
第5章 ナポリの日々
私はローマに約8カ月いました。外国人はみな、ナポリに行くのを見て、私もナポリに行きたい気持ちになりました。私はベルニ枢機卿にこの話を打ち明けました。彼は、ボルテールの姪のマダム・ドゥニの夫であるムッシュー・ドゥヴィーエールがナポリに行こうと言っており、私が一緒であれば喜ぶはずだと私に言いました。ムッシュー・ドゥヴィーエールは私に会いに来て、枢機卿と全く同じ話をし、私と娘の世話をすると約束してくれました。さらに、彼は馬車にコンロのようなものを積んでおり、鶏の料理もできるということでした。テラチナのいちばんいい宿屋でも出てくる食事は非常に悪いので、このコンロは便利だと言うのです。これは大変いい話だと思いました。彼の話は私にはうれしいものでした。私は、この紳士といっしょに旅立ちました。場所は非常に大きくて、娘と家庭教師は前に座り、中央にもう一つ座席がありました。大男の召使いが私の前に座っていて、彼の背中が私に触るものですから、私は鼻を手で抑えでいました。私は旅行中に話をする習慣がないので、会話はただ、ほんのわずかの言葉をかわすだけでした。ポンティノ湿原を覚えようとしたときです。運河の縁に羊飼いの娘を見ました。羊はところどころに花が咲いている牧場を通り過ぎようとしていました。海とキルケ岬がみえました。私は「なんという美しい絵でしょう!」と旅の道連れに言いました。「羊飼い、羊、牧場、それに海」 彼は「この羊は薄汚い」、「羊はイギリスで見るべきですよ」と答えました。さらにテラチナ街道に沿って、小さな顔をボートでわたるところに行きました。左手を見ると夕日が照らす雲に包まれたアペニン山脈がみえました。私はついに大声で美しい雲を賛美しました。私の楽天的な友達は「雲が出ているということは、明日は雨だろうな」と言いました。
私たちがナポリに到着したのは、三時か四時でした。この町に入ったときの私の受けた印象は言葉では言い表せません。もえる太陽、広々とした海、僕に見える島ヴェスビアス火山から立ち上る煙の柱。人なつこくて騒がしい人々、ローマ人とはまるで違い、だれしも二つの都市は1000マイルも離れていると思うことでしょう。
私が海辺のチアヤに家を借りました。向う側にはカプリ島があります。私はこの環境に喜びました。私が落ち着くとすぐに私の家の隣に住んでいたロシアのナポリ大使スカヴロンスカ伯爵が使者をよこして、私の健康をたずね、上等な食事を運んでくれました。私はこのお心づかいに大変感謝しました。台所の準備ができるまでに時間がかかり、私は空腹で死にそうでした。その夜、伯爵にお礼を言いに参りました。こうして私は彼の魅力的な奥さんと知り合いになりました。
スカヴロンスカ伯爵は上品で整った顔の方でした。彼は健康上の理由で青白い肌をしていました。それでも彼は社交的でしたし、上品で知的な会話をされました。伯爵夫人は優しくて天使のように愛らしい方でした。かの有名なポチョムキンは彼女の伯父にあたり、彼女に財産をたっぷり持参させました。でも彼女に無用だったのです。彼女は黒いマントを着て、コルセットはめずに寝椅子で横になっているのは幸せだったのです。彼女の義理の母がパリからマリー・アントワネット王妃のドレス・デザイナーであるマドモアゼル・ベルタンの豪華な衣装一箱を送ってきました。信じられないことですが。伯爵夫人は箱を一つも開けたことはありません。彼女の義理の母が箱に入れてある美しいガウンや頭飾を着したところを見たいと言っても、彼女には関心がなく「何のために?なぜ?」と答えるだけでした。彼女は私に宝石箱を見せてくれましたが、そのときの返事も同じでした。宝石箱の中にはポチョムキンから贈られた大きなダイヤモンドが入っていました。でも私は彼女が身に付けているところを見たことがありません。私の記憶では、彼女は眠るとき、奴隷をベッドの下に置い、毎晩同じ話をさせるということでした。。彼女は1日中、何もしないで過ごしており、教養もありませんでした。彼女の話は全く無内容でした。にもかかわらず、彼女の愛らしい顔と天使のようなやさしさのおかげで、彼女は魅力的でありました。
スカヴロンスカ伯爵は誰よりも彼の妻の肖像を私に描いてくれと頼むました。私は同意し、到着2日後に描き始めました。第1回目のポーズの後のことです。イギリスのナポリ大使、サー・ウィリアム・ハミルトンがナポリでの最初の肖像画はぜひとも私に紹介してくれた素敵な女性の肖像画にしてくれないかと頼みに来ました。それがマダム・ハルテでした。まもなくレディ・ハミルトンになりました。私の愛すべき隣人との約束の後でしたから、スカヴロンスカ伯爵夫人の肖像画が順調に出来上がっていくまでは、他の肖像画を手掛けることはできませんでした。それから私はマダム・ハルテを海辺に横たわり、ゴブレットを手にしたバッカスの女として描きました。彼女の美しい顔は非常に生き生きとして伯爵夫人とは対照的でした。彼女の栗色の髪は豊かで上半身を覆えるくらいでしたから、髪の毛をなびかせたバッカスの女としての彼女は見とれてしまいます。
レディ・ハミルトンの生涯は小説です。彼女の旧姓はエンマ・ライアンでした。聞くところによれば、彼女のお母さんは貧乏な召使いでした。彼女の生まれた場所についても意見が分かれているようです。ハワーデンの正直な町の人のところに奉公に出ましたが、退屈な生活に飽きてしまいました。ロンドンにいけばもっと快適な生活ができると信じ、ロンドンに出ました。イギリスの皇太子殿下が私に話したところによれば、殿下は、彼女が木靴を履いて、果物の露天に立っているのを見かけたそうです。さらに、衣装はお粗末でしたが、彼女の綺麗な顔で注目を引いていたということです。ある店の店主が彼女を雇ったのですが、すぐに出て行き、上流階級の貴婦人-大変尊敬すべき女性 ― のメイドになりました。この家で、彼女は小説や演劇に興味を持ちました。彼女は俳優の仕草や声音を真似しました。そして大変上手になりました。この才能は彼女の女主人の気に入ることはなく、彼女は首になりました。描きたちがいつもたむろしている食堂の話を聞き、そこに行き、職を得ようとしました。彼女がいちばん美しかった頃です。
彼女はひょんなことから、この穴から抜け出すことができました。グレアム医師が彼女にヴェールをかぶせ、女神ヒュギエア(健康の女神)として、病院に飾ったのです。好奇心の強い人々がたくさんやってきて、彼女に会いたがりました。絵描きたちは特に喜びました。この展示をまもなく、ある絵かきが彼女をモデルにしました。彼女は優美にポーズを取り、彼はそれを絵にしました。彼女では、このその才能があり、それで彼女が有名になりました。レディ・ハミルトンにしてみれば悲しい顔も嬉しい顔をするのはたやすいことでした。さらに、いろんな人の役を演ずるのも彼女には何でもありませんでした。彼女の輝く目、波打つ髪で、彼女は突然魅惑的なバッカスの女になれるのです。彼女の夫が紹介したその日に彼女はあるポーズをとり、見てちょうだいと言いました。楽しかったのですが、彼女は普段着を着ていました。私はこれにはちょっと驚きました。私は気晴らしに絵を描くときのガウンを持っていました。それは緩やかなチュニックでした。彼女はショールで気飾り、画廊を埋め尽くすほどのポーズや表情をすぐにもしてみせました。事実フレデリック・ライムベルクの素描のコレクションがあり、これは銅版画になっています。
エンマ・ライアン物語に戻りましょう。彼女が私はさきほど申しました絵描きのために働いているでした。グレヴィル卿が彼女と恋に落ち、彼女と結婚しようと思いました。ところが彼は突然公的な地位を失い、破産してしまいました。彼は直ちにナポリに向かいました。伯父のハミルトン氏から援助が得られるというう希望を持っていたからです。伯父は確かに甥の借金をすべて払うことに同意しましたが、同時に彼は家族の反対にもかかわらず、エンマ・ライアンと結婚する意思を固めました。レディ・ハミルトンは想像以上の貴婦人になりました。ナポリ王妃が彼女と仲良く散歩してるとも言われました。確かに王妃は彼女とよく会いました。おそらく政治的なことだと言われています。レディ・ハミルトンは分別のない女性でしたから、王妃に数多くの外交上の秘密をもらしました。王妃はこれを彼女の国のために利用したのです。
レディ・ハミルトンは知的な女性ではありませんでした。そのくせ彼女は非常に横柄で、人を馬鹿にする女性でした。この欠点は彼女の会話にはっきり出ていました。しかし彼女はずるがしこさで、これで彼女は結婚出来たのです。彼女は普段着となると、非常に服装がお粗末でした。私が記憶していますが、私が彼女の最初の絵を巫女として描きました。彼女はカセルタに住んでいました。私はそこで毎日描きました。早くこの絵を仕上げたかったからです。ド・フルーリ公爵夫人とド・ジョゼフ・モナコ公女が、最後になりますが三度目のポーズのときに言い表せました。私はスカーフを彼女の頭にターバンのように巻きつけました。一方が上品に重なるようにしました。このターバンで、彼女はす非常にきれいになり、二人は彼女がうっとりするほどきれいになったと言いました。彼女のご主人は私たちを晩餐に招待しました。彼女は衣装替えに自分の部屋に戻りました。戻ってきて私たちと会ったとき、彼女の服装は全くの普段着ですが、そのあまりの変わりように二人は彼女とは思えないほどでした。
たちは1802年にロンドンに参りましたが、レディ・ハミルトンはご主人を亡くしたばかりでした。私はカードを置いて参りましたが、彼女はまもなく私に会いに行きました。喪服を着て濃い黒のベールをかぶっていました。彼女は素晴らしい髪を切って新しい「ティトゥス」風にしていました。私が見たのは大女のアンドロマケーでした。彼女は大変悲しいと言いました。友人であり、父でもあった夫を亡くし、慰めようもないと言いました。でも、彼女の悲しみは私には何の印象も与えませんでした。私には彼女が単に演技をしているとしか思えなかったからです。これは誤解ではありません。なぜなら、数分後には私のピアノに楽譜があるのを見つけると彼女は陽気な調べを奏で歌い始めたのです。
周知のことですが、ネルソン卿はナポリで彼女と恋をしていました。彼女はごく普通の手紙のやりとりをしているだけだと主張していました。ある朝、私は彼女の訪問のお礼に、彼女の家にうかがいました。彼女は喜びに輝いていました。そして髪にはバラを差ししていました。まるでニーナです。私は思わずバラの意味を訪ねてしまいました。「ネルソン卿からを手紙をいただいたからよ」と彼女は答えました。
.ド・ベルン公爵とド・ブルボン公爵が彼女のポーズの話を聞いて、彼女がロンドンでは見せたくない見世物をぜひ見てみたいと言われました。私は彼女に二人の公爵のための夜を設けたいと彼女にいました。彼女は了承しました。私はこの見世物を見たがっているフランス人の人たちも招待しました。その約束の日に私は私のアトリエの真ん中に大きな額縁を置き、両側にスクリーンをおこいてレディ・ハミルトンの肖像画のようにしました。招待客はみなやってきました。レディ・ハミルトンは、この額縁の中で、いろんなポーズを取りましたが見事でした。彼女は小さな女の子を連れてきました。年の頃は7歳か8歳でしたでしょう。彼女はレディ・ハミルトンにそっくりでした。この二人を見ていて私と思はプッサンの「サビーヌの略奪」を思い出しました。悲しみから喜びへ、喜びから恐怖へと彼女は素早く変身し、私たちは多いに喜びました。私が彼女を夕食に呼んだ時のことです。ド・ブルボン公爵は私のテーブルの横にいましたが、彼女が何杯ビールを飲むか見てくださいといいました。彼女はビールになれていたはずです。彼女はボトルに二、三本ではぶらつきはしませんでした。ロンドンを後にしてからと後、1815年にレディ・ハミルトンがカレイで死に、そこで極度の貧困の中で見捨てられで死んだという話を聞きました。
ナポリでの行楽によって、私の制作活動は妨げられませんでした。それどころか、私はこの肖像画を引き受け、この町での滞在が6ヵ月にもなりました。喉に着いたときは6週間過ごすつもりでした。フランスの大使タレーラン男爵がある朝ナポリ王妃が私に二人の娘の肖像画を希望していると知らせに来ました。私は直ちに仕事にとりかかりました。王妃はウィーンに立つ予定でした。王妃は二人の娘の結婚話でウィーンにでかけるのです。私の記憶では、王妃は帰国後私に「私の旅行の成果は上々でした。娘のために二組の縁談をまとめてきました」と言われました。長女はオーストリア皇帝フランツ二世と結婚し、ルイーズという王女はトスカトスカナ大公に嫁ぎました。二番目の王女は器量が悪く、しかめ面をして、私は絵を完成させる気にならないほどでした。彼女は、今後数年で死にました。
王妃が海外を訪問しておられる間、私は皇太子殿下の肖像画も描きました。昼の時間が肖像画を描く時間に指定されていました。参上するために私は暑いさなかにキヤヤ街道を通らなければなりませんでした。海に面した左側の家はまばゆい白で描きましたので、太陽は容赦なく反射し、私はほとんど目がみえない状態でしたねおもむために。私は緑のベールを確認ました。これは他の人は絶え間してませんでしたし、一風変わってると見られたでしょう。ベールは黒か白だったからです。数日後にはイギリス人の女性が私の真似をしてました。緑のベールがはやるようになりました。サンクト・ペテルスベルクでは緑のベールで、私は楽になりました。ここでは雪が非常にまぶしくって視力がなくなってしまうからです。
私の楽しみの一つはポシリッポの素敵な丘を散歩することでした。この斜面には同じ名前の洞窟がありました。1マイルにも及ぶすばらしいローマ時代の遺跡でした。ポシリッポの丘には別荘やカジノや、牧場、それに見事な木にはツタが花飾りのように、まきついていました。ここにはヴァージルの墓がありました。月桂樹が墓に生えているという話でしたが、一本もありませんでした。夜には私は海岸を散歩したものです。娘を連れて月の出を座って待っでいました。健康に良い空気を吸い豪華な眺めを楽しみました。これは娘の毎日のお勉強の後の休息になりました。私は娘に出来る限り良い教育を受けさせる決心をしました。そのために私はナポリで作文知り、イタリア語、英語、ドイツ語の先生を雇いました。娘は特にドイツ語に興味がありましたし、いろんな科目で適性があることがはっきりしました。彼女には多少絵の才能がありましたが、彼女の娯楽は小説を書くことでした。私が、パーティーから戻ってくると、彼女は手にペンを持ち、一方の手キャップを持っていました。私は彼女を寝させましたが、真夜中にこっそりを起きて残りを書いていました。私が記憶してますが、ウィーンで9歳のとき、ちょっとした小説を書いていました。その場面に合ったスタイルで書いていました。
ナポリで約束した肖像画はすべて完成しましたので、私はローマに戻りました。私がローマに到着すると同時にナポリ王妃もそこに到着されました。ウィーンから帰国する途中で、ローマに逗留されたのです。彼女が通られる途中、私は人込みの中にいましたが、私を見つけて話しかけられました。彼女は非常に優しい言葉遣いで、もう一度ナポリに来て、自分の肖像画を描いてほしいと言われました。お断りすることができませんでしたので。私はすぐにご要望に応じました。
ナポリに着くと、私は直ちに王妃の肖像画にとりかかりました。王妃がポーズをとられた日はおそろしく暑かったので、二人とも寝てしまいました。ナポリ王妃は妹のフランス王妃ほど綺麗ではありませんでしたが、私はフランス王妃のことを思い出しました。顔は老けていましたが、若かかりしころは綺麗だったと思われます。特に彼女の手や腕の形と色は完璧でした。
この王妃については、悪いことがいっぱい書かれ話されていますが、思いやりがあり、率直で気取らない方でした。彼女は王者の寛大さを持ち合わせておられました。ド・ボンベル侯爵は1790年にウィーンの大使でしたが憲法に誓いを立てることを拒否した唯一のフランス使節です。この勇敢で、高貴な行動により、ムッシュー・ド・ボンベルは大家族の父親でしたが、不遇な地位に降格されました。王妃はこのことを聞き、彼女自ら彼を称賛する手紙を書きました。さらに、彼女は君主たるもの、一致して充実なる臣下をねぎらわなければならないと言い、1万2000フランの年金を受け取ってくれるように頼みました。彼女は性格が明るくユーモアのある方でした。彼女は行政の重荷をひとりで背負っておられました。国王は何もしませんでした。彼ははカセルタで時間をつぶしていました。私がナポリに別れを告げる前に情報。私にラッカー塗りの箱をくださいました。彼女のイニシャルの周りにはダイアモンドがちりばめてありました。このイニシャルは1万フランの価値があり、私は生涯これを持ちつづけることでしょう。
私はヴェニスが見たくて仕方がありませんでした。私はその後に到着したのは昇天の祭日の前日でした。パリでお知り合いであったムッシュー・デノンが、これを聞き、すぐに私に会いに行きました。彼の知性と芸術に対する造形が深く、彼は私の偉大な先生でした。このようにに出会えて、私は幸せに思いました。彼が私を女に連れ出してくれた翌日の日はドージェと、海の結婚の日でした。ドージェと議員はブセンタウルと呼ばれる、内も外も金を塗った船に乗っていました。周りをボートの群れが取り囲み、何艘かには楽隊が乗り込んでいました。ドージェと議員は黒いガウンと白いカツラをつけていました。ブセンタウルは結婚のお祝いの場所に到着しました。ドージェは指から指輪を外し、海に投げ込みました。それと同時に先発ものとし国王が鳴り響き、この盛大な結婚式の成立を宣言しました。
この式典には多くの外国人が参列していました。その中にはイギリスのアウグストゥス王子とジョセフ・ド・モナコ公女がみえました。彼女は子供達のためにフランスに戻る準備をしていました。ヴェニスで彼女に会いましたが、これが最後となりました。
第5章終わり
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