2008年4月17日木曜日


第16章  陰気なイギリス

私は1802年4月15日にロンドンに向けて出発しました。私は英語を一言も知りません。私はイギリス人の女中を連れて行きましたが、まるで奉公がなっていませんでした。私はやむなくロンドン到着後しばらくして、彼女を解雇しました。彼女のすることは一日中バターをつけてパンを食べていることでした。幸いなことに私にはもう一人いました。かわいい女性でした。不幸な人生を送っていましたので、わが家が大変豪華に見えたのです。私に忠実なアデライデでした。彼女は私という友人同様の生活を送り、彼女の配慮と忠告は私には大変価値のあるものでした。

ドーバーで下船すると最初私はギョッとしました。多くの人が海岸に集まっているのです。この人たちは単に好奇心の強い無精者で、上陸する旅行者を見るのが習慣になっているだけだと聞かされてホッとしました。

太陽は沈み始めました。私はすぐ三頭立ての馬車に乗り、出発しました。私に心配がないといったら嘘になります。辻強盗に襲われることがあると聞かされていました。私は用心のためにダイアモンドを靴下に入れておきました。そうしたときに二人の馬に乗った男がギャロップで近づいてきました。私の恐怖が頂点に達したのは、二人が別々に私の馬車の両側の窓から覗き込んだ時です。正直いって私は震え上がりました。でもそれ以上何もありませんでした。

ロンドンは広くて美しいのですが、パリやイタリアの都市のように芸術家の興味を引くような食べ物がありませんでした。イギリスに数多くの美術品が無いわけではありません。しかしほとんどがお金持ちの個人の所有であり、彼らの田舎の邸宅や各地の役所に飾ってありました。この当時にはロンドンには美術館がありませんでした。ここ数年で国家への遺贈や生前贈与により美術館が出来たようです。絵が見られないので、私は公共の建物を見に行きました。ウェストミンスター寺院には何度か足を運びました。国王や妃の墓は見事でした。年代がそれぞれ違いますので、画家や愛好家には非常に興味深いものでした。とりわけ私が見とれてのはメアリー・スチュアートの墓です。彼女の息子であるジェームズ一世がこの不幸な女王の亡骸を納めました。偉大な詩人であるミルトン、ポープ、チャタートンを埋葬している場所で時間を過ごしました。この最後の人物は飢えで死にかけ毒を飲んで自殺しました。思い出しますが、死後の名声をたたえるためにお金が置いてありました。生前にこれだけのお金があれば、快適な日々を送れたでしょうに。

セント・ポール寺院も見事でした。このドームはローマのサン・ピエトロ寺院の模倣です。ロンドン塔ではいろんな時代の鎧の収集に興味をひかれました。王者の騎馬像が一列並んでおりました。その中にエリザベスも馬に乗り、閲兵しようとしていました。ロンドンの博物館には有名なキャプテン・クックが南洋諸島で採取した鉱物、鳥、武器、道具が陳列されていました。

ロンドンの道路は広くて清潔でした。両側の道路が舗装されていて、歩行者に非常に便利でした。文明の観点から禁止すべき光景を目撃するのも驚きです。互いにダメージを与えるまで戦い、傷つけ合うボクサーを見かけるのも稀ではありません。見物人にショックを与えそうな光景どころか、興奮をかきたてるためにジンをふるまうほどです。

ロンドンの日曜日は天気同様に陰鬱です。一軒の店も開いてませんし、劇場も舞踏会もコンサートもないのです。沈黙があたり一面を支配しています。日曜日には働くことも音楽を演奏することも許されないのです。住民に窓を割られる危険があります。時間をつぶす施設がないのです。あるのは歩道だけです。確かに人はよく歩いています。

ロンドンの主な娯楽と言えば、仲間たちと集まることです。200人から300人ほどの人々が場所を上り下りしています。男性は通常そばにいますから、女性たちは腕を組んで歩きます。この群衆の中では押されたり突かれるのは毎度のことですから、非常に疲れます。でも座る所は無いのです。このような散歩に出かけた時にイタリアで知り合ったイギリス人が私を見つけました。彼は私の所にやってきて、あたり一面を支配する深い沈黙の中で「この集まりを楽しいと思わないのですか?」と言いました。私は「私たちには退屈なことを楽しんでいらっしゃる」と答えました。女性とも離れ離れになりそうです。息の詰まりそうな群衆の中から抜け出せたら、どんなに嬉しいことかと思いました。

さらにロンドンの散歩は活気のないものでした。女たちはともに片側を歩き、みな白い服を着て、むっつりしていました。これほど大人しいと幽霊が歩きまわってるようでした。男たちは女によそよそしく真面目くさっていました。私は夫婦に出会うことがありましたが、ほんの少し後をつけてみて互いに口をきかどうか、見てやろうかと思ったことがあります。口をきく夫婦に出会ったことはありません。

私は一流の画家の所に行き、仰天しました。彼らは大きな部屋いっぱいに肖像画を飾っていましたが、顔の部分は未完成なのです。どうして完成前の絵をを飾るのかを尋ねました。全員が答えたのですが、肖像画の注文主が出来映えに満足してから顔のスケッチが描かれ、画家も納得する値段の半分が前金として支払われるというのです。

ロンドンでは高名なレイノルズの絵を見ました。いずれも彩色は見事でした。ティチアーノ風でした。でもほとんどが顔の部分だけ未完成でした。それでも私は彼の「チャイルド・サムエル」が大変気に入りました。完成度が高く、彩色も良かったのです。レイノルズは才能がありますが、謙虚な人でした。私が描いたムッシュー・ド・カロンヌの肖像画がロンドンの税関に届きました。レイノルズはこれを知り、絵を見に行きました。箱が開かれると、彼は長い間、肖像画に見とれて賞賛しました。その後バカなことを言いました。「これはよく出来た肖像画だ。マダム・ルブランは8000フランを受け取られたのですね!」「はい」レイノルズは「私は10万フランもらっても、こんなに上手に描けません」と言いました。

ロンドンの気候はレイノルズにとって絶望的でした。絵を乾かすのが難しいからです。私が聞いたところでは彼は絵の具にワックスを混ぜたということです。これでは絵が明るくなりません。事実、ロンドンの湿気はひどいので、私はロンドンで描いた絵を乾かすために、寝るまでスタジオの火を燃やし続けました。私は絵を暖炉から一定の距離をおきました。散歩に出かけることもありましたが、暖炉に近づけた方が良いのか、遠ざける方がいいのか確かめました。この辛い仕事は避けられませんが、耐え難いものでした。

ロンドンではコンサートが流行っていました。私は散歩よりもこちらの方が好きでした。チヤホヤされる外国人にとっては ― 私は幸いその一人でした ― イギリスの最上流階級に会う機会に恵まれます。招待はフランスと違って手紙ではありません。「この日、自宅にて」と書かれたカードだけです。

当時ロンドンで最も粋な女性はデヴォンシャー公爵夫人でした。私は彼女の美貌と政治的影響力を聞いていました。私が彼女のお宅を訪問した時のことです。彼女は思いやりがある態度で挨拶してくれました。彼女は45歳ぐらいだったでしょうか。彼女の顔つきは非常に整っていましたが、彼女はうっとりするほどではありませんでした。彼女の肌は冷たく、不運なことに彼女の片目は見えなかったのです。この当時、髪は額を覆っていて、髪の毛で目を隠していましたが、このような致命的な欠点を隠すには不十分でした。デヴォン知ら公爵夫人は中肉中背でした。太り具合も彼女の年齢には適当なものでした。自然な態度は大変好ましく思われました。

ロンドン到着をまもなくアミアン条約は無効となりました。一年以上イギリスに滞在していないフランス人は直ちに出国を強制されました。私が拝謁したプリンス・オブ・ウェールズは、私がこの勅令には該当しないと言って下さいました。彼は私の退去に反対し、父親である国王に私の滞在許可を頼みました。すべての必要事項を述べた許可が私に認められました。それによれば、私は王国内をどこへでも旅行する自由があり、宿泊したい港町で保護されます。これはイギリスに古くから滞在しているフランス人にも得られない特別の配慮でした。プリンス・オブ・ウェールズはご親切にも、この文章をご自身で私に手渡しに来られました。

プリンス・オブ・ウェールズは40歳ぐらいだったでしょうが、太っているために、それより老けて見えました。背は高く、体格がよくて、ハンサムな顔立ちでした。目鼻だちは整い特徴がありました。非常に念入りに仕上げられたカツラをかぶっていました。毛は額のところで分かれヴェルデレのアポロのようでした。このカツラは彼に非常に似合ってました。彼は運動能力に優れ、良いフランス語を流暢に話しました。彼は身だしなみに非常に気を配り ― 非常にお金を使いました。噂では、彼の負債は30万ポンドにもなるとのことでした。この負債は、最終的には父親と議会が支払いました。連合王国でも有数のハンサムな男性として、彼は女性たちのアイドルでした。

私が彼の肖像画を描いたのは、私の出国の直前でした。私は制服を着ている彼のほぼ全身像を描きました。私が彼の肖像画を描き始め、しかも完成するためにお願いした時間を了承して下さいました。これを知って、腹を立てたイギリスの画家が何人かいました。彼らはこのような譲歩をいつも期待していたからです。私は知っておりましたが、王妃が息子と私と関係を持っていると言われたのです。彼は私の家で昼食を取られたことが何度かあります。プリンス・オブ・ウェールズは午前中ポーズを取るとき以外、私の部屋に入られたことはありません。

彼の画が完成すると、彼はそれをミセス・フィッツハーバートに贈りました。彼女はそれを移動可能な額に入れました。まるで寝室の大きな化粧台のようです。彼女の部屋のどこにでも移動できました。私は非常に賢い方法だと思いました。

イギリスの画家たちの私に対する怒りは、おしゃべりの段階では収まりませんでした。肖像画画家のM. ― はフランス絵画一般、とくに私の絵を猛烈にけなす本を出版しました。本のいろんな部分は私に翻訳されました。非常に不当であり、馬鹿げているので、私はつい有名な画家たちを擁護すべく立ち上がりました。私は同胞です。そこで私はこのM ― に書き送りました。次のような内容です。

「絵画に関するあなたの著作で、あなたがフランス派の画家について語られているものと了解いたします。あなたはフランス派について何もご存知ないものと推察いたします。私はあなたのためになる話を差し上げるべきと存じました。まず第一に、あなたはルイ十四世治世下の偉大な画家を非難していないものと推察します。ルブラン、ルスール、シモン・ヴエたち、それに肖像画家リゴー、ミニャール、ラルリジェールです。当時の画家たちに関して30年前の仕事で評価するのは不当だというものです。それ以来、フランス派は凋落の兆しを見せていた分野とは全く違う分野で、偉大な進歩をとげました。しかしながら、凋落させた人物が非常な才能に恵まれていなかったわけではありません。ブーシェは生まれながらの色彩家です。構成力にをおいては追随を許しませんし、人物像の選択の趣味は優れたものです。洒落た女の部屋の絵以外描かなくなりました。彼の彩色は味気なくなり、様式にも反映しました。そしてこれが模範となると、すべての画家がそれに従おうとしました。彼の欠点は極端になりました。悪いものは一層悪くなりました。美術は取り返しがつかないほど衰退したように見えました。そこで登場したのが有能な画家ヴィアンです。彼の様式は簡素で厳格でした。彼は真の美術愛好家から評価され、彼こそフランス派を生き返らせたのです。以後フランスにはダビィッド、若きルイ・ドルエー ― 彼は24歳の若さでローマで死にました。彼が第二のラファエルと嘱望されていた矢先のことです ― ジェラール、グロ、ジロド、ゲランその他数多くの画家の名前を上げなければなりません」

「あなたが全くご存知ないダヴィッドの作品を批判されました。続いてご存知ない私をご批判くださいました。なんの驚きもございません。英語を知りませんので、私の絵について書かれた内容を読めませんでした。詳細は聞いておりませんが、聞く所によれば、あなた私を徹底的に罵倒されたとのことです。私がお答えできるのは、あなたがどれほど私の絵画を貶されようとも、私の欠点は私の方がよく存じているということです。いかなる画家であっても自分の絵画が完璧であると思うことはないでしょう。私は到底そのようには思っていません。私のどの作品にも満足したことはありません。にもかかわらず、あなたの批判が基本的に私にとっって重要な点に関係していることを知った以上、美術のためにこれを否定するのが、私の義務であると信じます」

「あなたが唯一認められた私の長所は『忍耐』です。あいにく私はそのような美徳を持ち合わせておりません。私はできるものなら仕事から離れたいのです。常々不完全だと思っております。不完全なままであるのが耐えられず、私の良心から長い間かけて考えて繰り返し修正いたします」

「私のレースを嫌悪されたようですが、私は15年間描いておりません。私はスカーフが大好きです。あなたもスカーフを上手く利用されてはいかがでしょう。信じてください。スカーフは画家に御利益があります。これを使われますと、あなたのひだの趣味が良くなります。これがあなたに欠けているとものです。布に関してですが、表情豊かなクッション、ビロードは私の仕事場にございます。出来る限りこれらの服飾品に注意を払うべきだというのが私の意見です。この点に関してラファエロが権威だと思います。彼はこの種のものを疎かにしませんでした。彼はすべてのものを明確に表現したいと考え、細かい点まで仕上げました ― これこそが美術の言葉です ― たとえ草むらの小さな花ですら。さらに私は古代の彫刻を例にしたいと思います。ささやかな付属品であっても、疎かにはしていません。ほんの一部であっても現代の愛好家に買い求めるのは、裸体を覆う感じの良くひだの付いたスカーフ、胸当ての装飾、サンダル ― すべてが完璧に仕上げられています」

「さらに私のスタジオを表して『店』という言葉について一言述べさせていただきます。この言葉は画家にふさわしくはありません。私は絵画をお見せするときにお金を頂いたことはありません。私はこのような慣行[ロンドンの画家の間では当時流行していた]を避けております」私は地位の高い方やお会いするに相応しいと思われる方々に毎週一日とっておきます。したがいまして『店』という言葉が不適切であると認めていただきたいのです。たとえ『ご訪問できて光栄に存じます』という挨拶をされる礼儀正しい方ですら例外ではありません」

この手紙は一部の友人に見せましたが、ロンドンの社交界では秘密ではありませんでした。M. ― には笑い事ではありませんでした。私の敵はさておき、彼はひだのつけ方を知りませんでした。

イギリスでは、私は知人であった同胞に数多く出会いました。私は幸運にもダルトア伯爵とバーシバル夫人のパーティーで再会しました。恰幅がよくなり私は本当に彼がハンサムだと思いました。数日後、彼は私のスタジオを訪問してくださいました。私は外出中でしたが、彼が帰りがけにちょうど戻って参りました。彼は気分良く戻ってきて、私のプリンス・オブ・ウェールズの肖像画を褒めてくださいました。この絵の出来映えに満足しているとお見受けしました。ダルトア伯爵は社交界にはあまり出入りしていませんでした。わずかな収入しかありませんでしたが、お金を貯め、貧困にあえぐフランス人を援助していました。善良な心の持ち主である彼は、あらゆる娯楽を犠牲にして慈善活動をしていました。

この方の息子であるド・ベリ公爵はある朝、私を訪問されました。彼は腕に小さな絵を抱えていることがありました。この絵は非常に安い値段で購入したものです。彼の鑑識眼が素晴らしいのは、絵が見事なウーバーマンだったことです。画面がススで汚れていたのに絵を見抜くには感性が必要です。ド・ベリ公爵は音楽も大好きでした。

私がロンドンでお芝居を見ていたときにダンジエン公爵が殺されたという報道が入りました。この知らせが劇場に広まり、ボックス席の女性たちが舞台に背を向けました。誰だったかが入ってきて、この報道が間違っていると言わなかったら、劇は続けられなかったと思います。ここで全員が席に戻り、劇は続けられました。外に出たら、なんと!この報道は誤報ではいことが確認されました。さらに、この残虐な犯罪の一部始終を知りました。これがナポレオンの経歴に恐ろしい血痕を残すことになります。

翌日私たちは高貴な犠牲者を追悼するミサに出席しました。フランス人は全員、イギリスの貴婦人も数多く出席しました。アッベ・ド・ブバンは感動的にダンジエン公爵の功績の数々を話しました。説教の終わりは、全能の神がわれらの愛する高貴の方々を同様の運命から守りたまえ、という祈りでした。ああ!祈りは聞き届きられませんでした。ド・ベリ公爵が卑怯な暗殺者の短剣で倒れるのを見なければなりませんでした。

第16章終わり

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