
第9章 エカテリナ
私が何ヶ月も外では冷たい空気、内ではストーブの空気を吸った後、夏の到来を知り大喜びし、サンクト・ペテルスブルクの美しい郊外を急いで満喫したいと思いました。私はペルゴオラ湖に空気浴にロシア人の召使いを連れて出かけました。私は澄んだ水をながめました。水は湖岸の樹々を映していました。その後近くの高台に登りました。一方の地平線は海でした。太陽に照らされた帆を見ることができました。静けさがあたりを支配し、それを破るものは千羽の鳥のさえずりと遠くの鐘の音でした。澄んだ空気と絵のように美しい自然に魅了されました。忠実なピヨトルは私の食事を暖め花を集めてくれました。私はフライデイと共に島で過ごしたロビンソン・クルーソーを思い出しました。
かなり暑いときには娘といっしょに朝の散歩にクレストフスキー島に出かけました。この島の最先端は海と一緒になり、海には大きな船が航海していました。夜にロシア人の農民の踊りを見に出かけたこともあります。彼らの民族衣装は絵になるものでした。サンクト・ペテルスブルク一帯の大変な暑さについて、記憶しています。いつだったかイタリアよりも暑い七月のある日のことでした。私はドルゴルキ公女のお母様である。バリアティンスキー夫人と会いました。かっては天使のように愛らしく聡明であり、活発な知性の持ち主で、サンクト・ペテルスブルグでも有数の魅力的な女性でした。彼女は地下室に落ち着き、お付きの女性が階段の下に座り、本を静かに朗読していました。
その後クレストフスキー島に戻りました。ある日、ボートに乗っていたとき、水浴びをしている男女の群れに出会いました。遠くから若い男たちが裸で、馬に乗っているのが見えました。彼らは馬を水浴びさせていたのです。他の国だったら、これを見た人はびっくりするでしょう。しかしロシア人は本来天真爛漫なです。冬になると、夫婦と子供たちはいっしょに暖炉の上で寝ています。暖炉が小さいときには、木製のベンチに横たわり、羊の皮をかぶっています。こんな善良な人たちが古くからの家父長制の習慣を守ってきたのです。
とりわけ楽しかったのはゼラギン島での散歩でした。かっては美しい庭がありましたが、現在では放置されています。それでもまだ美しい樹々、愛らしい通り、寺院があり、大きな柳の木、美しい花、小川に囲まれていました。それにイギリス風の橋がありました。散歩を満喫するために私はネバ川の堤に面した小さな家を借りました。この家の立地の良いところは気晴らしに事欠かないことでした。絶え間なく川を上り下りするボートから、歌や笛の演奏が聞けることでした。
砲兵隊の指揮官メリッシモが近所に住んでいました。この方のご近所に住んで私は幸せでした。彼は非常に善良で親切な人でした。彼は長期間にわたってトルコに住んでいましたので、彼の家はオリエンタル風の豪奢な家でした。上から光が入る浴室があり、中央には10人以上入れるお風呂がありました。階段で水の中に入れました。水浴びが終わった後、体をふくリンネルが金色の浴場の手すりにかけてありました。リンネルには刺繍がしてあり、インドの香料が入っていました。刺繍の重みで、香料が肌にしみつきました。これは優雅でした。部屋の周りには幅のある長椅子があり水浴後、寝そべることができました。ドアの一つは小さな素敵な居間につながっています。この今から芳しい花床が見下ろせました。窓の高さに届く花もありました。この部屋で将軍は果物、クリーム・チーズ、最高級のモカ・コーヒー、このいずれもが王女になった気分で、私の娘は大喜びでした。
さらにもう一度、彼は素晴らしい晩餐に招待してくれました。彼は外国滞在中に持ち帰ったトルコのテントで晩餐を催してくれたのです。テントは家に面した芝生の上に張られました。十二人がテーブルに腰掛けました。デザートには美味しい果物が出て来ました。晩餐はすべてアジアのメニューで、将軍の素晴らしい礼儀作法で趣がいっそう加わりました。私はテーブルに腰をかけたとき近くで大砲を撃たないように願いましたが、これはどの将軍にも習慣になってることだそうです。私はこの家を借りたのは一夏限りでした。次の年は、若きストロガノフ伯爵がカミンストロフの家を貸してくれました。私は大層気に入りました。毎朝、私はひとりで近くの森を散歩し、私の隣人であるゴロヴィン伯爵夫人と夜を過ごしました。ここで私は若きバリアティンスキー公、タレント公女それに気のあった多くの人たちと出会いました。ここでおしゃべりしたり朗読を聞いたりして夕ご飯まで過ごしました。事実、時間は非常に快適に過ぎていきました。
ロシアの人たちは、エカテリナ女帝のもとで幸福に暮らしていました。貴賤を問わず聞きましたが、この国の栄光と繁栄は、この方のお陰だということです。私は、ロシアの国の誇りである征服については語るつもりはありません。私はただ、女帝が人々に成し遂げた善政についてお話ししたいと思います。彼女の34年間に及ぶ治世で、彼女の素晴らしい才能のおかげで有益なこと偉大なことすべてを成し遂げました。彼女はピョートル一世のモニュメントを立てました。彼女は、237の石造りの町を建設しました。彼女によれば、何度も火事に会うから、木造の村はかえって高くつくというのです。彼女は海を艦隊で覆いました。彼女は至る所に工場や銀行を設立しました。これはサンクト・ペテルスブルグ、モスクワ、トボリスクの交易に役立ちました。彼女はアカデミーに新たな権限を与えました。すべての町や村に学校を創りました。運河を掘り、花崗岩の採石場を創り、法律を整備し、孤児院を創設しました。最後に、ワクチンの恵みを導入しました。彼女の強い意志と、人民への奨励により、ロシア人たちに受け入れられました。彼女は最初に接種を受けました。
この事件の悲しみが原因となりエカテリナの時代が短くなったかどうかは分かりません。ロシアはやがて彼女を失うことになります。彼女の死去の前の日曜日のことでした。エリザベス大公女の肖像画を持って陛下にお目にかかりました。彼女は私の作品を褒めて「孫娘たちは私に肖像画を書いてもらえと言っています。私は齢を取っているからというのですが、孫娘たちがどうしてもというならば、来週の今日にでもポーズを取ることにしましょう。次の木曜日のことです。彼女はいつものように九時に鈴を鳴らしませんでした。ついに女中頭が部屋の中に入りました。女帝が部屋にいないので、衣装部屋に行きました。部屋を開けると、エカテリナが床に倒れていました。何時に卒中の発作を起こしたかは分かりませんでした。脈はまだありましたが、絶望的でした。このような悲報がかくも早く広がるのは経験がありません。私に関しては、この恐ろしい知らせを受け取って苦しみました。私の娘は病気から回復中でしたが、私が意気消沈しているのを感じ取り、また病気になってしまいました。
食事をすませて、私はドルゴルキ公女のもとに急ぎました。コベンツエル伯爵が宮廷からの知らせを10分ごとに伝えてくれました。われわれの不安は増すばかりでした。誰もが耐え難いことでした。国を挙げてエカテリナを崇拝していたというだけではありません。パーベルの治世になることを恐れていました。夕方にパーベルは、サンクト・ペテルスブルグ近郊の宮廷から到着しました。母親が意識不明で横たわっているのを見て、自然な感情に戻ったのでしょう。彼は女帝に近寄り、手にキスをし、少し涙を浮かべました。エカテリナ二世は1796年11月17日に逝去しました。コベンツエル伯爵は女帝が息を引き取るのを見届け、女帝が逝去したことを伝えてくれました。
正直なところ、パーベルに対して革命があり得るという噂がありましたので、私は恐怖におびえだドルゴルキ公女を放ってはおけませんでした。帰宅途中、宮廷の広場の大勢の群衆を見ても慰めにはなりませんでしたは。それでも、人々は非常に静かで、当面恐れることは無いと信じました。次の朝、民衆は同じ所に集まりエカテリナの窓の下で、張り裂けんばかりの泣き声で哀悼の心を表しました。老いも若きも、そして子供までも「マツーシャ」(お母さん)に呼びかけ、すすり泣きながら、何もかもなくしてしまったと嘆きました。玉座につく皇太子を考えて、この日は一層悲しいものでした。
女帝の一帯は宮殿の大きな部屋に6週間置かれました。部屋は昼も夜も明かりがともされ、豪華に飾られました。エカテリナは女帝の安置所に置かれ、帝国のすべての都市の紋章で囲まれていました。彼女のお顔は覆いがとられ、美しい手は、ベッドの上に置かれていました。遺体のそばで、順番に詣でた貴婦人たちはすべて膝まずきその手にキスをするか、そのふりをしました。私は彼女の生前に手にキスをしたことはなかったのですが、ためらわずにキスしました。私はエカテリナのお顔を見ないようにしました。見たら、一生悲しい思い出が残ると思ったからです。
母親の死後、パーベルは直ちに父親のピヨトルの死体を掘り起こしました。ピヨトルは35年間、アレクサンドル・ネフスキー修道院に埋葬されていました。質疑の中にあったのは、骨とピヨトルの服の袖だけでした。パーベルは父親の遺体にもエカテリナ同様の敬意を表したかったです。彼は棺をカザンの教会の中央に置き、ピヨトル三世の老いた士官や友人たちに通夜をさせました。パーベルは通夜に来るように圧力をかけ、ピヨトルに最大限の敬意を表しました。
葬儀の日が来ました。ピヨトル三世の棺の上には冠が置かれ、エカテリナの棺の脇で、葬儀は盛大に行われました。二人の棺は砦に運ばれました。母親の亡骸を粗末にするのがパーベルの願いでしたので、ピヨトルの棺が先でした。
私は窓からこの壮麗な行進を眺めていました。まるで劇場のボックス席から、お芝居を見るようでした。皇帝の棺の前を進む近衛騎兵は上から下まで黄金の鎧を着ていました。女帝の棺の前を進む兵士は鋼鉄の鎧を着ていました。ピヨトル三世の暗殺者達はパーベルの命令により、棺をかつぐ役でした。
新皇帝は冠もかぶらず、后と多くの宮廷の人々と一緒に歩いて行進しました。全員喪服を着ていました。女性たちは長いすそと真っ黒なヴェールを着ていました。彼らは気温が低く、雪が降るなか、宮殿から砦まで歩かなければなりませんでした。この砦にロシアの二人の君主が安置されることになりました。ネバ川の向こう岸にあり、長い距離でした。
6カ月の喪が命じられました。女たちは髪の毛を引き詰めるられました。女の被りものは額の所まで下げられましたが、見栄のしないものでした。しかしこの程度の不便は、女帝の死がもたらした帝国全体の不安に比べれば、取るに足りないものでした。これらすべての善政にエカテリナ自身が関わっていました。彼女は誰にも実権を握らせませんでした。彼女は命令を口述して大臣に急使を送りました。大臣たちは実質上彼女の秘書にすぎませんでした。私が腹立たしいのは、ダブランテ公爵夫人です。彼女は最近エカテリナについて著作を発表しました。彼女はド・リーニュ公やセグール伯爵の著作を読んでいないのか、論駁の余地のないと思う二人の証言を信用していないのでしょうか。彼女が読んでいたなら女帝の統治者としての卓越した資質を評価し、尊敬したでしょうが。女として同性の女帝を誇るべきですのに、ダブランテ公爵夫人は彼女に関する回想録に注意を払ってはいません。
エカテリナは偉大なる芸術の愛好者でした。エルミタージュでヴァティカンの部屋に匹敵する部屋を建築しました。これらの部屋をラファエロの50枚の絵で飾りました。美術アカデミーを古代の彫像の石膏像と数多くの画家達の絵で飾りました。彼女が宮廷近くに建てたエルミタージュはあらゆる点で趣味の良さではお手本というべきで、サンクト・ペテルスブルグの不細工な宮殿がいっそう見栄がしなくなりました。彼女はフランス語の文章が上手いことはよく知られています。サンクト・ペテルスブルグの図書館で私は見ましたが、ロシア人のために制定した法律の自筆原稿がありました。これらすべて彼女が自筆でしかもフランス語で書いたものです。聞くところによると、彼女の書体は上品で正確です。思い出すのは、彼女の簡潔な表現の一例です。スバロフ将軍がワルシャワの戦いで勝利したとき、エカテリナは直ちに使者を送りました。使者が幸せな勝利者に届けたのは、「スバロフ元帥へ」という彼女の直筆の封書だけでした。
この絶大なる権力を持った女性は家庭では、気取ることなく、気むずかしくもありませんでした。彼女は朝五時に起き、火をともし、自分でコーヒーを沸かしました。こんな話もあります。ある日彼女は、煙突掃除人が煙突に上っているのに気づかず火をつけました。煙突掃除人はまさか女帝が火をつけたとは思いもよらず、彼女に汚い罵りを浴びせかけました。こんな扱いを受けても、彼女は急いで火を消し、失礼な言葉にも笑ってすごしました。
朝食のあと女帝は手紙を書き、その間、伝令を待たせて9時まで執務室に閉じこもっていました。彼女は鈴を鳴らして召使いを呼びました。召使いは鈴に応えないことがありました。ある時、待ちくたびれて我慢がならず、召使いの部屋の扉を開きました。そこで連中は座り込んでカードをしていました。鈴を鳴らしたのに、なぜ来ないのかとたずねました。一人が澄まして「カードが終わっていません」と答え、カードを続けました。別の話になりますが、ブルース伯爵夫人は女帝の部屋にいつでも入ることを許されてました。彼女がある朝女帝の部屋に入ったときのことです。女帝は化粧室でただ一人でした。「陛下お付きのものはいないのですね」と伯爵夫人は言いました。「どうしていいかわからない」と女帝は答えました。「女中たちはみんな帰ってしまったのよ。私は、全然合わないドレスを着ようとしてかんしゃくをおこしてしまってね。そうしたら、全員私を残して帰ってしまったのよ。誰一人いないわ。女中頭のレイネットまでも。あの娘たちが機嫌を直すまで待っているのよ」
夜になると、エカテリナは宮中でお気に入りの人たちを呼び出すこともありました。彼女は孫を呼んでは、鬼ごっこやスリッパ隠しのようなお遊びをしました。10時には就寝されました。ドルゴルキ公女はお気に入りでした。彼女によれば、女帝のおかげでパーティーが非常に盛り上がり楽しいものになったそうです。スタヘルベルグ伯爵.やセグール伯爵は、エカテリナの小さなパーティーに招待されました。女帝がフランスと国交を断絶し、フランス大使セグール伯爵を退去させるに際し彼女は深い遺憾の念を表明しました。「でも私は君主です。それぞれお役目がありますからね」と言いました。多くの人は、エカテリナが死去したのは、彼のも孫娘であるアレクサンドリナ皇女とスウェーデン国王との結婚の失敗での失望が原因だということです。国王は叔父にあたるスーデルマニア公爵といっしょに1796年の8月にサンクト・ペテルスブルグを訪問されました。彼がまだ17歳でしたが、背が高くて気品があり、若さにもかかわらず尊敬されていました。良い躾を受けていましたので、彼は非常に丁寧な人でした。彼が結婚しに来た皇女は14歳で天使のように愛らしく、彼はたちまち恋に落ちました。私が記憶していますが、彼が私の家に来て、未来の花嫁の肖像を見たときのことです。彼はうっとりとして眺め手の帽子を落としてしまいました。
女帝は、なによりもこの結婚を願っておりました。しかしながら彼女は、ストックホルムの宮殿にロシア正教のチャペルを持ち、ロシア正教の僧侶を駐在させることを主張しました。しかしながら、若き国王は、アレクサンドリーナ皇女を愛しながらも、彼の国の法律をおかずことには同意しませんでした。エカテリナが、大司教を呼び、夜の舞踏会の後に婚約を発表することを知り、ドゥ・マルコフ氏が繰り返し催促しましたが、国王は舞踏会には欠席しました。その当時私は、ディートリヒシュタイン伯爵の肖像画を手掛けておりました。二人で何度も窓に行き、若き国王が要請におれ、舞踏会に出かけるかどうかを見守りました。しかし彼は現れませんでした。結局、ドルゴルキ公女によれば、全員が集まっていたとき、女帝は彼女の部屋のドアを半分開き、悲しげに「皆さん、今晩の舞踏会はありません」と言いました。国王とスーデルマニア公爵は次の朝サンクト・ペテルスブルグを後にしました。
第9章終わり
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