
第14章 帰国の旅
悲しみにくれながら、病気の私は独り馬車に乗り込みサンクト・ペテルスブルグを後にしました。ロシア人の女中を連れて行くことはできませんでした。プロイセンに行きたいという老人がいましたので、気の毒に思って召使いの場所に座らせました。後に大変後悔することになりました。この老人は宿場ごとに大酒を飲み、馬車に連れ戻さなければなりませんでした。ムッシュー・ド・リヴィエールは二輪馬車で付き添ってくれましたが、特にロシアの辺境を越えて砂漠地帯に入って以降は、それほど助かりませんでした。馭者を命令どおりにさせることができませんでした。私は本街道を行くのに彼はいつもわき路を行きました。
私は最初にナルバで泊りました。城塞都市でしたが、薄汚くて、舗装が悪い小さな町でした。道なりに行くと入り口がありました。道端には綺麗な家とイギリス庭園がありました。向こうには海があり、船が浮かんでいました。この道は絵になる光景でした。ナルバの女たちは古風な衣装を着ていました。彼女たちは綺麗でした。一般にリボニアの人々は素敵だったのです。年配の男性の顔を見て、私はラファエルのキリストの顔を思い出しました。若い男性は長髪を肩まで垂らしかの大画家のモデルになってもいい容姿でした。
到着の翌日、町から少し離れた所にある壮大な滝を見に行きました。大量の水は ― どこから来るのでしょう ― ものすごい急流となり、巨大な岩に駆け上り、岩から流れ落ちて、また次の岩に駆け上るのです。多く流れがが次々にぶつかり合っては恐ろしい音を立てます。私は夢中になってこのすざまじい景観をスケッチしていました。私を見ていたナルバの人によれば、恐ろしい光景を見たというんおです。大雨で増水した滝の水が堤を流し、ある家族の家もいっしょに流したそうです。不運な人たちの絶望的な悲鳴が聞こえ、悲惨な光景を目にしましたが、助けることはできませんでした。この急流では船を出すことが不可能だったからです。この悲しい光景に続いてさらに恐ろしいことが起きました。この災難を話している人たちの目の前で、家と不幸な家族が飲みこまれたのです。彼らは今でも心が痛むそうです。
リガに到着しました。この町もナルバ同様、舗装も良くなく綺麗ではありませんでした。商業の盛んな所として知られ、美しい港もありました。男の服装はトルコ風かポーランド風でした。土地の住人ではない女たちは外出する時には、頭にガーゼのヴェールをかぶっていました。私はミタウに急いでいましたので、その他を観察する暇がありませんでした。ミタウで皇族に会いたかったのですが、残念ながら、到着が遅れてお会いできませんでした。皇族に会うのが目的でしたから、この町にはほんの数日滞在しただけです。
私はサンクト・ペテルスブルグから郵便を受け取りました。リガではバーデン大公妃にお会いました。彼女は娘である皇后に会いに行く途中でした。そのため道中には一頭の馬もなくなりました。私はやむなく貸し馬屋から馬を借りました。馭者は夜駅舎に止めず、私を汚らしい小屋で下ろしました。ベッドもなければ、食べるものもないのです。ですからほとんど私は馬車で夜を過ごしました。食事と言えば、私が取ったスープには肉がなく、ニンジンと質の悪いバターが入っているだけでした。鶏をつぶしてもらいましたが、やせて硬くてムッシュー・ド・リヴィエールと私は切ることができませんでした。それに貸し馬車屋が急いでいましたので、私たちはこの惨めな食事を終える時間もほとんどなかったのです。私たちは深い砂地を通って行きましたので馬は並足になりました。恐るべき暑さでした。空気を入れるために私はやむなく窓を全部開きました。馭者は絶え間なくタバコを吸いました。私はパイプのいやな臭いで、気分が悪くなりました。ですから馭者がタバコを吸ってる間は歩きました。足首まで砂が入りました。道中で盗賊が出てこなかったのは幸いでした。小高い所に狼がいました。狼は恐れて私たちが近づくと逃げて行きました。鹿も同様でした。ムッシュー・ド・リヴィエールの二輪車に驚いて道を横切っていくのを何度も見ました。
私の健康状態では、このような艱難辛苦はやがて私に影響があるはずでした。事実、数日間でもう倒れそうでした。この旅を中断するものかという勇気と意志がなければ死んだかもしれません。私は衰弱して病気になり、馬車にやっと乗り込む状態でした。馬車のなかでは動くこともなく、考えることもできませんでした。私の唯一の感覚はリューマチによる右側の痛みで、揺れるたびに激しい痛みに襲われました。痛みは耐えがたく、ある日のことですが、道路が修理中で石一杯でした。私は馬車のなかで気を失ってしまいました。
ケーニッヒスベルクに着いて拷問は多少和らぎました。そこでベルリンからの郵便物を受け取りました。ベルリンには1801年7月の終わり頃に到着しました。夜の10時でした。私はすぐにも休みたかったのですが、私の最初の試練は税関でした。私は薄暗い部屋に入れられ、そこで2時間は待たされました。税関吏は私の荷物を夜検査するために保管したいと言いました。私は土砂降りの雨の中を宿屋まで歩いて行かなければなりません。私はフランス語で抗議し、彼らはドイツ語で答えました。これでは気が狂ってもおかしくありません。寝酒も痙攣止めの小瓶も許可しませんでした。このような試練の後には、どうしても必要なものだったのです。この野蛮人たちに叫び続けて声がかれ、私は話すこともできなくなりました。最後にとうとう馬車で税関を出る許可を得ました。私は一人の税関吏に付き添われて宿屋「パリ市」に行きました。ぞっとするような男でその上に酔いどれときていました。この男は私の手荷物を開き、暖房にすべてひっくり返し、刺繍を施したインドの布を一切れ着服しました。これは私がパリを発つときマダム・ドュ・バリーから頂いたものです。私が描いた「巫女」やロシア皇帝と皇后の習作を開かれたくなかったので、私の荷物にシールをしました。そしてようやく眠ることができました。翌朝、私の銀行家であるムッシュー・ランズパッハを呼びました。彼が税関とのややこしい問題をすべて片付けてくれました。
3日間の休養で私は旅の疲れからすっかり回復しました。プロイセン王妃はそのときにはベルリンには滞在されていませんでしたが、丁寧にポツダムへ招待されました。彼女が希望されたのは、私がボツダムで肖像画を描くことです。私は参りました。私のペンは王妃と初めてお目にかかったときの印象を上手く表せません。慈悲と善意を表した天使のような美しい顔、繊細で整った顔立ち、姿、首筋、腕、この上なく初々しい肌 ― すべてが想像できないほど魅力的でした。彼女は喪中でしたので、漆黒の宝冠をつけておられましたが、損なうどころか、彼女の白い肌を引き立てていました。私が最初にプロイセン王妃を見てどれほど魅了されたかは、見た人でなければ分かりません。
彼女は最初のポーズのための時間を決めました。彼女は「午前中はダメです。国王は毎朝部隊を閲兵しますが、私も出ることを希望しています」と言いました。彼女は私が宮廷にいることを望みましたが、女官に迷惑をかけると分かり、感謝してお断りし、近くのホテルで宿泊することにしました。ここで私は毎日苦労することになります。
それでも私のポツダム滞在は、本当に嬉しいものでした。この魅力的な王妃にお会いする度に、私は彼女とお付き合いできる特権に感謝しました。彼女が私の皇帝アレクサンドルと皇后エリザベスの習作を見たい様子でしたので、私が急いで「巫女」とお二人の肖像を急いで持って上がり、広げました。彼女は何とも優しく上品にこの絵を褒めてくださいました。彼女は誠に親しく優しいので、彼女の感受性は完全に愛というべきものでした。陛下が私に注いで下さったご好意をどんなに些細なことであっても、懐かしく思い出されます。例として一つあります。私は朝コーヒーを飲むのが習慣です。私のホテルのコーヒーはぞっとする代物でした。何かの拍子に王妃にこのことを話しました。次の日には最高級のコーヒーが私に届きました。さらに私が彼女のブレスレットを褒めたことがあります。古代様式のものでした。彼は早速それをはずして、私の腕にはめてくださいました。この贈り物は大金よりもはるかに嬉しいものでした。その日から、このブレスレットを肌身はなさず持ち歩くことにしました。彼女はまたご親切にも、劇場では、彼女の近くのボックス席に招待してくださいました。この上等の席から王妃殿下を眺められるのがなによりも嬉しいことでした。彼女の愛らしい顔はまるで16歳の少女のようでした。ポーズをとっている間のことでしたが、王妃は彼女の子供たちを呼びました。びっくりしたことに彼らは醜いのです。私に紹介して、彼女は「可愛くないでしょう」と言いました。本当のところ、これを否定する気にもなりませんでした。私はみなそれぞれ個性がおありと答えるのがやっとでした。
王妃の2枚のパステルが以外に、フェルディナンド公の家族の2枚の肖像を描きました。若き公女の一人ルイゼはラドツィビル公と結婚しましたが、愛らしく愛想のいい方でした。私はしばらく彼女と楽しい手紙のやりとりをしましたが、彼女は忘れられぬ人の一人だと思います。ご主人は完全な音楽家です。彼には驚いた記憶があります。彼は民族衣装を変えてひとりで登場したのです。ベルリン滞在中、私は大公開演奏会に招待され、本当にびっくり仰天しましたました。ホールに入るとラドツィビル公がハープを演奏していました!こんなことは、わが国ではありえないことです。アマチュアが特に貴族が自分のサークル以外の前で演奏するのです。それもお金を払った人の前で演奏するなんてありえません。プロイセンではまったく当たり前の事の様でした。
ベルリンではフォン・クルデナー男爵夫人とお知り合いになりました。賢くて熱狂的な思想の持ち主として有名でした。作家としての名声はすでに確立されていました。彼女は北方ではすでに有名でしたが、まだ宗教的予言者としての名声は得てはいませんでした。彼女とご主人は、私を丁寧にもてなしてくださいました。ポルトガル大使夫人であるマダム・ド・スザも親切でした。このとき、私は彼女の肖像画を描きました。
ベルリン到着早々、私はフランス大使ブルノンヴィーユ将軍を訪問しました。私はとうとうパリに帰ることを考え始めました。友人たちとくに弟は熱心に帰国を勧めてくれました。私の名前を亡命者リストから除いてくれたのです。こうして私はふたたびフランスの女になったのです。何はともあれ、私は心はフランス人でした。ブルノンヴィーユ将軍は私が初めて訪問した共和国の大使でした。私のサンクト・ペテルスブルグ滞在の最後の頃にはドュロック将軍やムッシュー・ド・シャトウジロンがボナパルトの大使として、アレクサンドルの宮廷に出入りしていました。私は、皇后エリザベスが皇帝に「いつ私たちは『市民』と謁見します?」と話しかけたのを記憶してます。ムッシュー・ド・シャトウジロンは私を訪問しました。私は丁寧な態度を取っていましたが、三色の帽子にはぞっとしました。数日後、二人とも、ガリチン公の邸宅で晩餐に出席していました。ドュロック将軍は私の隣の席でした。将軍はナポレオンの親友の一人であると言われていました。彼は私に一言も声をかけませんでしたし、私も同様でした。私が今お話してる晩餐会はちょっとばかり奇妙な事件を引き起こしました。シェフはフランス革命を全く知らず、二人の紳士をフランス国王の大使と思い込みました。二人に敬意を表したいと思い、考えたあげく百合がフランスの紋章であることを思い付き、トリュフ、フィレ、砂糖菓子で百合の形をアレンジしました。客は面食らい、公爵夫人は悪い冗談の犯人と疑われることを危惧して、シェフを呼び出し、百合の意味が分かっているのか尋ねました。この立派な人物は誇らしげに「このような場合に適切であることを私めが存じあげていることをお見せしたかったのです」と云いました。
私がベルリンに別れを告げる数日前のことです。絵画部門のアカデミー総裁がわざわざ、私が上記アカデミーの会員になった旨の証書を手渡しに来ました。私の帰国予定がはっきりしていなかったならば、プロイセンの首都および宮廷における数々の好意の証で、私は留まったと思います。出発を決心したからには親切で愛らしくて若い王妃に別れを告げました。全く考えもしましたかったのですが!彼女の死亡の知らせを聞いて衝撃を受けたのは、ほんの数年後のことです。
ベルリンを出発しようとして私は仰天しました。私の持ち物すべてが無くなっているのです。事の次第はこのようです。馬は朝5時に手配するように頼んでおきました。召使いは現れませんでした。友人に別れを告げに行ったのでしょう。ご存知のように、プロイセンでは思は待ってくれません。私は起きて寝ぼけながら、衣装を身につけました。一方ホテルのポーターは召使がいないので、後のことを考えて私の宝石箱を階下に下ろしました。この宝石箱には私のダイヤモンドすべてと装飾品それに現金 ― 私の全財産 ― 旅行中はすべて足元に置いておきました。幸運にも、寝ぼけながら私が馬車に乗り込むと、足元がいつもと違うのに気づきました。馬は出発しました。私は泊めてくれと叫びました。ポーターに「私の宝石箱」と叫びました。わざと大声を出し宿屋のおかみさんを起こしました。それでよかったのです。ポーターは言い逃れをしましたが箱は出てきました。裏庭の馬屋で藁をかぶせてありました。この間に召使も戻ってきました。私は元気に出発しました。宝石箱も召使も見つかったのです。ぼんやりした旅行者に参考になるかと思って書いた次第です。
ベルリンからドレスデンへそしてブラウンシュヴァイク、ここで私はリヴィエール一家と数日過ごしました。ブラウンシュヴァイクとワイマールの間で。馭者は道を間違え、重たい土の中で数時間立ち往生しました。私は記憶しています。私はせっかちですし、お腹も空いていたものですから、土を集めて顔を作ろうとしました。なんとか顔のようなものになりました。ワイマール宮廷宛の手紙を持っていながら、投函していませんでした。それでも一日遅れてゴータに行きました。ここでパリで知り合った友人グリム男爵と出会いました。彼は丁寧に旅に必要な事柄を聞いてくれました。おかげでフランクフルトまでは順調に旅ができました。フランクフルトでは6日間滞在しましたが、私は非常に退屈でした。気を紛らわしすために私はシャツを繕いました。この縫い方は神のみぞ知る!パリに着いてから、私は女の子を雇いました。この娘は「誰もがマダムが野蛮な国にいたと思いますよ。悪魔が縫ったみたい」と言いました。私は大笑いして、これは私が縫ったのだと言いました。この娘はかわいそうに、困りはて発言を取る消そうとしました。私は針仕事には向いていないと認めて彼女を安心させました。
私は敢えてフランスの大地に足を下ろした感じを述べようと思いません。私は12年間フランスに居ませんでした。恐怖、悲嘆、歓喜で乱されました。断頭台で死んだ友人たちを悼みました。でもまだ生きている友人たちと再会するつもりです。私が再び入国しようとするフランスは恐るべき犯罪の舞台でした。でもこのフランスは私の国なのです。
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