2008年4月17日木曜日


第17章  イギリスの人達と各地

ロンドンの気候が陰気であったために、私は当初滞在を3カ月ぐらいにしようと思っていました。親切なもてなしを受けて、私は結局ロンドンに3年も滞在することになりました。ロンドンは私の健康によくありませんでした。ですから私は、機会をとらえては、イギリスの素晴らしい谷間や渓谷の新鮮な空気を吸おうと思いました。そこに出かければ、多少とも日の光を眺めることができました。ロンドン到着後まもなく、ギルウィルのミセス・チネリのお宅で2週間を過ごしました。ここには有名なヴィオッティがいました。実に豪華な邸宅で、私は心温まる歓迎を受けました。到着すると門の柱は巻きつけた花輪で飾ってありました。階段も同じように飾られ、ところどころに大理石のキューピッドが立っており、バラの花の花瓶を持っていました。春の妖精劇でした。客間に入ると愛らしい天使、ミセス・チネリの男の子と女の子がとても気持ちの良い曲を歌ってくれました。これは気の良いヴィオッティが私のために作曲したものです。私はこの間心のこもった挨拶に感動しました。私がギルウィルで過ごした2週間は喜びの日々でした。ミセス・チネリは心が細やかであり、美しい女性でした。14歳になるお嬢さんはピアノをびっくりするほど上手に弾きました。ですから毎晩、この女の子とヴィオッティそれにご自身音楽に造詣の深いミセス・チネリが合奏してくれました。

私が記憶してますのは、この家の坊ちゃんは、まだ子供でしたが、学問に非常な関心がありました。彼は本を放っておけませんでした。お遊びの時間が来て、外に出て妹さんと遊びましょうと言いましたが、彼は「僕は今遊んでいる」と答えました。18歳でこの青年は大いに評判を取り、フランスの王制復古の時、フランス遠征中のイギリス軍の経費の審査を任されました。

ロンドン郊外の遠出にも早速出掛けました。この遠出が私の娯楽の時間のすべてでした。

王宮のあるウィンザーでは私は公園を眺めました。たいそう綺麗でした。国王は豪華なテラスで散歩をしておられました。ここからの眺めは壮大でした。ハンプトン・コートも王宮でした。実に見事なステンドグラスの窓がありました。非常に古いもので、私がこれまでに見たものの中で最高の窓でした。名画もありましたし、ラファエルの大きな下絵もありましたが、私は充分に観賞できませんでした。下絵は床の上に置いてあり、私は長時間膝をついて、絵の前にいましたので、守衛が驚いていました。美術館には昔の鎧や武器が展示されていました。庭園には見事な黄色のバラの茂みがありました。さらに、大きな葡萄の樹があり温室で囲まれていました。ある年1500ポンドの葡萄が収穫されたそうです。

私はバリアティンスキー公その他数人のロシア人とハーシェル博士を訪問しました。この高名な天文学者はロンドンから少し離れた所に一人こもって住んでいました。妹さんがいつも彼と一緒でした。彼女は彼の天文学の研究を助けていました。お二人とも学識と品位があり、良き研究仲間でした。階段の近くに大きな望遠鏡がありましたが、ぐるりと一回りしなければならない大きさでした。博士は私たち一同を暖かく迎え入れてくださいました。私たちに黒いガラスを通して太陽を観察しました。太陽の上の二つの点を教えてくれました。一つは、かなり大きなものでした。夜には、彼が発見し、彼の名前がついた惑星を教えてくれました。彼の家で月の地図を見せていただきました。非常に詳しいもので、山、谷、川があり、われわれが住んでいる地球とよく似ていました。事実われわれの訪問中は退屈しませんでした。ロシア人の仲間、アデライデ、私は楽しい時間を過ごしました。

ロンドン郊外のお話をするとき。思い出すのは、イギリスの温泉場です。

マトロックはスイスの景色にそっくりでした。歩道の一方にはひときわ目立つ岩がいくつもあり、色とりどりの灌木が生えています。一方では美しい牧場があります。イギリスの植物は誠に愛らしいのです。自然の美しさを愛する人たちをすっかり魅了してしまう眺めがあります。美しく澄んだ流れの辺りを人々が歩いていて、私は離れがたい思いをした記憶があります。

タンブリッジ・ウェルズも温泉場ですが、絵のように美しい場所です。この辺りで朝の散歩をする人もいますが、夜には数多くの人の集まる社交で非常に疲れるのも確かです。人々は食事に集まります。夕食やディナーの後全員が立ち上がり国王陛下のために「国王陛下万歳」を歌います。これを聞くとき、私はついイギリスとフランスを比較してしまい涙が出たものです。

タンブリッジ・ウェルズとマトロックよりも有名なのがブライトンです。ブライトンにはプリンス・オブ・ウェールズが邸宅を構えていました。ブライトンは美しい町で、フランス海岸の町ディエップに面しており、眺めることもできました。私がそこにいたころ、イギリス人はフランス人の襲撃を恐れていました。将軍たちはいつも民兵を訓練していました。民兵たちは長い間、太鼓を打ち鳴らし、物凄い騒音を立てていました。私はブライトンの海岸の散歩を楽しみました。ある日私は不思議な光景を目にしました。霧が非常に濃くて海辺の船が空中に浮いているように見えました。

数日間のノールズ城で過ごしたこともあります。この城はかってはエリザベス女王が所有していましたが、今ではレディ・ドーセットのものです。城門で巨大なニレの木が二本ありました。話では、樹齢は1000年以上とのことでした。それでもとくに上の方では葉が生えていました。公園は森と境界を接しており、誠に絵になる光景でした。後には見事な絵があり、家具はエリザベス女王時代のものでした。レディ・ドーセットの寝室では、ベッドのカーテンは一面金銀の星がちりばめであり、化粧台はすべて銀で作られていました。大変な資産家であるレディ・ドーセットはサー・A・ウィルフォードと結婚しました。ご主人がイギリス大使としてサンクト・ペテルスブルグに滞在しておられるころ、私は彼とお知り合いになりました。彼には資産がありませんでしたが、体格が立派で物腰が非常に上品でした。ディナーで出会ってまずレディ・ドーセットは私に「私たちは食卓では話をしませんので、退屈なさるでしょう」と言いました。この点について私は彼女を安心させました。私は長年、ひとりで食べていますので、私の習慣になっておりますと言いました。この習慣が気に入っているに違いありません。デザートになり、11歳か12歳ぐらいの男の子が入ってきましたが、彼女は一言も彼に話しかけませんでした。彼女は男の子を部屋から出しましたが、何一つ愛情の印を見せませんでした。私はついにイギリスの女性の評判を思い出してしまいました。子供が大きくなると全く世話をしなくなる ― つまり好きなのは小さいときだけであるという話です。

ロンドンで、私はド・ヴォードレイユ伯爵と旧交を暖めました。彼の風貌はすっかり変わり、老け込んでいました。フランスのことで、あらゆる苦労をしたからです。彼はイギリスで姪と結婚しました。私はトウィケンハムに住んでいる彼女を訪ねました。ド・ヴォードレイユ伯爵夫人は若くて、魅力的でした。彼女の目は素晴らしく青く、顔は愛らしく、生き生きとしていました。トウィケンハムで二、三日過ごすように言われ、お言葉に甘えました。その間、私は彼女の二人の男の子の肖像画を描きました。

ドルレアン公殿下は近くに住んでいました。ド・ヴォードレイユ伯爵はドルレアン公の大のお気に入りでした。伯爵は私をドルレアン公の屋敷に連れて行ってくれました。ドルレアン公の趣味と言えば研究でした。本が一杯ある長い机に向かって腰を下ろし、一冊の本を開いていました。訪問中彼は、弟であるド・モンペンシェール公爵が描かれた風景画を指さしました。私がマダム・ド・ヴォードレイユのお宅に宿泊してるときですが、彼とは面識ができました。いちばん下の弟であるド・ボージョレ公爵とは彼が散歩中にお会いしました。彼はまずまずの容貌で、活気がありました。ド・モンペンシェール公爵は私を訪問し、外出して互いにスケッチを描きました。彼は私をリッチモンドのテラスに案内してくれました。眺めは素晴らしいのです。高台に上ると川の水路を眺めることができました。私たちは愛らしい牧場にも足を運びました。ミルトンが腰をおろしていたという樹の幹があります。彼が言うには詩人は「失楽園」を書いたのです。概してトウィケンハムの周辺は興味深いものであり、ド・モンペンシェール公爵は知り尽くしていました。彼に案内してもらい、私は大変幸せでした。それにこの若い貴公子は非常に親切で、思いやりのある方でした。

私はアンスパッハ辺境伯夫人の肖像画を約束していました。彼女は数日間ここで宿泊して約束を履行してほしいと頼んだのです。辺境伯夫人が非常に変な女性であると聞いていました。一瞬たりとも気の休まること、毎朝五時に起こし、耐え難いことを山ほどすると聞いておりました。そこで私は条件を明記した後に、招待を受けることにしました。第一に私が遅くまで寝ていられるように、静かな部屋を要求しました。次に二人で外出する時に私は馬車のなかでは口をきかないこと、さらには一人の散歩を好むこと。この貴婦人はすべてに同意し、きちんと約束を守りました。たまたま彼女と彼女の庭園で出会ったとき、彼女は日雇い労働者のように。そこで仕事をしてることがありましたが、彼女は私を見ないふりをして、口を開かずに私を通らせてくれました。アンスパッハ辺境伯夫人は誹謗中傷の対象になっていたのか、それとも彼女は仕方なく自分を抑えたのでしょうか。いずれにしても彼女の家で気楽に過ごすことができました。ブレンハイムという彼女の田舎の家にいくようにわれた時には、私は躊躇しませんでした。こちらの庭園と屋敷はアーメスモットよりもはるかによく、時間は快適に過ぎて行きました。楽しい夜会、芝居、音楽 ― 何も不足はありませんでした。1週間の滞在と約束したのですが、私は3週間滞在しました。

辺境伯夫人と水遊びに出掛けたこともあります。あるときはワイト島に上陸しました。この島は岩に高くそびえておりスイスを想わせます。この島の住民は穏やかで優しいので知られています。聞いたところでは住民は、一つの家族のように生活しています。生活はいたって平和で幸せです。今では多くの連隊がこの島に駐屯していました。静かな生活に関してはもはや、いぜんのようではありません。しかし私が訪れた時には、人々は身ぎれいで、礼儀正しくて親切でした。人々の穏やかさ以外に兄は誠に素晴らしく、こんな美しいところで人生を過ごせたらと思いました。私がこんな希望を抱いたのは、ワイト島とナポリの近くであるイスキアだけでした。

モイラ郷の田舎の邸宅にも出掛けました。彼の邸宅の名前を忘れてしまいましたが、何もかもが快適で辺り一面、誠に清潔でした。モイラ卿の妹であるレディ・シャーロットが色々気配りをしてくれました。ここで退屈したのは、ちょっとした手違いだったでしょう。ディナーで女たちはデザートの前にテーブルを離れ、男達は残って酒を飲みながら政治の話をします。私は断言できますが、私の出席したパーティーでは男は酔っ払っていません。このような習慣がかってイギリスにあったとしても、上流階級に関しては無くなっていると信じます。モイラ卿の邸宅で、ド・ベリ公爵とご一緒にディナーに招かれましたが、公爵が飲まれるのは水だけで、ワインを飲みすぎるなんてことは、絶対にありませんでした。

をわたしたちは刺繍やタペストリーで覆われた大きなボールに出掛けました。女性たちは別の所に席を取り、全く静かにしています。男性はもう一方の席で、本を手にし、沈黙を守っております。ある晩のことですが、月がこうこうと照っていました。庭園の中を散歩していけないかとモイラ卿の妹さんに訪ねました。よろい戸が降りているのでまた開く時には注意がいる、と彼女は答えました。画廊が一階にあるからです。書庫には版画の収集がありました。そこから取り出して眺めるのが私の唯一の気晴らしでした。お手本に従って、一言も喋らないようにしていました。このような寡黙な人たちの中で、私は一人あれこれ空想に浸っていましたが、見事な版画に出会い、驚嘆の声をあげてしまいました。一同は仰天しました。それでもイギリスでは会話がないからといって、楽しいお喋りがないわけではありません。私は非常に頭の良いイギリス人を数多く知っています。さらに言えば、愚かな人物に会ったことは一度もありません。
モイラ卿の邸宅に滞在中、遠くまでの散歩する季節は過ぎていました。レディ・シャーロットは馬車で遠出しないかと言いました。彼女は荷車のように堅いカリオールのようなものに乗って出かけました。長時間我慢するのは大変な代物でした。イギリス人は天気には構わないのです。土砂降りの雨の中、幌のない馬車で傘もささずにいるイギリス人を見かけました。彼らはマントをかぶるだけで満足しています。雨になれない外国人にとっては大変です。イギリス式の馬車で家路に着くとき、私はロンドンから4マイルが5マイルの丘の上でこの巨大な都市を望んだことがあります。でも霧が厚く覆っていますので、どれか分かりませんでした。分かるのは、塔の先端だけでした。


第17章終わり

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