2008年4月18日金曜日


第7章 サンクト・ペテルスブルク

私は1975年1月25日にサンクト・ペテルスブルクに入りました。ペテルホフの道を通りました。この道で、この都市が分かりました。この都市は両側に素敵な田舎の家があり、そのにははイギリス式の趣味のいい庭でした。ーキヨスクと綺麗な橋がありました。住民はこの沼地の土地を生かして、運河や小川で庭を美しく飾っていました。残念なことにすごい湿気で夜の美しい景色が台無しでした。夕暮れ前でも、この霧が道路に立ち昇り、濃く暗い煙に包まれているようでした。

都市の景観のみならず、私はその記念碑、美しい住宅、広い道路、この眺めが1マイルもあるのに魅せられました。水が進んだネバ川は街を縦断し、寝返り気にし小帆船が生き生きしていました。これがこの都市に活気を与えていました。ネバ川の埠頭は花コウ岩からできており、エカテリナ女帝による街の運河のようでした。川之江港の機種は見事な建物がありました。美術アカデミー、科学アカデミー、その他多くの建物がネバ川に写っていました。月の夜には、この古代の寺院にも似た建物ほどすばらしい景観はないと聞いていました。サンクト・ペテルスブルクは私をアガメムノンの時代に戻してくれました。一つは、建物の壮麗さであり、もう一つは古代を思い起こさせる、人々の衣装でした。

私は今月の光について、お話ししましたが、私の到着の時には月を眺めることはできませんでした。7月ペテルスブルクでは、本当に真っ暗なときは1時間もないのです。太陽は10時半に沈み、明け方までほんのちょっと暗いだけです。深夜から1時間半後には夜が開けるのです。ですからいつもはっきりとみえます。私はですから、太陽の出ている11時に夕食を取りました。

私が最初にしたことは十分な休息をとることでした。リガを過ぎてから、道は恐るべきものでした。大きな石があって、私が乗っていた馬車はひどいものでしたが、そのたびに大きく揺れました。宿屋は非常にひどくて、そこに宿泊する気に来れませんので、サンクト・ペテルスブルクに一直線に進みました。

私のサンクト・ペテルスブルクでの宿泊の期間はたった24時間でした。フランス大使、エステルハーツィ伯爵なる人物の訪問が告げられたとき、疲労困憊していました。彼はサンクトペテルスブルク到着の歓迎の言葉を述べ、女帝にすぐにも私の到着を知らせ、女帝の参内のご命令を受けて来る予定がと言いました。そのすぐ後にド・ショアズール・グフィエール伯爵の訪問を受けました。私が彼と話をしながら、偉大なるエカテリナ女帝に拝謁できる幸せを申しあげました。しかしながら、この絶大な権力のある女帝に拝謁したときの恐れと困惑を隠しはしませんでした。「心配いりませんよ」と彼は答えました。「女帝に会われたら、彼女の人柄のよさにびっくりするはずです。彼女は実に素敵な女性です。」正直言って、私は彼の話にびっくりしました。これまで私が聞いてきたことからして、彼の話は信じられませんでした。ド・リーニュ公が、彼のクリミア旅行の楽しいお話から、この偉大な女帝の優雅で、率直な振る舞いを語っておられたのは事実です。でも彼女を素敵な女性であるとは一度も聞いておりませんでした。

しかしながらその晩、エステルハーツィ伯爵が女帝がお住まいのツァールスコイセローから、戻り、メーカーが翌日の1時に私を謁見される滞在される、と伝えに行きました。こんなに早い参内は、私は予想しておりませんでした。私はすっかりあわててしまいました。私はいつものように質素なモスリンのドレスしか持っていませんでした。飾りのついたガウンを1日で、それもサンクト・ペテルスブルクで作ってもらうことは不可能でした。エステルハーツィ伯爵は10時丁度に私を呼びに来て、やはりツァールスコイセローにいる。彼の奥さんと朝食をとると言いました。ですから、約束の時間が来たとき、到底宮廷のドレスとはいえない私のドレスを気にかけながら。私は出発しました。マダム・エステルハーツィに強いしたとき、彼女の仰天は私にはわかりました。言葉遣いの丁寧な方でしたが、それでも彼女は私にたずねました「ほかにガウンは無いのですか?」。この質問で、私は顔が真っ赤になりました。私が正しいガウンを作る余裕がなかったことを申しあげました。彼女の不愉快な表情から、私の不安は募りました。女帝の前に進みでるときが来たら、私は持てる勇気をすべてふるいおこさねばならないと思いました。

伯爵は私に手を貸してくれ。二人で、公園のあるところを過ぎるところでした。私は一階の窓から私は若い女性がパンジーの鉢に水やりをしているのを見ました。彼女はせいぜい17歳でした。顔立ちはよく整っていました。彼女の顔は完全な卵形でした。彼女の美しい肌の色は輝いてはいませんでしたが、真っ白で、彼女の顔の表情とよくあっていました。彼女は天使のように愛らしかったのです。彼女の美しい髪の毛は首と額を覆っていました。彼女は白いトュニックを着ていました。結び飾りのついたガードルをつけた腰はニンフの腰のようにほっそりとして、しなやかでした。私はうっとりとして、彼女の姿を描きましたが、この若い女性の背景の建物には柱があり、ピンクと銀の紗の飾りが付いていました。私は「彼女こそプシケだわ」と叫びました。アレクサンドルの妻、エリザベス公爵夫人でした。彼女は私に挨拶をし、私を長い間引き留めて楽しい話をしてくれました。さらに、彼女は「マダム・ルブラン私たちは長い間、あなたを待ってたのよ。」「あなたがここにきているという夢も見たことがあるのよ。」私は彼女とお別れしなければなりませんでしたが。その後もこの楽しい思い出を持っております。

その二、三分後には、私はロシアの貴族たちの中にました。大使はまず私に彼女の手をキスするように言われました。作法に従って、彼女は手袋をとるはずだと。この時私は全部記憶しましたが、その時にはすっかり忘れてしまいました。私はこの有名な女性を見て、思いもよらない印象を受けました。私が彼女が非常に有名であるように、背も高い女性だと思っていました。彼女は非常に太っていましたし、顔は綺麗でした。彼女の白い髪の毛で、顔が引き立っていました。彼女の生まれ持った才能が、彼女の広くて、高い額に鎮座しているように思われました。彼女の目は柔和で、小さく、鼻はギリシャ風でした。肌はみずみずしく、表情は機敏でした。優しい声で、彼女は言われました。「マダム、ここであなたにお会いできてうれしく思います。あなたの評判はお会いする前から聞いていました。私は芸術が好きですが、特に絵画が好きです。私は絵は描けませんが、絵は大好きです」この接見で、彼女は話された時間はかなり長いものでした。彼女は私がロシアを好きになり、長く滞在することを望んでいると申されました。非常に気分の良い方でしたので、私の恥ずかしい思いも消えて行きました。私が陛下から、お暇を頂くときまでには、私はすっかり安心しました。私が彼女の手にキスをしなかったのは誠にお恥ずかしい次第です。彼女の手は美しく、色が白かったのです。エステルハーツィー伯爵にそのことで叱られたときには、このミスを嘆いたものです。私が着て服に関しては、彼女は全く関心がありませんでした。おそらく女帝はフランスの大使夫人よりもご機嫌のように見受けました。

私はツァールスコイセローの庭園を行きました。これは正に小さな妖精の国です。女帝には彼女の部屋と行き来できるテラスがありました。このテラスには彼女はたくさんの鳥を飼っていました。私が聞いたところでは、毎朝彼女は鳥に餌をやり。これが彼女の主な楽しみになっているそうです。

私が拝謁したその直後、陛下は私にその夏その美しい場所で過ごさせたいという希望を申されました。陛下は侍従たちに命令されました。その一人がバリアティンスキー公爵でした。私に城内に部屋を与えよとのことでした。彼女は私が絵画を描くところを見たくて、近くに住まわせたかったのです。しかしその後はかったことですが、この紳士たちは私を女帝のそばに住まわせようと努力しませんでした。彼女が繰り返し命令しても、彼らは近くにそのような部屋はないと主張するのです。私がこの事態の真相をしって、仰天したことがあります。宮廷人たちは、私がダルトア公爵の党派に属し、エステルハーツィー伯爵を他の大使に取り替えにはきたのではないかと心配していたのです。伯爵がこれらのことについて共謀していたことはあり得ます。たとえ私がこのこのような陰謀に興味が多少あるとしても、私は絵で忙しく、政治に時間を割けられない人間であるということが分かっている、知り合いがなかったことは確かです。さらに、女帝のそばに部屋を与えられるという名誉、このようなすばらしい所に住むという喜びを別にしても、ツァールスコイセローではすべてが堅苦しく、面倒でした。

その上私がロシアで受けたもてなしはよく計画されており、宮廷内のちっぽけな陰謀の慰めにはなりました。この国では、外国人は、特に多少とも才能があれば、熱烈にあるいは優しくもてなされものです。私は山のような招待状を受け取りました。私がすぐに愉快な上流の家族の家に来るように招待を受けました。その中には何人かの知人がサンクト・ペテルスブルクにいました。中には、旧友もいました。まず第一が真の美術愛好家であるストロガノフ伯爵です。彼の肖像画はは私が若いころパリで描きました。再会できたのは、私たちにとって無上の喜びでした。彼はサンクトペテルスブルクのすばらしい絵画の収集家でした。近郊のミノストロフにイタリア式の別荘を持ち日曜日ごとに晩餐に招待してくれました。彼はそこに来るようにいました。私はこの場所に夢中になってしまいました。この別荘は高い道路際に立っており、窓からはネバ川が見下ろせました。その広大な庭園はイギリス風でした。あらゆる方向から数多くのボートが到着し、数多くの人々がストロがノフ伯爵邸を訪れました。晩餐に招待されなかった人々は、この公園で散歩するのです。伯爵はこの公園で承認が露天を開くことを許可していましたので、この美しい土地は楽しい市で賑わいました。特に、近隣の地方の衣装は美しく、変化に富んでいました。

3時頃に私たちは覆いの着いた柱が立ち並ぶテラスに行きました。まばゆい日の光がすべてを照らしていました。私たちは公園の景観を楽しみました。ロシアの夏は最高ですから、気候は世界一すばらしいものです。この国の七月はイタリアよりも暑い時があります。私たちはこのテラスで食事をしました。食事はすばらしいものです。デザートには豪華な果物がでてきます。特にすごいのはメロンです。私には大変な贅沢でした。テーブルに腰をおろすや楽しい楽器の演奏が聞こえ、食事中ずっと続くのです。「イフィゲニア」の序曲の演奏にはうっとりです。私はびっくりしてしまいましたが、ストロガノフ伯爵が仰るには、各演奏者はただひとつだけの調べを演奏しているそうです。個々の音が完全に一つにまとまり、このような機械的な演奏からこのような表現ができるのか。私にはとても考えつかないことです。

食事の後、私たちは散歩を楽しみました。それから夜になるとテラスに戻ります。としているはくれると私たちは綺麗な花火を見ます。これは伯爵が私たちに準備しておいてくれたものです。ネバ川の水に反映して花火は美しく、効果的でした。最後に今日の楽しみを締めくくりは、二艘小さくて細いボートで、インディアンが私たちにダンスを披露してくれました。彼らのダンスは船を揺らさずに軽やかに動くというもので、かなり楽しい見物でした。

ストロガノフ伯爵の見事な大邸宅は1軒だけではありません。サンクトペテルスブルクではモスクワのように数多くの貴族は野外にテーブルを置いております。ですから、素性のわかった外国人は宿屋を頼る必要はありません。どこでも食事が食べられます。私の記憶では、私のサンクトペテルスブルクの滞在の終わり頃、大侍従長ナリシキン公爵は推薦状を持った外国人のために、25から30の野外にテーブルを持っておりました。このようなもてなしの習慣は、近代文明が行き届いていないロシアの内部でも残っておりました。ロシアの貴族たちが通常は首都からはるか遠くにある領地に行くとき、同じ。ロシア人の家に宿泊します。そこでは個人的な知り合いでなくても、貴族、召使い、馬は中に入れてもらい、出来る限りのもてなしを受けます。たとえ宿泊が1ヶ月に及んだとしてもです。

この広大な国を二人の友人といっしょに大旅行した人物を見かけました。この3人は遠い地方まで家夫長が支配していた時代に横断しました。3人は至る所で宿を借り、食事をしたのですが、財布はほとんど必要ありませんでした。3人に応対したり、馬の世話をする人たちに酒代を押し付ける必要がなかったのです。主は大部分が商売人が農民でしたが、暖かい感謝の気持ちに驚きを示していました。「私たちがあんたの国にいけば、あんたがただって、同じことするでしょうが」と彼らが云いました。

ロシアの夏は8月で終わります。秋はありません。私はツァールスコイセローで、散歩に出かけました。この公園は海に面しています。この眺めは想像できないほどすばらしいものです。予定外いつも彼女の気まぐれと呼んでいた記念碑がいっぱいありました。パラッディオ様式のすばらしい大理石の橋がありました。ロマゾフとオルロフの勝利の記念品であるトルコ風呂もありました。柱が32本ある寺院もありました。さらにヘラクレスの柱廊と大階段がありました。公園の樹の通りはほかに類がないものです。城の向かい側には長くて広い芝生の公園があります。その最後には桜の園があり、私は記憶してますが、おいしい桜ん坊をを食べたものです。

コベンツェル伯爵は私がある女性と知り合いになることを望んでいました。この女性は知的で美しいので、評判の女性でした。ドルゴルキ公女でした。私は彼女からアレクサンドロフスキーのお宅で、お食事の招待を受けました。彼女はここに別宅を持っていたのです。伯爵は私と娘をそこへ連れてってくれました。

この大邸宅の調度品はさりげなく、うれしいことに、船がいつも行き来するのを眺めることができました。今日では歌を合唱していました。ロシアの人々のを多少野蛮ですが、感傷的で、メロディーが豊かです。

ドルゴルキ公女の美しさには、私は感動してしまいました。彼女はギリシア人の顔立ちで、特に横顔ですが、少しユダヤ的な特徴が混じっていました。彼女の長い黒っぽい栗色の髪の毛は、特に構わず、彼女の方まで届いていました。彼女の容姿は完璧でした。その全人格で、彼女はその高貴さと優雅さとをさりげなく示していました。彼女は私をやさしく上品に受け入れてくれましたので、私は彼女の家に一週間滞在してはという申し出を喜んでお受けました。私の知り合いになった魅力的なクラーキン公女はドルゴルキ公女の家に住んでいました。お二人の貴婦人とコベンツェル伯爵とでこの家を持っていたのです。

お食事の後私たちは金の縁取りのついた赤いビロードのカーテンのついたボートに乗って出かけました。屋根のないボートに乗った合唱隊が私たちのために歌ってくれましたが、一番高い音でも非常に正確でした。私が到着した日の夜には音楽がありましたが。次の日にはダレイラックの「地下」が演じられました。ドルゴルキ公女はカミーユの役、若き日のド・ラ・リボシエール、この方は後にロシアの大臣になりましたが、少年の役、コベンツェル伯爵は庭師でした。

私は記憶していますが、このお芝居をしている間に、サンクト・ペテルスブルクのオーストリア大使であったコベンツェル伯爵にウィーンからの急使がやってきました。庭師の格好をした伯爵を見ても、この急使は伝達を遠慮しようとはしませんでした。このシーンでの二人の会話で劇の進行がそれてしまいました。この1週間が終わりましたが、私には1分しか経ってないように思えました。残念ですが、私は数多くの肖像画を約束をしておりましたので、ドルゴルキ公女の別荘を去らなければなりませんでした。

コベンツェル伯爵はドルゴルキ公女を熱烈に愛していましたが、彼女は彼のしつこい求愛に応えていませんでした。彼女が冷淡な態度を示しても彼を追い払うことはできませんでした。彼の唯一の目的は彼女の側にいることでした。町でも田舎でも、彼は片時も彼女から離れませんでした。あっと言う間公文書を書き終え、送ると、彼は彼女のそばにより、完全な奴隷に戻りました。彼はほんのちょっとした言葉や仕草にも飛んで行くようでした。彼女が彼に与える役割は何でも急受けました。例えその役が彼の風貌に合わなくてもです。

コベンツェル伯爵は年齢は50歳ぐらいで、醜く、ひどい斜視でした。彼は背たけは高い方でしたが、非常な肥満体でした。それでも彼は行動的でした。彼が愛する公女のを命令を実行する場合には特に行動的でした。それ以外では、彼は機敏で、聡明な方でした。数々の逸話が登場する彼の会話は楽しいものでした。彼の逸話のお話は完璧でした。私は彼が大変いい人で、親切な人だと思っています。

ドルゴルキ公女がコベンツエル伯爵や多くの崇拝者のため息に無頓着になるのも当然です。失恋した王者というものは女の関心を得るために惜しげもなく財を浪費したものです。彼女はそれ以上の華麗な関心をある崇拝者から受けたからです。かの有名なポチョムキンが ― 彼は辞書から「不可能」という言葉を排除したい人物です ― 彼女への崇拝を示しました。その豪華さは、私たちが「千夜一夜物語」で読んだものよりもはるかに上回るものでした。

1791年にクリミアに旅行した後、エカテリナ女帝はサンクトペテルスブルクに戻った時のことです。ポチョムキン公は陸軍の総指揮官として後に残りました。奥さんを連れてきた将軍もいました。ドルゴルキ公女と出会ったのは、そのときでした。彼女の名前もエカテリナでした。ポチョムキン公は名目はエカテリナ女帝のためと称して、彼女のために盛大に宴会を開きました。テーブルでは、彼女はポチョムキン公の隣に座りました。デザートのとき、ダイヤモンドがいっぱい入った水晶のゴブレットができました。このダイヤモンドは貴婦人たちにスプーン1杯ずつ給仕されました。この饗宴の花形は、この贅沢を見ていました。ポチョムキン公は彼女に、「この宴会は貴方のためのもです。だが驚かれないのはなぜですか?」とささやきました。

この魅力的な女性の気まぐれを満足するためには、いかなる犠牲をも惜しみませんでした。彼女がいつもフランスに注文している、舞踏会用の靴がないということを聞き、ポチョムキンはパリに早馬を飛ばしました。使いのものは昼夜飛ばして彼女の靴を持って帰りました。サンクトペテルスブルクでは知られていることですが、ドルゴルキ公女に一大スペクタクルを見てもらいたくて、予定よりも早くに、急いでオチャコフの砦の攻撃を開始しました。

ドルゴルキ公女ほど、威厳のある物腰の女性はいないと思います。私の「巫女」を見て、彼女は大いに気に入られ、このスタイルで、肖像画を描いてほしいと私にいました。私は喜んで彼女が完全に満足するようにがんばりました。肖像画が仕上がると彼女は綺麗な馬車を私に差し向け、私の腕にブレスレットをつけてくれました。ブレスレットはダイヤモンドの銘のついた彼女の一房の髪の毛でできていました。銘は「世紀を飾る女を飾れ」でした。私がこの贈り物の思いやりと品の良さに感動したものです。

私がサンクト・ペテルスブルクに到着したときにポチョムキン公はその地に数年間いましたが、彼はまだ魔法使いであるかのように言われていました。彼のイマジネーションは途方もなく野心的でした。この点については、ポチョムキン公が女帝エカテリナ二世のために計画したクリミア旅行をド・リーニュ公やド・セグール公が書いています。旅行の行程中の大邸宅や村々は、まるで魔法の杖を振ったかのように、女帝陛下を歓迎して花火の炎が林立したのです。事実、この旅行は現実離れした出来事でした。彼の姪であるスカヴロンスカ伯爵夫人はウィーンで私に「もし私の伯父があなたを知ったら、伯父は、あなたに金銀財宝を持たせてくれることでしょう」と言いました。確かに、この著名な人物はいつも気前よく散財し、おそろしく贅沢でした。彼の趣味は途方もなく、贅沢で、王侯のような暮らしぶりでした。ですから、彼は王侯たちを上回る財産を持っていましたが、ド・リーニュ公が私に語ったところでは、彼は金がなくなるはずだと言うことでした。

寵愛と権力のせいで、ポチョムキン公は、彼のつまらない欲望を満足させることに慣れてしまいました。このことを証明する例があります。ある日、彼の副官の身長の話になりました。ポチョムキン公は、ロシア陸軍のある士官はもっと背が高いと言いました。当の士官を知っている人は全員ポチョムキンの意見に反対しました。彼はたちに使者を派遣して、その士官を連れ戻すように命令しました。この士官は800マイルも離れたところにいたのです。ポチョムキン公に呼ばれたと聞いて、彼は大喜びでした。彼は自分が昇進されると思ったのです。彼の落胆ぶりは想像に余りあります。野営地についたとき、彼はポチョムキンの副官と背比べされたのです。長い旅の疲れ以外に何の交流もなく、彼は任地に戻ったのです。

長い間寵愛を受けていで、君主のそばで統治することに慣れてしまった、この人物は晩年には寵愛を失いました。レプニン公に命令を下し、和平の交渉をさせました。この和平はポチョムキン方が強く反対しているものでした。ただちに彼は署名を妨害すべく出発しましたが、ヤッシーで、和平が締結されたことを知りました。この報告は彼には決定的でした。以前から病気がちでしたが、彼は重い病にかかりました。それでも、サンクトペテルスブルクに戻る旅にでたのです。しかしに数時間後には病は重くなり、馬車の動きに耐えられなくなりました。そこで彼はある牧場で横にされ、マントをかぶせられました。1791年10月15日、ポチョムキン公はブラニッカ伯爵夫人に抱かれて、この地で最後のため息をもらしました。


第七章終わり

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