2008年4月18日金曜日


第10章  皇帝パーベル

皇帝パーベルは、1754年10月1日に誕生し、皇位を継承したのは1796年12月12日でした。エカテリナの葬儀に関して私が述べたことで、新皇帝が国民とともに悲しんでいなかったことの証拠になります。周知のことですが、ニコラス・ズーボフに聖アンドリュー勲章を授けました。彼は皇帝の母の死去のニュースを伝えたからです。パーベルは賢く、博識であり、精力的でした。しかし彼の気まぐれはほとんど狂気に近いものでした。この不幸な皇帝の寛大な感情はしばしば残忍な感情の爆発でした。寛容であるかと思えば怒り、思いやりがあるかと思えば、恨みというもので、全く気まぐれでした。

ある晩私は宮廷の舞踏会にまいりました。男女ともに黒いドミノ仮面をつけていましたので、誰もが皇帝も仮面をつけているものと思いました。二つの部屋の間の出入り口は人ごみで混雑していました。ある青年が急いで通り過ぎてある女性に肘で押してしまいました。パーベルは直ちにお付きの士官に「あの男を要塞に連れて行け、戻ってきたら、あの男が牢獄に入っているかどうか報告せよ」と命じました。士官はすぐに戻ってきて皇帝の命令を実行したことを報告しました。彼は「しかしながら陛下、申しあげますが、あの青年は近眼です。ここに証拠がございます」と言いました。彼は持参した囚人の眼鏡を取り出しました。パーベルは、眼鏡を調べ、納得し、興奮して言いました。「すぐに出って、あの男を両親のも取り戻せ。あの男が家に戻ったという報告を聞くまでわしは寝ないぞ」

パーベルの命令に少しでも逆らえはシベリアに流刑されるか監獄行きでした。狂気と気まぐれがどこまで進行するか予測できず、人々は恐怖の中で生活していました。やがて、人々はの仲間を家に招待しないようになりました。数人の友人がいても用心深くシャッターを閉めました。舞踏会があった時も馬車は家におくり返されました。注目を引かないためです。すべての人の言動は監視され、私が聞いたところでは社交界には必ずスパイがいるということでした。皇帝の噂は互いに控えていました。私の記憶ですが、ある日私は小さな集まりに出掛けました。私を知らないある貴婦人があえてこのことを話題にしました。ですが、この方は私が部屋に入るのを見るなり、話を打ち切りました。ゴロヴィン伯爵夫人はやむなく、彼女に続けるように言いました。「怖がらないでお話しください。マダム・ルブランです」エカテリナのもとで生活してきたあとでは、誠に息苦しいものでした。エカテリナは自由にものをいうことを許してくれたからです。

パーベルがやってきた無駄な暴政の例を上げたしたら、きりがありません。たとえば、彼はすべての人が宮殿に向かってお辞儀をするように命令しました。たとえ彼が不在であっても。丸い帽子の着用は禁じられました。彼にはそれがジャコバン主義の象徴に見えたのです。警察官は丸い帽子を見るや、杖で払いのけました。こんな法律を知らない人たちは帽子を脱がされて、非常に困りました。一方ではすべての人がパウダーを使うように命令されました。この法律が制定されたとき、私は若きバリアティンスキー公爵の肖像画を描いていました。彼はパウダーをつけないで来てくれという私の要求に同意しました。ある日彼は死人のように青ざめてやってきました。「どうされました?」と私は尋ねました。彼は「私は皇帝に今会ってしまった」と震えながら答えました。「扉に隠れる暇もなく、皇帝が私を見つけるのではないかと死ぬほど怖かった」バリアティンスキー公爵の恐怖はもっともでした。すべての階層の人たちが同様でした。サンクト・ペテルスブルグの住人で、ベッドで一晩眠っても、次の晩、眠れる保証はありませんでした。

私自身断言できますが、人生で一番恐ろし体験をしたのはパーベルの治世下の時代です。だしはある日、その日を過ごすためにペルゴオラに出掛けました。同行したのは私の馭者のムッシュー・ド・リヴィエールと忠実なロシア人の召使いピヨトルでした。ムッシュー・ド・リヴィエールが鳥やウサギを撃つために猟銃を持っていました。ところで彼は、そんなに獲物を仕留めませんでしたが。突然私は気がつきました。食事を調理するためにつけた火が木に燃えうつり非常な勢いで広がっていきました。木々は密集していますし、ペルゴオラは、サンクト・ペテルスブルグに近いのです!私は恐怖で、叫び声をあげムッシュー・ド・リヴィエールを呼びました。恐怖もあって、私たちはこのを消すことに成功しました。手にひどい火傷をしましたけれども。皇帝やシベリアを思い浮かべました。私たちがどれほど熱心だったかは、ご想像いただけると思います。

パーベルで思い出す恐怖は、一般的な事実から申しあげていますが、私自身に対しては礼儀正しく思いやりのある方でした。私がサンクトペテルスブルグで、最初に彼にお会いしたときのことです。彼がパリを訪問されたとき、私は彼にお会いしていたのです。彼は覚えて下さっていました。私はそのころまだ若かったし、それ以後ずいぶん時間が経っていますので。このことを忘れていました。彼は顔と名前を覚える才能を持ち合わせていました。彼の治世で奇妙な法令の中で順守するのが厄介なのがありました。皇帝が通り過ぎるとき、男女ともに馬車から降りるというものでした。ところでパーベルは非常にサンクトペテルスブルグの街に出掛けました。彼はいつも街を通っていました。わずかなお付で、馬に乗っていることもあり、付き添いなしで、それに乗っていることもありました。彼であるという前触れは何もありません。それでも彼の怒りにふれないように、彼の命令に従わなければなりません。同意していただけるでしょうが、飛び降りて、どんなに寒くても雪の中に立っているのは残酷でした。ある日外に出かけた時のことです。馭者は、彼が近づいてくるのに気がつきませんでした。「止めて皇帝よ」と叫ぶのもありませんでした。私のドアが開いて、私が降りようとしたとき、皇帝自らソリからおり、私を礼儀正しく止めました。命令は外国の貴婦人とりわけ、マダム・ルブランに出したものではないと言いました。

パーベルの気まぐれな寵愛はいつまでも続くとは限りません。趣味や愛好でこれほど変わりやすい人はいないからです。治世の初期にボナパルトを嫌っていました。後に彼はボナパルトに親愛の情を抱くようになり彼の肖像画を個室に飾り、皆に見せていたのです。彼の好き嫌いは長続きしませんでした。ストロガノフ伯爵だけが例外でした。宮廷人で皇帝に気に入られているのは誰もいませんでした。彼のお気に入りはフランスの俳優フロジェールでした。才能は無くはないが、世渡りが上手な方でした。フロジェールは皇帝の書斎にいつでも予告なしに出入りすることができました。二人が腕を仲良く腕を組んで庭園を散歩しているのを見かけました。話題はフランス文学です。パーベルはフランス文学とくにドラマに憧れを持っていました。この俳優は宮廷の小さな集まりに招待されました。冗談には才能がありました。彼は大貴族も冗談のネタにしましたが、これが皇帝を大いに喜ばせましたが、ネタにされた人達にはそれほど面白くもないものでした。

大公殿下達もフロジェールの悪ふざけから逃れることはできませんでした。事実パーベルの死後彼は宮廷に出入りしなくなりました。アレクサンドル皇帝はモスクワの街をひとりで歩いてをられました。皇帝は彼に会い、「フロジェール」と気楽に声をかけました。「君はなぜ私の所に行いのかね?」フロジェールは、ホッとして答えました。「私は陛下の住所を存じありませんでしたので」と答えました。この冗談に皇帝は大笑いし、このフランス人の俳優に給料の未払いを気前よく出しました。この哀れな男は、怖くて請求できなかったんです。

長い間パーベルと関係があったので、フロジェールが君主の恨みを恐れたのは、至極もっともなことです。パーベルは復讐心に燃えていたからです。彼の暴政の大部分はロシア貴族に対する憎しみに由来するものです。パーベルはエカテリナの生存中彼らに恨みを抱き続けていきました。この憎しみのはあまり有罪と無罪を混同し、彼が追放しなかった人たちを卑しねては喜んでいたのです。一方外国人とくにフランス人には、非常に親切でした。証言しておかなければなりませんが、彼はフランスからの旅行者や亡命者に対して非常なもてなしをしました。

フランス人の中には非常に気前よく援助してもらった人がいます。たとえば、ドティシャン伯爵の例です。彼はサンクト・ペテルスブルグで、無一文でやってきました。彼は小さくて弾力性のある靴を作ることを思いつきました。私は一足買いましたが、それをドルゴルキ公女邸で宮廷の女性たちに見せました。彼女たちは素敵だとい、亡命者の胸部に対する同情もあって、たちまちたくさんの靴の注文ということになりました。この靴は皇帝の目にとまることになりました。皇帝は、この職人の名前を知るとすぐに彼を呼び出し、良い官職を授けました。あいにくそれは秘密の官職でしたので、ロシア人は怒りパーベルもドティシャン伯爵を長くそこにおけませんでした。しかし皇帝は、彼を貧困から守るために取り計らいました。

このそのことがあって、正直に申しますと、私は皇帝に甘えてしまいました。ところが、ロシア人にしてみれば、最高権力を持った狂人の途方もない気まぐれにより、いつも平安を脅かされていたのです。以前はのどかで平和な宮廷の恐怖、不満、ひそひそ話をお伝えするのは困難かと思います。確実に言えることは、パーベルの治世が続く限り、今日こそがその時代の秩序だったのです。いじめられた人が他人をいじめるように、パーベルの人生は決して羨ましいものではありませんでした。彼は刃か毒で死ぬと信じていました。この信念が彼を奇妙な行動に向かわせたのです。

昼夜を問わず、サンクト・ペテルスブルグの街を歩き回って一方で、彼は用心深くスープを彼の部屋で作らせました。その他の料理も同様に彼の秘密の部屋で調理されました。これらすべては忠実なキュタイソフが監視していました。彼は信頼できる付き人であり、パリにも同行した人物で、いつも彼に付き添っていました。キュタイソフは皇帝に限りなく献身ぶりであり、終生変わることはありませんでした。

パーベルは非常に醜い人でした。鼻は低く、口は大きく、歯が向き出ていました。まるで死の顔でした。目は時々優しいこともありましたが、ギラギラしていました。彼は中肉中背でした。全体としてある種の優雅さに欠けてはいないとしても、彼の顔は戯画を描きたくなるものでした。事実、このような娯楽は危険を伴いますが、それでも多くの戯画が描かれました。その戯画は両手に紙を持っているものでした。一枚には「命令」、もう一枚には「命令取り消し」、額には「異常」と書かれていました。この戯画について語るとき、私は震えがでます。危険な状態にある人のことを考えてしまいます。作者と購入者の両方です。

こんなことすべて申しあげましたが、サンクト・ペテルスブルクは一時滞在の画家にとっては、楽しくてお金儲けにはなる所です。パーベル皇帝は絵画の愛好家であり、パトロンでした。フランス文学の崇拝者であり、俳優には気前よく補助金を出しました。皇帝は俳優たちのおかげで、フランスの演劇の傑作の上演を楽しめたからです。

私の父の友人で、歴史画家のドヤンについては、私はすでに申しあげました。彼はエカテリナの時代同様、パーベルにも重用されました。ドヤンは当時高齢で、質素な生活をしていました。彼は女帝の申し出のほんの一部を受け取りました。皇帝はエカテリナ同様にしました。皇帝は、彼に内装がまだできていない聖ミカエル新宮殿の天井画を命じました。不安な仕事をしていた部屋はエルミタージュに近かったのです。パーベルと宮廷の人々はミサのためにそこを通りかかりました。皇帝はミサから戻るとドヤンに親しげに話しをしました。

今でも思い出しますがある日、皇帝のお付きの人がドヤンに話しかけました「少し眺めさせていただきます。あなたは描いてらっしゃるのは、太陽の戦車の周りを踊っている『時間』ですね。向こうに一つ見えます。他の『時間』は同じ大きさなのに.小さい気がしますが」ドヤンは冷静に答えました。「はい、おっしゃる通りです。でもあなたが指摘されましたのは『半時間です』」話しかけた人物は納得して、喜んで去っていきました。忘れずに記録しておかなければなりません。皇帝は、天井画ができあがる前に支払いをすましたかったのです。皇帝は、ドヤンに多額の紙幣を紙に包んで送りました。金額は覚えておりません。パーベルを自筆で書いていました「このお金で、絵の具でも買って下さい。油はランプにまだ残っているでしょうから」

私の父の旧友がサンクト・ペテルスブルグの生活に満足してるように、私も同様でした。私は朝から晩まで休む間もなく仕事をしました。日曜日だけは2時間仕事を休みました。私のスタジオみたい人たちがいましたし、その中には大公や大公妃もいましたから。すでに申しあげた絵やズラリと並んだ肖像画以外に、私がパリから取り寄せたマリー・アントワネット王妃の大きな肖像画がありました。彼女が青のビロードのドレスを着ている絵です。この絵に対する一般の関心で、私は嬉しく思いました。ド・コンデ公は当時サンクト・ペテルスブルグに滞在中でしたが、これを見て一言も発せず、涙を流しました。

生活環境の点において、サンクト・ペテルスブルクには何一つ不自由はありませんでした。まるでパリに住んでいるような気がしました。たくさんのフランス人がおしゃれな集まりにいました。私がリシューリュー公爵やド・アンジェラン伯爵に再会できたのはこんな場所です。お二人ともこの住人ではありません。一人はオデッサの知事、もう一方は常に軍事視察の目的で旅行しておられました。でも他のフランス人たちとは事情が違います。たとえば、私は愛らしくって優しいドゥクレ・ド・ヴィレヌーヴ伯爵夫人と知り合いになりました。この若い女性は愛らしいだけではなく、体格がよく、心の美しさから来る独特の魅力がありました。彼女とはサンクト・ペテルスブルグとモスクワでもお会いしました。私が思い出しますのは、ある日、彼女の所に食事に出かけた時のことです。こんなことはロシアでは珍しくありません。しかしびっくり仰天したのはドゥクレ・ド・ヴィレヌーヴ伯爵がソリで私を迎えに行たのです。非常に寒かったので、私の額は凍ってしまいました。私は恐怖で「私はもう何も考えることができない!」と叫びました。ムッシュー・ド・ヴィレヌーヴは店に連れていき。そこで私の額を雪でこすりました。この治療法はロシア人が同じようなときに使っているものです。私の心配ははたちまち消えました。

私をこんなに大事にしてくれたロシアの人たちをおろそかにはしませんでした。私のフランス人の友人や私のロシア人家族との関係をは、親密になるばかりでした。すでに申しあげた多くの人々以外にも、私はムッシュー・ディミドフにお会いしました。彼はロシア有数のお金持ちの紳士です。彼の父親は彼に鉄や水銀の鉱山を遺しました。政府向けの巨大な売り上げで、ますます財産を増やしました。彼の途方もない財産のおかげで、ロシア有数の古くからの貴族のストロガノフ家の令嬢、マドモアゼル・ストロガノフと結婚することができました。この結婚は上手くいき、二人の男の子が生まれました。一人はほとんどパリで過ごしており、もう一人は絵画の愛好家です。

皇帝は私に方法の肖像画を制作するよう命じました。彼女がタイヤの冠をかぶり礼服を立像を描きました。私はダイヤモンドを描くのが嫌いです。筆はその輝かしさを表せないのです。それでも背景に大きな深紅のビロードのカーテンを置き、冠を出来る限り輝かせるのに成功しました。私が細部を完成させるために絵を家に送りました。皇后は礼服とそれについている宝石類を私に貸すと言われました。たいへん高価なものですので、私はお預りすることをお断りしました。心配で夜も寝られないからです。それよりは、私は肖像画を宮中で、完成させたいと思い、私は絵を宮廷に持ち帰りました。マリア皇后はとても綺麗な方で、太られて若さを保ってみえました。彼女は背が高く、威厳があり、髪は素敵なブロンドでした。第舞踏会で、彼女をお見かけしましたのを記憶しています。彼女は両肩に美しい巻き毛をたらしダイアモンドのティアラをつけておられました。この背のたかい美しい女性が堂々としてパーベルの隣に歩いていました。誠に対照的でした。それに優しい性格が彼女の愛らしさを引き立てていました。マリア皇后こそは真の福音の女性と言うべきでした。彼女の徳の高さは広く知られています。彼女こそ中傷されない女性の唯一の例であると思います。申しあげますが、私は彼女のお気に入りなったことを誇りに思っています。あらゆる機会で皇后が私に示して下さが好意は山ほどあります。

皇后は宮廷晩さん会のあとでポーズを取られました。ですから、皇帝と二人の息子アレクサンドルとコンスタンチンはいつも同席していました。観客がいても私は全然気になりませんでした。とりわけ、皇帝は、一人の時は多少気後れもしますが、私には非常に丁寧でした。私がすでにイーゼルに向かっているとき、コーヒーが出されたことがあります。皇帝は私にカップを持ってきてくださり、私が飲み終わるまで待って、それを片付けました。本当の話ですが、次の時、彼は私の前でコミカルな役を演じました。私は皇后の後に静かな背景をおくために幕を張っていました。パーベルはまるで猿のように、おどけた格好をしました。幕をひっかいたり、それに登るふりをしました。アレクサンドルとコンスタンチンは、外国人の前での父親のグロテスクな振る舞いに悲しげでした。私自身もお二人のためにお気の毒にかんじました。

ポーズをとっておられる間、皇后は二人の息子ニコラス大公とミハイル大公を呼びました。現在の皇帝であるニコラス大公ほど可愛らし子供を見たことがありませんでした。現在でも私は記憶で、彼を描くことができると信じております。それほど彼の顔は愛らしいのです。ギリシャ的な美しさのあらゆる特徴が備わっていました。

私がもう一つ記憶してますのは、これとは全く違う、ある老人の美しさのタイプでした。ロシアでは、皇帝が政府、軍隊と同時に教会の頂点に立っていますが、宗教的実権は第一の「父」が握っています。ロシアでは「大修道院長」と呼ばれています。彼とロシア人との関係は、法王様と私たちの関係のようなものです。この席を占める聖職者の高徳については、しばしば耳にしていました。

ある日私の知人が彼の元を訪問したときですが、一緒に行かないかと誘ってくれました。私は大喜びでこの招待を受けました。私の人生で、このように威厳のある人物に会ったことはありません。彼は背が高く、堂々としていました。彼の顔立ちは美しく、目鼻だちは完璧に整っており、やさしさと高貴さを兼ねそなえ形容しがたいものでした。長い白ひげは胸まで垂れ、彼の威厳のある顔にさらに厳粛な趣を与えました。彼の衣装は簡素で、威厳のあるものでした。彼の衣装は、長い白衣でした。前で上から下まで黒い幅の広い布で分かれており、ひげの白さを際立たせていました。彼の歩き方、仕草、まなざし、すべてが初対面からの尊敬を抱かせるものでした。大修道院長は最高の人でした。彼は深い心の持ち主であり、教養があり、何カ国語も話せました。さらに得の高さと優しさですべての人から慕われました。彼は厳粛な聖職者ですが、上流社会に対しても気軽であり、恵み深かったのです。大層綺麗なガリチン公の令嬢の一人がある日、彼を見かけて走りより、ひざまずきました。この老人はすぐに一人のバラを取り、バラを祝福して彼女に与えました。サンクト・ペテルスブルグを去るにあったて、私が残念なことは大修道院長の肖像画を描かなかったことです。これほど素晴らしいモデルに出会った画家は無いと私は信じるからです。

第10章終わり

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