
第1章 若き日々
私の子供時代から話を始めることにします。この時代が私の生涯を暗示しているからです。私の絵への愛情はこの早い時期に明らかだったからです。6歳で寄宿舎に入れられ、11歳までそこにいました。その間私は自分の帳面だけでなく、友人の帳面まで、顔の正面や横顔を描き込みました。寄宿舎の壁に色チョークで顔や風景を描きました。どれだけ叱られてパンと水を絶たれる罰を受けたかご想像できるでしょう。外での自由時間を利用しては思いついた絵を地面に描きました。7歳か8歳のころ、ランプの光りを頼りに、ひげを生やした男性の絵を描いた記憶があります。この絵は今でも私はとってあります。お父さんが喜んでしまい、叫びました。「お前は間違いなく絵描きになれるよ!」生まれつき絵に対する情熱を持っていたことをお話ししたかったのですが、この情熱は失われることなく、ますます強くなる一方でした。私はこの魔法にかかったままですし、死ぬまで続くと思っています。私はヨーロッパの高貴の方々に巡りあわせていただく幸運に恵まれましたが、これもひとえに並はずれた情熱のせいだと思います。
寄宿舎にいた頃、私は体が弱く、両親は度々私を引き取りに来ては家で数日すごしました。これは私には好都合でした。父のルイ・ヴィジェーーは達者なパステル画を描きました。かの有名なラトゥールに匹敵するような絵も描いたこともあります。お父さんはそのスタイルで顔を描かせてくれました。実際一日中クレヨンを使わせてくれました。お父さんは絵に没頭していた人なので、ときどき奇妙なことをしました。私が記憶していることがあります。ある日町での晩餐に出かけましたが、すぐに戻ってきました。描き始めた絵を直したくなったのです。お父さんはカツラをとり、キャップをかぶりました。そしてこの帽子のままで金ぴかの上着を着て出かけました。近所の人が注意してくれなかったら、町中をこの格好で歩いたことでしょう。
お父さんはしゃれた話のうまい人でした。この天性の気質で人気がありました。お父さんとおしゃべりをしたくて絵を描いてもらいに来る人もいました。かなりきれいな女の人の肖像を描いていた時のことです。口を描き始めました。口を小さくしようとして、この女の人は顔をしかめました。等々我慢がならなくなってお父さんは言いました。「どうぞご心配なく。ご注文とあれば、口のないあなたを描いてご覧にみせます」
お母さんは大変きれいでした。お父さんが描いたパステル画やずっと後になってから私が描いた油絵から判断して頂けると思います。お母さんは無駄使いもしないものですから、お父さんはお母さんを女神のように思っていました。それに心底から信仰心があり、私もそうだった。いつも歌ミサは欠かさず、ほかのミサもきちんと出ていた。レントのときは決められたお勤めをすべて果たしました。私は神聖な歌が好きで、この当時オルガン音楽を聴くと涙出ました。お父さんは夜に芸術家や文学者を招待しました。その中でまずあげなければならないのはドワイヤンです。歴史画家で、お父さんの一番の親友であり、私の最初のお友達です。ドワイヤンのように素敵な人はいません。非常に知的で善意の人でした。彼の人物や物に対する判断は正しく、しかも絵画を語るときの情熱はすごく、彼の話を聞いていると、私の心臓はどきどきしたものです。
ポアンシネも賢くて陽気でした。彼は人の言うことを信じ込むので有名でした。いつも奇妙なことでからかわれていました。友人が「王様の護衛」というお役目があると言い、彼を燃えさかる炎の前に立たせ、あやうくふくらはぎが焼けるところでした。彼は動こうとしましたが、動いたらダメだ、その熱に耐えられなければ、その役目には就けないぞと言いました。ポアンシネはけっして馬鹿ではありませんでした。彼の作品は今でも人気があります。ある晩グラン・オペラで「エルミレーヌ」、テアトル・フランセーズで「サークル」、オペラ・コミックで「トム・ジョーンズ」が上演され成功しましたが、みな彼が書いたものです。ある人が彼は旅に向いているとたきつけました。それでまずスペインに出かけました。彼はグアダルキヴィールを渡る途中で溺れてしまいました。画家で詩人であったダヴェスネにもふれなければいけません。どちらも平凡でしたが、会話が機知にとんでいるため、お父さんの夕食に招かれたのです。ほんの子供でしたけど、夕食は楽しいものでした。デザートがでる前に食卓を離れなければいけませんが、私の部屋から笑いや冗談や歌が聞こえてきたものです。内容は分かりませんでしたが、おかげで休日が楽しいものになりました。
はじめての聖体拝領の後になりますが、11歳の時に寄宿舎を出ました。ダヴェスネが油絵を描いていて、奥さんを私の所に行かせて色の混ぜ方を教えてくれました。二人の貧しさは気の毒でした。ある日私は描きかけた絵を完成させたかったのです。ご飯を食べていくように言われました。ご飯はスープと焼きリンゴだけでした。
もう両親と一緒にいられるので私は大喜びでした。弟は三歳年下でしたが、天使のように愛らしかったのです。私は弟ほど元気ではなく、賢くもなく、可愛らしいもありませんでした。実際この当時私は一番不器量でした。おでこがでて、目はくぼみ、青白くてやせこけた顔でましなのは鼻だけでした。おまけに背丈が伸びるのが早く、背筋をまっすぐにのばせず、柳のようにおじぎをしたような格好でした。私の不器量がお母さんの悩みの種でした。私はお母さんは弟を溺愛していると思いこみました。どちらにしても、お母さんは弟を甘やかし、弟のしでかしたことは許し、私には厳格でした。そのかわりにお父さんが優しくてなんでも許してくれました。優しく愛してくれますので、私の心はますますお父さんに向かうことになりました。こんなにいいお父さんに恵まれたせいでしょう。私は信じておりますが、お父さんが言ったことは一言たりとも忘れていません。あの1789年のとき、幾度となく、お父さんが予言者のように言ったことを思い出しました。お父さんは哲学者の晩餐会から帰ってきましたが、そこでディドロ、エルベチウス、ダランベールに会いました。お父さんはすっかり落胆していました。お母さんがどうしたのと聞くと、「今夜聞いたことでね、世の中が逆転してしまうと思うようになったよ」と言いました。私はお父さんが病気なったとき、家で一年を過ごすことになりました。2ヶ月間苦しんだあげく、回復の見込みはありませんでした。臨終の時が来たことをさとり、お父さんは弟と私の顔を見たいと言いました。私たちは泣きながらベッドのそばに近づきました。いつもは生き生きとしていた顔つきはすっかり変わり果て、まったく表情がありませんでした。青ざめ冷たい死相が出ていました。二人とも冷たい手を取り、キスし涙でぬらしました。力を振り絞って起きあがり、二人に声をかけました。「お前たち幸せでな」とだけ言いました。一時間後にお父さんはなくなりました。
悲嘆にくれた私は当分クレヨンをとる気にもなりませんでした。ドアイヤンがときどき家に来てくれました。彼はお父さんの一番の親友でしたから、大変慰めになりました。もう一度私が大好きな仕事をするように勧めてくれたのは彼です。実際、これが唯一の慰めになりました。私が実物を描き始めたのはこの時です。パステルと油で肖像画も上達しました。実物や絵を見ながらスケッチしました。ランプのもとで親友になったマドモアゼル・ボッケと一緒に練習しました。夜サン・ドニ通りも彼女の家に行きました。ここで彼女のお父さんは骨董品の店を開いていました。わが家はド・クエリュ通りのルベール邸の向かい側にありました。ですから、出かけるときはお母さんがいつもつきそうと言ったものです。マドモアゼル・ボッケと私は画家のブリアールの家に通いました。この人は彼のエッチングや古典的な胸像を見せてくれました。ブリアールは画家としては平凡でしたが、ちょっと風変わりな天井画を描きました。ですが、彼の素描はすばらしく、それで習いにくる若い人がいたのです。アトリエはルーブルにありました。私たちは交互に食事のバスケットを持参しました。なにしろ一日がかりでしたから。
マドモアゼル・ボッケは15歳で私は14歳でした。私たち容姿を競い合っていました。私はすっかり容姿が変わり、きれいになっていました。彼女の芸術的天分は相当なものでした。私の進歩ははやく、まもなく話題になりました。その結果ありがたいことにジョゼフ・ヴェルネの知遇を得ました。この高名な画家は心からの激励と価値ある忠告をしてくれました。フランス・アカデミーのアッベ・アルノールとも知り合いました。想像力豊かな人物であり、文学と芸術に情熱をもっていました。彼の会話により、言うなれば私のアイデアは豊かになりました。彼は音楽と絵画について非常な熱意で語りました。アッベ夫妻はグルックの熱心な支持者でした。後にこの偉大な作曲家に私を紹介してくれました。私も音楽が大好きでしたので。
お母さんは私の容姿に自信を持つようにりました。私はふっくらして若さの特権である新鮮な容姿になりました。日曜日にはチュイルリーにつれて行ってくれました。お母さん自身まだきれいでしたが、次第に私も自由にものがいえるようになりました。二人で歩いていると、あとから来る男たちの作法が、私には嬉しいというより、迷惑でした。悲惨な喪失が癒しがたいのを見てとり、お母さんは絵を見せることでなんとか治せると考えたのでしょう。こうして二人でルクサンブール宮殿に行きました。ここのギャラリーにはルーベンスの傑作があるのと大画家の作品が数多くあるからです。現在では現代フランス画の絵画しか展示されていません。私はそのクラスで展示されていない唯一の画家です。昔の大家たちはその後ルーブルに移されてしまいました。このためにルーベンスはその良さを失ってしまったのです。照明の違いで絵が違ってしまうのは、音楽が演奏で違ってくるようなものです。
個人所有の絵を見ましたが、摂政殿下のパレ・ルバイヤルに匹敵するものはありませんでした。ここには昔のイタリアの大家が大変多かったのです。ここのギャラリーに入ると、私は大家たちの絵をながめてうっとりすると同時に、ためになる知識を集めて回るミツバチのようになりました。さらに、私の腕を磨くために、ルーベンスの絵、レンブラント、ヴァン・ダイクの肖像画を模写したが、グルーズの少女の肖像画も模写しました。それは微妙な肌の彩色にあるぼかしが勉強になると思ったからです。ヴァン・ダイクにもそれがありますが、さらに見事でした。ここでの勉強のおかげで、顔の出た部分の光りの度合いを変化させていくための重要な知識が得られました。これを実に見事に仕上げているのはラファエロであり、彼の顔はじつにあらゆる意味で完璧なものでした。しかしそれはローマ、あの光り輝くイタリアでのみラファエロを判断できるのです。数年後、生まれ故郷を離れることのなかったラファエロを見ることが出来ましたが、ラファエロはその名声以上の素晴らしさでした。
お父さんはお金をまったく残しませんでした。でも私は肖像画を数多く描いていましたので、お金をずいぶん稼いでいました。でもそれでは家計には十分ではありませんでした。弟を学校に行かせ、服や本を買うのには充分とはいえませんでした。お母さんは再婚しなければと思っていたようです。金持ちの宝石商と再婚することにしました。この男が強欲とは思っても見ませんでした。でも結婚後すぐにそのケチぶりを見せつけられました。生きていく最低限の支出しか認めませんでした。それでも私は自分で稼いだお金はすべて気前よくこの男に渡しました。ジョゼフ・ベルネはカンカンになって怒り、一定金額だけ渡し、残りは貯めておいたらどうかと忠告してくれました。私はこうすうると、お母さんがこのケチ男のことで苦しい思いをするのではと考えました。私はこの男が大嫌いでした。お父さんの衣装箪笥を自分のものにし、お父さんの衣装をそのまま着るのです。自分にあわせて衣装を直しもしないのです。若い私の評判でわが家にはいろんな人が来るようになりました。有名な人も私に会いに来ました。ピヨトル三世の暗殺者の一人であるオルロフ伯も来ました。オルロフ伯は非常に大柄な人で、大きなダイヤの指輪をはめていたのを記憶しています。この頃私はシュヴァロフ伯の肖像画を描きました。当時60歳ぐらいで侍従長だったと思います。愛想がよくて完璧なマナーの人でした。素敵な人でしたから皆からもてはやされました。マダム・ジョフランも私の家に来てくれました。彼女は華やかな社交生活で知られていました。マダム・ジョフランは文学や芸術で名のある人を家に招待していました。外国の著名人や貴紳の方々がここに集まりました。別段良家の出身でもなく、格別の才能があるわけでもなく、大金持ちでもないのに、パリではユニークで、現在の女性が望んでも得られない地位を築いたのです。私のことを聞きつけて、彼女はある朝私に会いに来て、私の人柄と才能を褒めちぎりました。彼女は年を取っているわけではないのに、私は大変高齢かと思いました。背中がちょっと曲がっているだけではなく、衣装が年寄りじみていたからです。鉄灰色のガウンをまとい、大きなツバの帽子をかぶっていましたが、その上に黒いショールをつけあごの所で結んでいました。現在では、この年配の女性だったら、化粧室でずっと若くみえるようにするでしょうに。
お母さんが再婚してすぐに、一家はサン・トノーレ通りのパレ・ルヴァイヤルのテラスに面した継父の家に移りました。ド・シャルトル公爵夫人が侍女たちと庭を散歩するのを見かけました。まもなく彼女は私に気づいた様子でした。私は当時大変評判になったお母さんの肖像画を仕上げたばかりでした。公爵夫人から使いの人が来て私に肖像画を注文したのです。彼女は私の才能をほめて友人に紹介してくれました。やがて私は威厳のある美しいド・ブリオンヌ伯爵夫人と愛らしいご令嬢であるド・ロレーヌ姫が訪問されました。二人のあとには宮廷やフォーブルク・サン・ジェルマンの貴婦人が続々と訪問されました。
街に出ると見つめられるようになりました。劇場や広場でもそうでした。私は注目の的になり、私の顔を見たくて肖像画を注文する人がありました。こんなことで私の好意を得たかったのです。でも私は絵画に夢中になっていましたので、こんなことで気がそれることはありませんでした。されに、お母さんから教えられたモラルや信仰上の原則が私を誘惑から守ってくれました。さいわい私はただの一編の小説も読んだことはありませんでした。「クラリッサ・ハーロー」が始めて読んだ小説でしたが、これも結婚してから読みました。結婚以前は霊父たちの道徳訓話のような神聖な文献しか読んだことはありません。ここには知るべきことがなんでも書いてあります。それと弟の教科書ぐらいのものです。
さて紳士方に話を戻しましょう。この方たちが色目を使おうとしているのに気づくと私の方でなく他の方を見ているように描きました。瞳がちょっとでも動くと「今目を描いているところです」と言ったものでした。これでこの方たちはちょっぴり腹を立てたみたいです。お母さんはいつもその場にいました。私はお母さんにはこの秘密を打ち明けていました。ですからお母さんは愉快そうでした。ある日曜日、聖人の日でもありましたが、歌ミサに出たあと、お母さんと継父は私をパレ・ルヴァイアルに散歩に連れ出しました。ここの庭園は当時は広々としてきれいでした。現在とは比べものになりません。今では周囲の家に囲まれて窒息しそうです。左手には広い通りがあり、大きな木のアーチがあり、そのために太陽光線も通らないほどでした。そこに上流階級の人々が身繕いして集まりました。オペラ・ハウスは宮殿のすぐ近くにありました。夏の公演は8時半に終わりました。上品な人々はオペラが終わる前に出て庭を散歩しました。女性は大きな花束を持って歩くのが流行でした。それに香りのよい粉を髪の毛に振りかけていましたから、空気が芳しくなります。革命以前ですが、あとで私は朝の二時まで続いたことを知りました。月明かりでの野外音楽も演奏されました。演奏家と愛好家が歌をうたい、ハープやギターの演奏もありました。有名なサン・ジョルジュもバイオリンを演奏しました。皆がそこに集まってきました。
マドモアゼル・ボクェと私がこの通りにはいるとかならず注目されたものです。私たちは16歳と17歳でした。マドモアゼル・ボクェはすごい美人でした。19歳の時、彼女は天然痘にかかりました。すべての階層の人達が心配したものです。いつも家の前には馬車の行列が出来たほどです。彼女は優れた才能がありながら、ムッシュウ・フィユールと結婚と同時に絵を描くのを止めました。女王が彼女をラ・ムエット城の案内係にしたのです。この可愛らしい女性のを話題にするとき、彼女の恐ろしい最後を思い出してしまいます。私が恐怖の予感がしてフランスを出る前の晩のことです。はっきりとおぼえていますが、マダム・フィユールはこういいました。「出ていくのは間違いよ。私はここに残るわ。革命で私たちが幸せになれると私は信じているもの」でも革命で彼女は断頭台に上ることになったのです。彼女がラ・ムエットを出る前に恐怖政治が始まったのです。ジョゼフ・ヴェルネの娘であり、マダム・フィユールの親友であるマダム・シャルグランがお城にやってきて彼女の娘の結婚を祝いました。―もちろん控えめでした。それでも次の日ジャコバンがマダム・フィユールマダム・シャルグランを逮捕しました。連中が言うには、国家のロウソクを浪費したからです。数日後には二人ともギロチンで処刑されました。
テンプル・ブールバールも人気のある散歩道でした。毎日、とくに木曜日ですが、何百台もの乗り物が道路に集まりました。カフェや見せ物はまだあるようですが。馬に乗った若者たちが馬車のまわりを回りました。ロンシャンでやったように。ロンシャンはすでにありましたし、もっときれいでした。歩道は大勢の歩行者で一杯でした。馬車に乗っている盛装の貴婦人の品定めをしては楽しんだものです。現在カフェ・チュルクが立っている場所ですが、皆が大笑いする見物がありました。マレイ地区の老婦人が一列椅子に腰掛けていました。ほお紅を真っ赤に塗り立ててまるで人形のようでした。当時はほお紅は上流階級にしか認められませんでしたから、彼女たちは精一杯この権利を行使したのです。私の友人の一人が彼女たちのことをよく知っていました。彼女たちの家での仕事といえば、朝から晩まで賭け事をすることでした。彼がある日言ったものです。彼がヴェルサイユから帰ってきたときのことです。彼女たちから何かニュースはないのかと聞かれました。彼が、ムッシュー・ド・ラ・ペルーズが世界を一周したと話すと、女主人が言ったそうです。「まあ!なんて暇な人だろうね。」
結婚してずっと後になってからのことであるが、この大通りで軽いショーを見ました。いつも決まって見に行ったのがカルロ・ペリコの「ファントッチーニ」でした。これは大変愉快でした。マリオネットは上手く作ってあり、仕草も自然ですから、つい錯覚してしまいます。私の娘はもうすぐ6歳になるところでしたが、人形が生きているものと信じておりました。そこで本当のことを教えました。まもなくコメディ・フランセーズに娘を連れて行きました。ボックスが舞台から離れていました。娘は私にたずねました。「お母さん、あの人たちは生きているの?」
コロシアムも流行の行楽地でした。これはシャンゼリゼの大きな広場に円形状に建てられました。中央にはきれいな湖があり、ボート・レースがありました。砂利が敷かれた通りがあり、ベンチが並んでいました。夕暮れには庭園からホールに向かいます。ここにはオーケストラがすばらしい音楽を流していました。この当時、テンプル・ブールバールには夏のヴォウホールと呼ばれた場所がありました。ここの庭は直接は入れる場所でした。その境には上流階級のために設けられた段になった席がありました。暑い日には暗くなる前に人々が集まります。一日は花火で締めくくられました。これらの場所は今日のティヴォリよりずっと人出がありました。チィルリーやルクサンブールしか行けないパリジャンがこれらの行楽地を放棄してしまったのは驚くべきことです。これらの行楽地は半ば都会的で半ば田園的でしたので、夜になると空気を吸いに、氷を食べに出かけたものです。
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