば行きました。ここには気の毒な母と母との幸せな時代の思い出がいっぱいありました。母が残した籠がまだありました。私は思い出して、この訪問がいっそう辛いものとなりました。ニュイルリーに行き、ルイ十五世広場を再び横切ることになりました。高貴な犠牲者の方々の血を見る思い出しました。同行した私の弟は気が咎め、別の道を行けば良かったと言いました。私は信じられないくらい辛い思いをしたからです。この日この広場を通るとき決まって恐怖がよみがえりました。私は我慢できませんでした。

僕は初めて私はお芝居を見に行きましたが、劇場は非常に味気ないものでした。フランスでも外国でもパウダーをつけた人を見慣れていましたので黒い頭と黒い服を着た男たちは憂うつな光景でした。聴衆がお葬式に参列したような感じでした。

概して彼は活気のない雰囲気でした。通りが狭くて、私は家が二列建てられたのかと思いました。通りが大部分非常に広いサンクト・ペテルスブルグや、ベルリンの印象のせいでしょう。しかし、一番不愉快なのは、壁に「自由と博愛しからずんば死」がいまだに書かれていることです。恐怖政治により正当化された言葉で過去を思い出して悲しくなりました。未来に対しても恐怖を感じました。

私はルーブル広場で行われた第一執政による大閲兵式を見に行かされました。美術館の窓からながめていましたが、私が見た小男をボナパルトであることを認めたくはありませんでした。ド・クリヨン公爵が私の隣にいましたが、何とかして私を信じさせようとしました。エカテリナ二世の時と同じように、このように有名な人物は巨人のように描かれました。帰国後まもなくボナパルトの兄弟たちが私の作品を見に来ました。彼ら私に対して礼儀正しく、私の作品を賞賛しました。とくにルシアンは私の「巫女」をつぶさに眺め、賞賛の言葉を並べたてました。

私の旧友への最初の訪問はド・グロリエール侯爵夫人、マダム・ド・ベルタンでした。それにダンドロー伯爵夫人のお宅もうかがいましたが、二人のお嬢さん、マダム・ド・ロサンボーとマダム・ドルグランデにお会いしました。お二人とも母親に似て美貌と優しい心の持ち主でした。私はマダム・ド・セグールにも会いに行きました。彼女は孤独ですっかり落魄していました。二人は厳しい状況で生活していました。私がロンドンから戻ってきたときボナパルトは彼女の夫ド・セグール伯爵を式典長に任命しました。これで生活は楽になりました。私が記憶してますのは、この当時セグール伯爵に夜の八時ごろにうかがいましたが、彼女一人でした。彼女は「信じられないでしょう?私は20人を晩餐に招待しました。コーヒーの後全部彼帰ってしまいました」私もびっくりしました。革命依然ではほとんどの客は晩餐の後、夜遅くまで残っていたものです。新時代の流儀より、以前の方がはるかに良かったと思います。

マダム・ド・セグールは私を大音楽会に招待してくれました。その当時の有名人がほとんど来ていました。ここでたまたまもう一つの革新を目撃しました。先の革新よりもさらに悪いように思われました。私が部屋に入ってびっくりしたのは、男性が一方に、女性がもう一方に分かれていたのです。まるで敵同士の様だと思うでしょう。一人の男も私たちのほうにやってくることはありませんでした。例外はこの家の主人ド・セグール伯爵だけです。伯爵は女性に慇懃な態度をとる習慣が残っていて、二言、三言女性たちにお世辞を言いました。マダム・ド・カニシーの来訪が告げられました。彼女は非常にきれいな女性で、画家のモデルにしてもいいような姿の女性でした。その結果、私たちには一人の騎士もいなくなりました。伯爵はこの美人のそばを一晩中離れませんでした。

私はマダム・ド・バサーノの隣に座りました。彼女は非常に高く評価されていましたので。私は会いたいと思っていた女性です。ナポリ王妃にお別れするときに私が頂戴したダイアモンドのハンカチに関心があるようでした。私をたぶん、もぐりと考えたのでしょう。私は大臣の妻でも女官でもありません。彼女は一言も私に口を利きませんでした。それでも、私は繰り返し、彼女のすばらしい美貌を見つめていました。

私が訪問した最初の画家はムッシュー・ヴィアンでした。彼はかってフランス王の第一宮廷画家でした。ボナパルトは最近、彼を貴族院議員に指名しました。彼は当時82歳でした。ムッシュー・ヴィアンはフランス派の主導者とみなされていました。その後私は「ベリサリュース」や「プシケ」の絵で知られたムッシュー・ジェラールを訪問しました。彼はソファーに横たわるマダム・ボナパルトの肖像画を完成させた所でした。この肖像画でさらに彼の名声は高まりました。マダム・ボナパルトの肖像画を見て、私は彼のマダム・レカミエの絵を見たなりました。それで私はこの素敵な女性の家をうかがい、彼女の知人になる機会を得ました。

美貌の点でマダム・レカミエに匹敵する女性がいました。マダム・タリエンです。美貌以外に偉大な心の持ち主でした。革命時死刑を宣告された多くの犠牲者で命拾いした人たちがいます。これは彼女のタリエンへの影響力のおかです。救われた人たちは彼女を「救済の聖母」と呼びました。彼女は私を優しく迎えてくれました。後にド・シメ公と結婚した後はリュー・ド・バビローニュの端に御殿のような家に住みました。そこでご夫妻自身でお芝居をされました。お二人とも上手な演技でした。彼女はこのお芝居に一度、私を招待してくれましたし、私の夜のパーティーにも時々来て頂きました。このころ私はドゥッチスに会う幸運に恵まれました。彼の尊敬に値する性格は彼のまれにみる才能に匹敵しました。彼の気取らなく純真な物腰は、が彼に与えた素晴らしい理解力、と対照的でした。この素晴らしいドゥッチスほど愛すべき人物を私はほかに知りません。彼の友人たちにとって残念なことに、彼をパリに引き留めることができませんでした。ですが彼はパリが嫌いでした。「エディプス」と「オセロ」の役者は人生を快適にするために羊飼いと牧草地を求めていたのです。彼が求めていた孤独な生活様式には驚くというか、ギョッとしました。私は忘れることができません。

私がロンドンから戻ってベルサイユに彼を訪問しました。。そこで気づいたのですが、彼は引退していました。夜でした。私はドアをノックしました。道を開いたのは、ローソクを手にした建築家の未亡人のマダム・ペイアでした。私は彼女がずっと依然に死んだものと思っていましたから、叫びました。なんとか気を取り直しましたが、彼女は最近ドゥッチスと結婚したというのです。私は理解し、落ち着つきました。彼女は私をご主人の所に案内してくれました。彼は屋根裏の小さな部屋で独り、本や写本に埋もれていました。この部屋には効果的なものも楽しいものも見当たりませんでした。ドゥッチスは想像力で、彼が「見晴らし台」と呼ぶ、この屋根裏部屋を楽しい場所にしたのです。

私はマダム・カンパンに再会して喜びました。彼女の役はいずれ統治者になる家族の一員でした。ある日私は彼女からサン・ジェルマンの寄宿舎で晩餐の誘いを受けました。食卓ではナポレオンの妹であるマダム・ムラーの近くに座りました。この位置に座りましたから、私は彼女の横顔しか見えませんでした。それに彼女は顔を私の方に向けませんでした。夜になって女学校の女の子たちが「エステル」を公演しました。その中で、マドモアゼル・オーギュは主役を上手に演じました。彼女は後にネイ元帥と結婚しました。ボナパルトも観客の一人でした。彼は第一列に座り、私は第二別の隅に座りましたが近かったので彼を観察するには都合がよかったのです。私はくらい所にましたが、マダム・カンパンは幕間に私に話しかけました。彼は私に気づいたというのです。

私はマダム・カンパンの部屋で、マリー・アントワネットの胸像画を見つけて大喜びしました。私は彼女に感謝しました。彼女が打ち明けた所によれば、ボナパルトはこれを承認しているとのことでした。私は彼の判断は正しいと思いました。この時期は、彼が過去および未来に関して何も恐れる必要はありませんでした。彼の勝利はフランス人のみならず外国人の熱狂を喚起しました。イギリス人の間にも彼の数多くの崇拝者がいました。ある日のことゴードン公爵夫人の屋敷で食事をしたことがあります。彼女はボナパルトの肖像画を私に見せて、フランス語で言いました。「私のゼロ(zero)がいます」彼女のフランス語の発音が悪かったのですが、「英雄(hero)」という意味だと理解しました。私のゼロの説明に二人とも大笑いしました。

私の知り合いでパリ在住の外国人は数多くいました。それにどうしょうもない憂鬱を振り払いたかったこともあり、私は夜のパーティーを開きました。ドルゴルキ公女はアッベ・デリーユにぜひとも会いたがっていました。そこで私は夕食会に彼の参加をお願いしました。その他彼の話にふさわしい人を加えました。この魅力的な詩人はすでに盲目でしたが、以前同様に陽気でした。彼は彼の創作詩を朗読しました。われわれ一同は魅了されました。別の機会に私は夕食会を計画しました。当時の大物が参加し、大使の中にはメッテルニヒ公もいました。それから舞踏会も催しました。マダム・アメラン、ムッシュー・ド・トレニ、その他ダンスの上手な人たちが来ました。マダム・アメランはパリ社交界で一番のダンスの名手でした。彼女は上品で優雅な上に、足捌きは実に素早いものでした。この舞踏会で覚えておりますが、マダム・ディミドフはロシアのワルツを踊り、一同うっとりとして椅子の上に立ち上がって見ていたものです。

リュウ・グロ・シェネのわが家にピッタリの部屋がありましたので、舞台を設定して、劇を上演することを思いつきました。観客にはすべての有名人がいました。

私は現在パリにいるロシア人、ドイツ人から両国に滞在中に色々な好意を頂きました。こういった集まりをもつことによって、私は少しでもお返ししたいと考えたのです。ほとんど毎日ドルゴルキ公女とお会いました。彼女はサンクト・ペテルスブルグでは私の天使でした。彼女はパリの生活を楽しんでおられました。ある晩、ド・セグール子爵が彼女の家にいました。革命前は彼をよく見かけたものです。当時彼は若くて粋な人でした。公女の家での彼は無表情で、皺が寄り左右対称にカールしたカツラをかぶり、額は禿げ上がっていました。12年の歳月とカツラで、すっかり老けていました。声を聞かなければ、別人と思ったでしょう。ドルゴルキ公女はボナパルト面会の日に、私の所にやってきました。私は彼女に第一執政の宮廷をど思うか尋ねました。彼女は「あれは宮廷ではないわ。でも力ですよ」と答えました。サンクト・ペテルスブルグの宮廷になれた彼女にはそう見えたことでしょう。ペテルスブルグの宮殿は大きくて光り輝いていました。チュイルリーでは女性が少なく、あらゆる階級の軍人を数多く見かけたのです。

パリに居住することによる楽しみの間にも、私は常に色々と暗い考えに追われていました。楽しみの最中でもそうでした。このような心の状態に別れを告げるために旅に出ることにしました。一度ならず、ローマ滞在中のことですが、新聞は私がロンドンにいると言っていました。でも実際は私が一度もこの都市に行ったことはありません。私はロンドンに行くことにしました。

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