2008年4月18日金曜日


第8章 ロシアでの生活

陛下がツァールスコイセローから戻られるとすぐに、ストロガノフ伯爵が陛下の二人の大公女、アレクサンドリーナとヘレンの肖像画を描くようにとのご命令を私に伝えにきました。二人の大公女は表情は全く違っていましたが、年齢は13歳か14歳ぐらいとお見受けしました。お二人とも天使のような顔をしていました。肌の色は特に美しく、繊細で、まるでアンブロシアで過ごしておられたかのようでした。年上のアレクサンドリーナはギリシャふうの美少女で、アレクサンドルに似ていました。年下のヘレンの顔はさらに繊細でした。私は二人が女帝の肖像メダルを持っているところを描きました。衣装は簡素なギリシャ風にしました。

この世を仕上げ部屋女帝はまもなくアレクサンドルと結婚する予定のエリザベス大公女の肖像画を描くように私に命じられたました。すでに私が申し上げたように、この姫君はうっとりするような美人でした。このような天使のようなお姿を普通の衣装で描きたくはありませんでした。私はかねがね彼女とアレクサンドルのお二人を歴史画として描いてみたいと思っていました。私は彼女が宮廷の正装で立っておられるところを描きました。そばの籠に入った花にさらに花を付け加えました。私が彼女の大肖像画を仕上げたら、彼女の母君のためにもう一枚注文されました。今度は淡い紫色のカバーをかけたクッションにもたれてたポーズにしました。エリザベス大公女がもう少しポーズを取って頂いたならば、私がもっと優しくて愛らしく描けたのですが。ある朝彼女がポーズを取っていたときのことです。私はめまいがして、ぼうっとしてしまい、目を閉じてしまいました。彼女はびっくりして、ご自身で水を求められ、私の目を拭いて、この上なく親切に私を見守ってくださいました。私が帰宅するや否や、彼女は私の容体を聞きに、使いのものをよこしました。

このころ私はコンスタンチン大公の奥方である、アンナ大公夫人の肖像画を描いておりました。彼女はコブルク公女でした。彼女の義理の姉ほど神々しい顔付きではありませんでしたが、それでも優しくて愛らしい方でした。彼女はおそらく16歳ぐらいでしょうか目鼻だちは生命力にあふれ陽気でした。この若き姫君がロシアでの幸福を知らなかったというわけではないのでしょうが。アレクサンドルが的な容姿と性格を母から受け継いだとしても、コンスタンチンはそうではありませんでした。コンスタンチンは彼の父に似ていました。非常に醜いというわけではありませんが、父親のように、生まれつき非常なかんしゃく持ちでした。

この当時ロシアの宮廷にはたくさんの美人がいましたので女帝が臨席される大舞踏会は素晴らしい眺めでした。彼女が催されたもっとも華麗な大舞踏会に私は出席いたしました。女帝は堂々とした衣装で、部屋のうしろに座っておられました。付き添っていたのは宮廷を代表する方々です。彼女のそばに立っていたのは、マリー大公夫人、ポール、アレクサンドル、コンスタンチンの三大公でした。この方々の前には舞踏会場と隔てる欄干がありました。

舞踏会は「ポロネーズ」と呼ばれるダンスをただ繰り返すだけでした。私の最初のパートナーは若いバリアティンスキー公爵でした。私は彼といっしょに部屋をぐるりと回り、その後で椅子に腰掛けてダンスをされる方々を眺めておりました。

どれだけ美しい女性が私の前を通りすぎたことでしょう。これらの美女たちの中でも、やはり帝室の大公女たちが栄光のシュロの葉を手にすべきです。彼女達はみな、ギリシャふうの衣装を着ており、トゥニックを肩のところでダイアモンドのバックルで止めていました。私はエリザベス大公女の衣装に手を伸ばして少し直して、正しい着付けにしてさしあげました。パオロのご令嬢アレクサンドリーナは銀を散らしたライト・ブルーのベールをかぶり、彼女たちの顔立ちは一段と神々しくなりました。女帝を取り巻く人々のすばらしい衣装、豪華な部屋、素敵な人々、おびただしいダイヤモンド、千もの照明の輝きで、この大舞踏会は誠に魅力あるものとなりました。

数日後私は宮廷の大晩餐会に出席しました。私が部屋に入ったときには招待された貴婦人方は全員そろっておりテーブルのそばに立っていました。すでに最初の一皿は出ておりました。大きな扉が開かれ女帝が登場されました。すでに申しあげましたように、彼女は背の低い方でしたが、このような行事の場合には顔をまっすぐにし、鷲のような目、常に命令しておられる顔付き、これらは帝王にのみ備わっているもので、彼女はまるで世界の女王のようでした。彼女は三重のリボンをつけておられてました。彼女の衣装は簡素で、威厳のあるものでした。金の刺繍のあるモスリンのトゥニックで、ダイアモンドのベルトで止め、広い両袖はオリエント風に折り曲げてありました。このトゥニックの上は非常に短い袖のついた赤いビロードのノルマンでした。白い髪の上の帽子には折曲げがありませんでしたが、美しいダイアモンドが付いていました。

陛下が着席されると貴婦人は全員テーブルに座り、世界共通の作法に従って、ナプキンを膝の上に置きました。女帝はといえば、彼女は子供のようにナプキンをピンで止めました。彼女は貴婦人たちが食べていないのに気がつき、いきなり「皆さん、あなたがたは私の後に従いたくないのでしょう。あなたがたは食べているふりをしてるだけです!私はいつものように、ナプキンをピンで留めたのです。こうしないと私は卵一つ食べても私の襟を汚してしまうのでね」と叫びました。彼女が旺盛な食欲で食事をしてをおられました。食事中合奏団が部屋の後の回廊で上手に演奏していました。

食事に関してですが、サンクトペテルスブルクで一番悲しい食事に行ったのはズボフの妹の家でありました。ここで私はついうっかりして紹介状の返事を出さなかったのです。ロシア滞在で六カ月が経過していました。私はある晩劇場から出てくるところで、彼女とお会いしました。彼女は私に近づいてきて、丁寧に私に出した手紙のご返事を今でもお待ちしておりますと言われました。なんと言い訳していいか分からなくて、私はお手紙を出し忘れたのでしょうが、私はもう一度探して持って上がりますと言いました。
かくして私はある朝、D-伯爵夫人を訪問しました。彼女は翌々日に私をお食事に招待したのです。サンクト・ペテルスブルグでは二時半に食事をするのが習慣になっていました。私はですから伯爵夫人宅をその時間に妻と一緒に出かけました。娘も招待されていたのです。私たちは非常に暗い居間に通されました。その途中で食事の準備が何もされていないのに気がつきました。一時間、二時間が経過しました。その間、テーブルにお座りくださいませとは言われませんでした。とうとう彼の召使いがやってきて、カード・テーブルを置きました。居間で食事をするなんて不思議だと思いましたが、食事はもう出てくるものと思うことにしました。

そうではありませんでした。召使いが出て行きに三分後に多くの客がカードを始めました。六時頃、あわれな娘と私はお腹が空いてたまりませんでした。そして鏡を見て、私たちの姿に驚き悲しみました。私はもう死にそうでした。七時半になって漸く、私たちはお食事の準備ができたと告げられました。しかし私たちの胃は空腹を通り過ぎて苦しくて、もう何も食べる気がしませんでした。D-伯爵夫人はロンドンの普通の時間に食事をしていたことが分かりました。伯爵夫人はそのことを告げるはずでしたが、彼女はおそらく世界中の人は、この食事の時間をしてるものと思ったのでしょう。

私は外出して食事するのは好きではありませんが。特にロシアではそうせざるを得ないことがあります。招待をたびたび断るときは相手に非常な不快感を与える覚悟をしなければなりません。私はお食事の招待が多くなるにつれてを食事が嫌いになりました。彼らは食事にお金を惜しみません。貴族はほとんど一流のフランス人の料理長を雇っています。食事の豪華さは比類のないものです。客がテーブルに座る十五分前には、あらゆる種類のコーディアルとバターを塗ったパンをお盆に乗せて回します。コーディアルは食事の後には出てきませんが。ふつうは最高級のマラガ・ワインです。

ロシアでは、たとえ自宅で催される晩餐であっても、身分の高い貴婦人が客の前にテーブルに座ります。上流階級の作法ではロシアの貴婦人の前に進むことは不可能ですから、一緒にテーブルに着くためには、ドルゴルキ公女か他の人が私を手を取ってくれます。フランスの貴婦人だった傲慢とがめられるでしょうはそういう訳ではありません。

サンクトペテルスブルグでは室内にいる限り、厳しい天候に気がつきません。ロシア人では完全に室内を暖かくする方法を知っているからです。本番の立っている。扉から出てが見事なストーブで暖められていますので、煙突のついた。暖炉の火はただの飾りにすぎません。階段も廊下も室内と同じ温度に保たれてす。部屋の出入りする扉は開いたままになっていますが、別に不都合ではありません。当時大公にすぎなかったポール皇帝はフランスに来て、最初に言った言葉は「皆さんはサンクト・ペテルスブルグで、寒さをご覧になれるでしょうが、ここパリでは、寒さを感じることができます」でした。私はロシアに七年半滞在してパリに戻りました。そのときドルゴルキ公女もパリにおられました。私は記憶しておりますが、私は彼女にお会いしに出かけた日のことです。二人とも寒くて暖炉の前にいました。二人とも言いたのですが「温まるためにロシアで、冬をすごしましょう。」

外出する時は外国人も厳しい気候の影響を受けないように注意が必要です。誰でも馬車のなかでビロードの毛皮の裏地がついたブーツを履いています。コートも同様に厚い毛皮の裏地がついています。零下十七度になると、劇場は閉鎖され、すべての人は家に閉じこもります。こんなに寒いとは思っていなかったものですから、温度計が十八度のとき外出を思いたったのは、私一人ぐらいでしょう。ゴロヴィン伯爵夫人はちょっと離れたプロスペクトという通りに住んでおられました。。私にから、彼女の家まで馬車を一台も見かけませんでした。これには驚きましたが、私は行きました。この寒さは最初私が私の馬車の窓が開いてるものと思ったほどです。彼女の居間に入ってくる私を見るなり。彼女は「おやまあ、どうやってその夜に来られたんですの?」と叫びました。この言葉で、私は気の毒な御者のことを思い出しました。そして私はガイドを取らずにすぐに馬車に戻り、出来る限り早く家に戻りました。それでも、私は気が動転していて、私は麻痺してしまいました。私は頭にオーデコロンをふりかけて血液の循環を良くしようと思いました。そうでもしなければ、私は気が狂っていたでしょう。

私がびっくりしたのは、この厳しい寒さでも一般の人々にはあまり影響がないということです。この結果健康に支障はほとんど無いのです。ロシアでは百歳以上の人が他の国よりも多いのです。モスクワと同じように、サンクト・ペテルスブルグでも、帝国の大貴族や著名人は六頭立てか八頭立ての馬車に乗っています。左馬騎手は浅いが、十歳ぐらいの男の子でが実に巧みに馬をあやつります。馬は二頭から八頭です。こんな小さい子供が薄着で胸のところをはだけていることもあります。フランスやプロシアの擲弾兵をニ、三時間で殺してしまうような寒さに肌をさらしても、この子たちは平気なのです。私はといえば、二頭の馬車で満足していましたが、私が驚いたのは、御者の従順さです。どんなに厳しい気候でも決して不平を言うことなく、劇場や舞踏会でのご主人の帰りを待っています。彼らは身動きせずに、じっと坐っています。足が凍りつかないように、足で箱をけるくらいです。左馬騎手の男の子は馬車の踏み台に坐っています。しかしながらこういうこともあります。馭者は主人から毛皮のコートや手袋を支給されており、さらに寒さが尋常でない場合には、パーティーや舞踏会を主催した主人が彼らに強い酒を振る舞いますし、さらには庭やが街で、木を支給して焚き火をさせます。

ロシアの平民たちは一般に醜いのですが、彼らの振る舞いは簡素で品位がありますが。彼ら世界でいちばん善良な人々です。一番人気なるものはウォッカすが。酔っぱらいはいません。この階級のロシア人はポテトとニンニクに油で調理したものとパンで生活しています。ですから。毎週土曜日に一回は風呂に入りますが、彼らは臭いのです。こんな食事でも、彼らは仕事をしてるときや船を漕いでいるときには大声で歌います。ド・カステルー侯爵が革命の始まりについて、私の家で話したことを思い出します。「彼らが絆から解放されたら、彼らはもっと不幸になるだろう。」この季節は隙間風が入らないように、まだ詰め物がしてありました。ロシアでは春はありません。しかし、植物は急いでその埋め合わせをします。文字通り、木の葉は見るまに大きくなります。五月の終わりのある日、私は娘といっしょに「夏庭園」に散歩に出るました。私たちはその成長にの速さに関して、聞いていたことを確かめたくて、まだつぼみの低木の葉っぱに注目しました。私たちがずっと歩いて最初のその場所に戻ってきました。そのつぼみは開き、葉っぱは完全に開いていました。

ロシア人は、その季節にあった娯楽をして過ごします。厳寒の気候の時には橇のパーティーを日中でも、夜は松明をともして楽しみます。中央によっては雪の山を築き並外れたいいので滑りおりますが、ケガもしません。山の上から人を押して下の方では受け止めるの職業にしてる人もいます。

見物して最も興味深い儀式はネヴァ川の祝福です。この儀式は一年に一度行われます。皇帝、皇室、政府高官の出席のもとで祝福を与えるのは大修道院長です。この時期にはではの交流は、少なくとも三フィートの厚さですので、穴が開けられます。皆が、儀式の終わった後の神聖な水を汲みます。女たちが小さな子供を水の中に入れるのもみます。母親が子供の手をはなしてしまい、この迷信の犠牲にしてしまう不幸な出来事もあります。がし子供を亡くしたことを嘆く代わりに、彼女のために祈ってくれる天使になったことを感謝するのです。皇帝は最初の水をいうがあります。この水を差し出すのは大修道院長です。

すでに申し上げたように、サンクトペテルスブルグの街は非常に寒いのです。ロシア人たちは彼らの部屋を春のように、暖かくするだけでは満足しません。部屋には窓網戸を並べ、フランスでは五月に咲く愛らしい花を植えた箱や壺をおきます。冬の部屋は非常に念入りに照明されています。部屋はミントの入った熱いビネガーで、匂いが付けられ、気持ちのいい、健康的な香りがします。部屋には男も女もす一緒に触れる長くて広い長椅子が置いてあります。この長椅子になれたために、しばらくは普通の椅子に座れませんでした。

ロシアの貴婦人はお辞儀します。私には、私たちの作法よりも威厳があって優雅であるように思われました。召使いを呼ぶときに彼女達は鈴を鳴らしません。その代わりに両手を叩いて合図します。ハーレムではサルタン達がこうするという話です。ロシアの貴婦人は今の扉に正装した召使いを置いています。彼は訪問客に扉を開くために、いつもそのその場所にいるのです。その当時、名前を告げないのが習慣でした。私にいまだに奇妙なことはベッドの下に女の奴隷を眠らせている貴婦人が何人かいたことです。
ロシア人は、知的で有能です。彼らはどんな仕事でもたやすく覚えてしまいます。芸術の世界で成功した人もいます。ストロガノフ伯爵邸でのことです。私はある建築家を見かけましたが、この人は以前伯爵の農奴でした。この若者は非常な才能を示しましたので、伯爵は彼を皇帝ポールに紹介しました。皇帝をは彼を宮廷建築家の一人に加え、彼が設計し提出したプランに基づき、劇場を建てるように命令しました。私はこの劇場を見ておりませんが、非常にきれいな建物だそうです。

芸術的農奴に関しては、私は伯爵ほど幸運ではありませんでした。私には男の召使いがいませんでした。私がウィーンから連れてきた男に盗まれたからです。ストロガノフ伯爵は私に一人の農奴をくださいました。彼は伯爵の嫁が絵を気慰みで描いているとき、彼女のパレットの準備をし、彼女のブラシを洗っていたということです。同じような目的で私がこの若者を使いましたが、二週間私のお手伝いをしたならば、絵描きにしてあげると言いました。

それからというもの、伯爵を説得して、彼を解放させ、美術アカデミーの学生にするために奔走しました。伯爵は何通かこの問題に関して手紙を書いてきました。伯爵は私の要求を受け入れましたが「まもなく彼は返ってくるでしょう」と言いました。私は若者に二十ルーブル伯爵も少なくとも同額を彼に与えました。彼は直ちに画学生の制服を買いに行きました。そしてその格好で意気揚々として、私にお礼を言いに来ました。二ヶ月後に彼は大きな家族肖像画を持ってきました。その出来映えは実にひどく、見るに耐えないものでした。この若者はかわいそうに、ほとんど謝礼をもらえずに費用を支払った後に八ルーブルの金を失ったのです。伯爵が予見していたように、彼はその自由を放棄し、主人の家に戻ることになりました。

召使いたちの知性には顕著なものがあります。一言もフランス語を知らない。使いがいました。同様に私はロシア語を知りませんが、通訳なしで互いに完全に理解しあうことができました。手を挙げて私はイーゼル、絵の具箱を頼みました。他のジェスチャーで私が入り用のものを頼みました。彼はいつも私の意味を汲み取り、私にとって非常に重要な人でした。私が発見した彼の非常に貴重な性格がありました。彼はどんな誘惑に負けない正直な人物でした。私の部屋の謝礼として、小切手が送られてくることがよくありました。私で忙しいとき、そばの机の上に置いておきました。ことが終わると、私は決まってその小切手を持っているのを忘れたものです。時には参与がそのままにしてありましたが、一枚も抜き取られていたことはありません。さらに彼はお酒を全く絶っていました。私は彼が酔っているのを見たことがありません。この良き召使いの名前はピョートルでした。私がサンクトペテルスブルグを出すとき、彼は泣きました。私はずと心から彼と別れたことを残念に思っています。

ロシアの人々は、生まれつき正直で優しいのです。サンクト・ペテルスブルグやモスクワで大きな犯罪はもちろんのこと、盗難の話も聞いたことがありません。野蛮人同然のこの人たちの驚くべき善良で静かな行動は、農奴制のもとで生活してるから、というのが多くの人たちの意見です。私はロシア人が非常に信心深いからだと思います。

私がサンクトペテルスブルグに到着してまもなくのことです。私は旧友であるストロガノフ伯爵の嫁に会いに田舎の別荘に行きました。カミノストロフの別荘はネバ川周辺の街道の右手にありました。私は馬車からおり、庭園に入る小さな木戸を開け、一階にある部屋に着きました。その部屋のドアは開いておりました。ですから、ストロガノフ伯爵庭に入るのは、大変簡単なことです。入っていますと、彼女は居間にいました。彼女私に部屋を見せてくれました。彼女の宝石がすべて庭を見通せる窓の近くに置いてありました。道路に非常に近いところにあるわけです。これには私はびっくりしました。ロシアの貴婦人たちがダイアモンドや装飾品を大きなケースに入れて飾ってあるのは、まるで宝石商の店のようで、私にはすごく不用心に思われました。

私は「伯爵夫人、盗まれる心配をされたことがないのですか?」とたずねました。「いいえ」というのが彼女の答えでした。「警察がしっかりしてますからね。」として、彼女は宝石箱の上にある処女マリアやロシアの守護聖人である聖ニコラスの像を指さしました。その前にはランプが燃えていました。私が七年半ロシアで過ごしましたが、処女マリアか聖人の像それに、子供の像がありましたが、ロシア人にとって、神聖な何者かであるのをこの目で見てきました。

庶民が人に話しかけるときは、ただ年齢によって、お母さん、お父さん、お兄さん、お姉さんと言います。この言葉は皇帝や皇后それに皇室全体にも使われるのです。大衆の上の階級には快適な環境にある人が数多くおり、非常に裕福な人もいます。商人の妻は衣装に大金を使いますが、これが家計を圧迫しているようにはみえません。特に頭の飾りは綺麗で粋なものです。帽子の耳覆いは小さな真珠が縫いつけてあり、広い布が頭から肩そして背中をまで垂れ下がっています。そのベールが顔の影になります。どうしてだかわかりませんが、彼女たちは顔を白か赤で塗り、おかしな眉毛を描いているから、これは絶対に必要です。

サンクトペテルスブルグに五月がやって来ても、春の花で風が香ることも無ければ、詩人な賛美するナイチンゲールの歌も聞こえません。地面はまだ半ば溶けた雪で覆われています。ドーガ川がでは川に巨大な岩のような氷の塊をもたらし、互いに積み上がります。この氷の塊でネバ川の氷が割れるとともに和らいだ寒さがまた戻ります。

この流氷は素晴らしい恐怖と呼ばれています。その音は凄まじいものです。ネバ川は、取引所のそばでポン・ロワイヤルのセーヌの三倍もの広さになります。この氷の海がすべての場所で、割れるときの効果を想像してみてください。すべての波止場には氷の上を跳んで渡ることは禁止の通達が張られているにもかかわらず、勇敢な人は敢えて動いている氷の上に挑み、川を渡ろうとします。この危険な貢献をする前に、彼らは十字を切り、もし死んだとしても、それが運命だと自分に言い聞かせて飛び出します。ボートで新記録で最初に渡りきった人はネバ川の水の入った杯を皇帝に献呈します。皇帝はそのお返しに杯に金を入れます。

夜には私は社交界に出掛けました。数多くの舞踏会、コンサート、劇がありました。私はいつもこの催しに参加しました。そこでフランス人の仲間たちの洗練された、優雅な振る舞いを見ました。パリから、サンクトペテルスブルグまでいい趣味が飛んできたような気がしました。ここでは来客のもてなしに事欠くことはありませんでした。どこにでも、非常に親切にもてなしてくれました。八時に集合して、十時に食事が始まります。この間他の国同様にお茶を飲みます。ロシアのお茶は上等です。私はこのお茶が合わなくて、控えておりましたが、その香りを吸い込むのが楽しみでした。私をお茶の代わりに蜂蜜水を飲んでおりました。この素敵な飲み物には上質の蜂蜜とロシアの森で摘んだ小さな果物が入っています。この飲み物は瓶に詰める前に一定期間、地下室に寝かされています。リンゴ酒、ビール、レモネードとは比べ物にならないほど美味しいのです。

第八章 終わり

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