
第3章 制作と楽しみ
1782年ムッシュー・ルブランは、私と一緒にフランダースに行きました。彼は仕事のことでこの地に呼ばれたのです。シャルル公のすばらしいコレクションの売却がブリュッセルであったからです。二人でそれを見に行きました。私を優しく迎えてくれた女官に会いました。ダランベール公女もみえましたが、私は彼女とパリでお会いしました。ここでお知り合いになれて嬉しかったのはド・リーニュ公でした。この方とはまだお知りあいではありませんでしたが、ユーモアと暖かい人柄で有名でした。私たち二人を彼の部屋に案内してくださいました。ここでいろんな傑作を鑑賞しました。とくにヴァン・ダイクの肖像画とルーベンスの胸像が素敵でした。でもイタリアの絵画はほんの数点でした。彼はご丁寧にも、彼の壮大な邸宅に私たちを招待してくださいました。私が記憶していますのは、彼が私たちを見晴らしのいい展望台に連れてって下さったことです。丘の頂上にあって、彼の領地とその周辺を見渡すことができました。私たちが吸った最高に気分の良い空気と見事な眺めは、それは魅力的なものでした。この素敵な領地で、一番すばらしかったのは、この邸宅の主のご挨拶でしょう。この方の上品な心遣いと、作法は他の人には真似ができないものでした。ブリュッセルの町は繁栄していて活気がありました。上流階級の人たちは人生を楽しむことが大好きで、ド・リーニュ公のお友達は正午にはブリュッセルを出発して、ちょうどカーテンが上がるときにパリのオペラ座に到着し、公演が終わると一晩でブリュッセルに戻ります。オペラ好きとはこういうものです。
私たちはブリュッセルを発ちオランダに行きました。私はサールダムとマースリヒトが気に入りました。この二つの小都市は大変きれいで、手入れが行き届いていますので、誰もが住民をうらやみます。街は非常に狭く、運河が張り巡らされていますので、馬車には乗りませんが、馬や小舟が商品の輸送に利用されます。家は低く、扉が二つあります。誕生の扉と死の扉です。人は棺に入ったときだけ死の扉を通るものです。家の屋根はピカピカに磨かれた鋼鉄の様に光り、輝いいます。何もかもが念入りに手入れされています。私は覚えていますが、鍛冶屋の店の外に、ランプのようなものが吊してありました。金メッキされ、磨かれていて、まるで貴婦人の個室用のランプでした。この地方の女の人は非常に美しく見えました。でも内気で、外国人を見かけると、すぐに走り去りました。しかしながら、この国にフランス人がいたら、この人たちも慣れたと思いました。
私たちは最後にアムステルダムを訪問しました。私は市庁舎でヴァン・ルーが描いた議員の集会の壮大な絵を見ました。信じがたいことですが、この大画面の中に、すべてが細かく、自然に描かれておりました。議員たちは黒い衣装を着ておりました。顔、手、衣装すべてが真似のできない巧みさで仕上げられていました。議員たちは生き生きとして、まるで彼らが私たちと一緒にいるみたいでした。この絵はこの種のものでは完璧なものであると信じました。私はこの絵から離れがたく、この絵の印象は今でも残っています。
私たちはフランドルに戻り、ルーベンスの傑作を見ました。パリよりも、はるかに効果的に展示されていました。フランドルの教会ではすばらしい効果がありました。ルーベンスの作品は個人の部屋に飾ってありました。その一つがアントワープにありました。有名な「麦わら帽子」(*)ですが、最近イギリス人に高額で売却されました。この見事な絵はルーベンスが描いた女の肖像画です。私は嬉しくなり、非常に感銘を受けましたので、同じような効果を出そうと努力し、自画像をブリュッセルで描き上げました。私は、羽と花輪で飾った麦わら帽子をかぶりパレットを手にした自画像(**)を描きました。この自画像はサロンに展示されました。遠慮なく言わせていただきますが、この作品は私の評判を相当高めることになりました。有名なミューラーがこの銅版画を製作しました。銅版画の暗い影がこのような絵の全体的効果を損なっていることはご理解いただけると思います。フランドルから帰って早々に、今申し上げた自画像と他の作品をみて、ジョゼフ・ヴェルネは私を王立美術アカデミーの会員に推挙することにしました。国王の主席画家であるムッシュー・ピエールは強く反対しました。花を美し描くマダム・バライェール・コステルはすでに会員であるが、女を会員にするのは望ましくないといいました。マダム・ヴィアンもすでに会員だったと思います。ムッシュー・ピエールは凡庸な画家でしたが、世才にたけた人でした。それに彼はお金持で、絵描きさんたちを豪華にもてなすことはできました。絵描きは今日ほど裕福ではありませんでした。もし、すべての真の美術愛好家がアカデミーに無関係でしたら、もしムッシュー・ピエールに対立して私を守ってくれなかったら、彼の反対意見は決定的だったでしょう。とうとう私は会員になることを認められ、寓意画を提出しました。
私は必死になって描き続けました、1日に3人の肖像画を描いたこともありました。食後も肖像画を書き続け、疲れ果て胃の調子がおかしくなりました。私は何も消化できず、やせ細ってしまいました。友人たちの勧めで医師に診てもらいました。医者は食後毎日寝るように云いました。この言いつけに従うのは大変ですだが、ブラインドをおろして部屋に閉じこもりました。そのうちに慣れました。私はこの習慣のおかげでこれまで生きてこられたと思っています。休息を強制されて残念だったのは、外で食事をするという楽しみを奪われたことです。私は昼のあいだ描き続けましたので、夜までお友達に会えませんでした。確かに社交界の楽しみは私には無縁でした。私は夜は洗練され、教養ある人たちと過ごしました。
結婚後はクレリュー通りに住んでいました。ムッシュー・ルブランは豪華な家具をそろえた部屋を借り、大画家の絵画を持っていました。私はといえば、小さな控えの間と寝室があるだけでした。それすらも私のアトリエになっていました。この部屋はがわずかな調度品があり、質素な壁紙が張ってあるだけでした。この部屋でお友達や宮廷からのお客様をお迎えしたです。誰もが私の夜のパーティーに来たがりました。人数が多すぎて椅子が足りなくなり、フランスの元帥が床に座ったこともあります。覚えておりますが、ド・ノエユ元帥は高齢の方で、大変太っていましたので、立ち上がるのが大変でした。
もちろんこんな偉大な方々が、私目当てにいらっしゃるといいたいところですが、パーティーのとき他の方に会いたくて来られる方もみえました。ほとんどの方はパリで最高の音楽がお目当てでした。グレトリュ、サッチーニ、マルティーニのような有名な作曲家がオペラの初演前にわが家で曲を披露したものです。
常連の歌手はアスヴェード、リシェール、マダム・トディでした。私の義理の妹は声がよくて、どんな曲でも初見で歌えましたので、大変重宝でした。私が歌うこともありましたが、正直ちゃんとしたものではありませんでした。
ガラーはとびきりの名人といって差し支えないでしょう。彼のような弾力性のある喉の持ち主には難曲というものはありませんでしたし、表現力に関しては彼に匹敵する歌手はいませんでした。グルックを彼ほど見事に歌った人はいないと思います。
バイオリニストのヴィオッティも来てくれがました。優雅で、力強く、表現力があり、うっとりしてしまいます。ヤルノヴィック、マエストリーノ、とてもお上手なアマチュアであられるプロシアのハインリッヒ公もいらっしゃいました。
サレンティンはオーボエを演奏しました。フルマンデルとクレーメルはピアノを演奏しました。マダム・ド・モンジェルーも結婚後一度みえました。彼女は当時、非常に若かったのですが、見事な演奏特に表現力で気難しい私の友達を仰天させました。彼女は正に楽器を歌わせました。マダム・ド・モンジェルーは以後、一流のピアニストでしたし、作曲家としても有名です。
私がコンサートを催していた頃は、趣味と余裕を持って楽しみました。その後何年かして、音楽が一般的になると、グルック派とかピッチーニ派とか呼ばれる人たちの間で深刻な論争が起こりました。愛好家は二派に分れました。戦場となるのはいつもパレ・ルヴァイアルの庭園でした。グルック派とピッチーニ派が互いに暴力的になり、一度ならず決闘沙汰になりました。
常連の女性としては、ド・グロリエール侯爵夫人、マダム・ド・ヴェルダン、ド・サブラン侯爵令嬢、彼女は後にシュヴァリエ・ド・ブフレールと結婚しました。それに、マダム・ル・クトー・ド・モレ ― この四人とも私の親友でした。ド・ルージュ侯爵夫人と友人のマダム・ド・ペゼー、私はこの二人を一枚の絵に描きました。それに、フランス人女性のあるホステスは、私の部屋が狭いので、たまにしか来ていただけませんでした。その他あらゆる国の身分の高い外国人女性が訪問されました。
男性に関しては、ここに書き切れません。この中から最も聡明な方々を夕食会に招待しました。アッベ・デリーユ、詩人ルブラン、シュヴァリエ・ド・ブフレール、セギール子爵およびその他の方々が、この集いをパリで最も楽しい夕食会にしてくださいました。
1日の仕事から解放されて、15人ばかりの人たちがホステスの家に集まり、楽しい夜を過ごした時代をご存知ない方は、どんな社交界がフランスにあったかお分かりにならないと思います。このような軽い夜の食事のくつろぎと楽しさ、これはどんな豪華な晩さん会にもないものです。お客さんの間には信頼と親密があったものです。パリの良き社交界が全ヨーロッパの社交界に勝るのは、このような夕食会なのです。
我が家では、例えば9時ごろに集まります。政治の話をする人は誰もいません。文学を語り、その時々のエピソードを話しました。時にはシャレードで気晴らしをしました。アッベ・デリーユや詩人ルブランが詩を朗読することもありました。10時すぎにはテーブルにつきました。我が家の夕食は質素なものでした。メニューは鳥、魚、野菜、サラダでした。時間は分のように経ち、深夜には解散でした。
自宅で夕食会をするだけではなく、私は時々外の夕食会にもまいりました。ダンスになることもありました。今日のように人出でむせ返るようなことはありませんでした。8人でスクエイア・ダンスをしました。ダンスをしない女性は見物していました。男性はそのうしろに立っていました。私はザクセンの公使ムッシュー・ド・リヴィエールのお宅で夜を過ごすことがありました。ユーモアと品位では傑出した人物でした。
そこで喜劇か軽いオペラを演じました。お嬢さん(私の義理の妹)は歌が上手でした。女優としても通用したでしょう。ムッシュー・ド・リヴィエールの長男は、喜劇役が上手でした。オペラや劇の本職の方にも出ていただきました。マダム・ラルエットは舞台から引退して数年になりますが、われら劇団員を軽蔑しませんでした。彼女はいっしょにオペラに参加しました。彼女の声は依然として若々しいものでした。
私の弟ヴィジーは主役を演じ、好評でした。ようするに、われら全員はいい俳優でした。
タルマがダメでした。こういうと読者はきっと笑わらわれるでしょう。タルマは恋人役を演じましたが、非常にぎこちなくて内気で、彼が偉大な俳優になろうとは誰も思いませんでした。ですから、われらの主役がラリーヴを上回り、ラカンの役を奪うのを見て私は仰天しました。私は他の分野に比べて演劇的才能を完成させるには時間がかかるものだと思いました。
ある夜のことです。詩人ルブランの朗読を聞くために十数人の友人を招待しました。私たちが友人を待っている間に弟が「アナカルシス」の数ページを読んでいました。ギリシャの晩餐に関するところまできました。ソースの作り方の説明でした。「今晩、これをやってみたら」と弟は言いました。私はすぐに調理人を呼んで適切に指示しました。鶏にはあるソース、ウナギには別のソースを作らせることにしました。
非常にきれいな女性たちが来る予定でしたので、私はギリシャの服装をを思いつきました。ムッシュー・ド・ボードレイルとムッシュー・ブータンは10時までは来られないことがわかっていましたので、二人を驚かせてやろうと思いついたのです。私のアトリエにはモデルに着せるもの布地がいっぱいありましたので、衣装の材料には事欠きませんでした。
それにド・クレリュ通りの私たちのマンションに住んでいたド・パロア伯爵は見事なエトルリアの壺の収集家でした。たまたまその晩、彼が私に会いに行きました。私は計画を彼に打ち明けました。彼はたくさんの杯や壺を維持でくれました。私はその中から選びました。私はこれらの品物を自分できれいにして、テーブルクロスを取りマホガニーの食卓に並べました。
次に私はそのうしろに、大きなスクリーンを置きました。一定の間隔の壁掛けでそのスクリーンを隠すためです。これはプーサンの絵にあるようにするためです。ランプはテーブルを照らしました。すべて準備は整いました。あとは私の衣装です。その時ジョゼフ・ヴェルネのお嬢さん。魅力的なマダム・シャルグランが最初に到着しました。私は彼女の手を取り、彼女の髪を整え、彼女の着付けをしました。
次に非常な美人のマダム・ド・ボヌイルが現れました。私の義理の妹であるマダム・ヴィジー、彼女は美人ではありませんが、この上なく美しい眼の持ち主です。これで3人です。3人とも、紛れもないアテネの女に化けました。
ルブランが入ってきました。私たちは彼のパウダーをふき取り、彼のカールを直し月桂樹の冠をかぶせました。ド・クビエーレ侯爵が到着しました。みなが黄金の竪琴にするギターを取り寄せにいかせる間に、私は彼の衣装を担当しました。同じようにマダム・ド・リヴィエールと有名な彫刻家ショーデの衣装も代えました。
時間は過ぎていきます。私自身のことをかまう時間はほとんどありませんでした。でも私はいつもチュニック風のガウンを着ていましたので ― 今ではブラウスと言いますが ― ヴェイルと花輪を頭につければいいのです。私の娘はかわいい女の子でしたが、彼女の衣装には困りました。マダモアゼル・ド・ボヌール現在では、マダム・ルノー・ダンジェルですが、彼女は天使のように愛らしかったのです。二人とも、うっとりするほど美しく、軽い古代の壺を持っていつでも飲み物を注げまう。9時半には準備は終わりました。10時にはド・ヴォードレイル伯爵とブータンの馬車の音が聞こえました。二人の紳士がダイニング・ルームの扉の前に着いたとき、私はドアを開きました。私たちはグルックの合唱曲「パフォスの神」を歌って二人を迎えました。ムッシュー・ド・クビエールが竪琴で伴奏しました。私の生涯でムッシュー・ド・ヴォードレイルとお友達ほど驚いた顔を見たことがありません。二人は驚きかつ喜び、しばらくたったままでとっておいた席に座るのに時間がかかったほどでした。
私が申し上げた2皿以外に、蜂蜜とコリント・レイズンのケーキと野菜2皿を出しました。その夜、キプロス・ワイン一瓶を飲みました。これは私へのプレゼントでした。しかし、これが気晴らしのすべてでした。それでも私たちは長時間テーブルに腰掛けていました。ルブランは彼が翻訳した「アナクレオン頌歌」を朗読してくれました。こんなに楽しい夜を過ごしたことは無いと思いました。ムッシュー・ブータンとムッシュー・ド・ヴォードレイルの二人は感激して、次の日には友人たちにこのもてなしをしゃべりました。
宮廷では、私にこの催しを繰り返してくれるように頼む女性もいました。私は理由をつけてお断りしました。このお断りに傷ついた女性もいたようです。社交界では、私がこの夕食会で2万フランを使ったという噂が広まりました。国王が困惑されてたまたま私の客の一人であったド・クビエール候爵に話されました。彼は非難がばかげていると、国王を納得させることができました。ベルサイユで2万ランの見積もりがローマでは4万フランにふくれ上がりました。ド・ストロガノフ男爵夫人によれば、私はギリシャ風夕食に6万フランを使ったことになっていました。サンクト・ペテルブルグでは金額は8万フランでした。実際は夕食の費用は15フランでした。
私は人畜無害の人間でしたが、敵はいました。革命の数年前、私はムッシュー・ド・ド・カロンヌの肖像画を描き、1785年のサロンに出品しました。私は大臣を座らせ、膝のところまで描きました。マダモアゼル・アルヌールはこれを見て「マダム・ルブランは彼の脚を切ったものですから、彼は外出できません」と言いました。私の絵が原因で、こんな些細な冗談も出たのですが、信じられないようなおぞましい、中傷の的になりました。この肖像画の謝礼について千の作り話が流れました。大臣は紙幣で包んだ砂糖菓子を大量にプレゼントしたという話もあれば、金庫を空にするほどの金額をパイに詰めてプレゼントしたという話もありました。事実はこうです。ムッシュー・ド・ド・カロンヌは20ルイ程度の箱に4000フランを入れて送ってきました。この金額が少ないのに皆さんは驚きました。というのは、以前にムッシュー・ド・ド・ボージョンの同じような肖像画を描きましたが、彼は8000フランを送ってきました。誰もこの謝礼を多すぎるとは思いませんでした。
私はお金のことは気にしたことはなく、お金の価値もほとんど知りませんでした。ド・ラ・ギッシュ伯爵夫人はまだご健在ですが、肖像画を私に依頼しましたが、彼女には1000フラン以上は払えないと打ち明けました。私はムッシュー・ルブランからは2000フラン以下では仕事はしないように言われていると答えました。私の親友たちはムッシュー・ルブランが投資に必要だと言っては、私が稼いだお金をすべて取り上げることを知っていました。私はポケットにも銀行にも6フランしか持っていないことがしばしばありました。私は1788年にハンサムなルボミルスカ公の肖像画を描きました。ルボミルスカ公夫人は1万2000フランを送ってきました。ムッシュー・ルブランに40フランを私にくださいといったのですが、彼はそれさえ持たせてくれませんでした。彼が言うには、約束手形を弁済するために全額必要だと言うのです。
私は何故お金に無頓着かというと、財産は必要のはなかったからです。我が家を楽しくするのに贅沢は必要ではなかったんです。私はいつも質素に生活していました。衣装にはほとんどお金を使いませんでした。私は服装に構わないといって叱られたこともあります。モスリンやローンの白いドレスしか着ていませんでした。ベルサイユで肖像画を描くとき以外はちゃんとしたガウンを着たことはありませんでした。私は自分で髪を結えましたから、髪飾にはお金をかけませんでした。私の肖像画でおわかりでしょうが、私はモスリンの帽子をかぶっていました。
私は気晴らしに劇場に出かけました。パリの劇場には数多くの才能ある俳優がいました。誓って申しあげますが、後を継げる俳優はいません。有名なラカンの演技を完全に見たことを記憶しております。彼の怪物のような醜さは必ずしもすべての役で出ていたわけではありません。彼がオロスマーニュの役を演じていたときのことです。私は舞台の近くで彼を見ました。彼のターバンのせいで、彼はぞっとするほど醜くみえました。私は彼の見事な演技が大好きでしたが、私は恐くなりました。
マドモアゼル・ドゥメスニルは背が低くて醜くかったのですが、彼女の悲劇的な役で観衆を夢中にさせました。マドモアゼル・ドゥメスニルは劇の途中までなんら感銘を与えていませんでしたが、突然彼女は変わりました。仕草、声、表情が悲劇的になり、満場の喝采を浴びました。私は、彼女が舞台に登場する前にワインを1瓶空ける習慣があり、もう一瓶は舞台の袖にとってあると言われていました。
私の記憶に残ってる最も華やかな初登場はディド役のマドモアゼル・ロクールです。当時、彼女は18歳か20歳そこそこでした。彼女の顔、容姿、発声 ― これらすべてが彼女がいずれ完璧な女優になることを示していました。これらの長所に加えて、態度と物腰が上品で、道徳的に潔癖であるという評判でした。そのせいで、彼女は貴婦人たちからもてはやされました。彼女といつも一緒にいる彼女の父親には、宝石、劇場衣装、お金がプレゼントされました。彼女はその後すっかり変わりました。
最後の偉大な悲劇俳優であるタルマは誰よりも優れています。彼の演技は天才的です。彼は演劇に革命をもたらしたとも言われています。まず大げさで、もったいぶった話し方をやめ、自然で、偽りのない話し方にしたことです。次に彼は服装を革新しました。彼がアキレスやブルータスを演じるとき、ギリシア人がローマ人の服装をしました。この点で私は彼に心から感謝するものです。タルマの顔は立派でしたし、表情が非常に豊かでした。彼の演技が激しくなっても、常に威厳がありました。悲劇俳優にとっていちばん大切な資質であると私は思います。彼は善人で、非常に気分の良い人でした。彼は受け答えするとき物静かでした。彼の深い関心を呼び起こすには会話に何かがなければなりませんでした。その時には、彼は傾聴に値する話をしてくれました。特に、演劇に関する話は価値あるものでした。
悲劇よりも喜劇才能があったと思います。私はプレヴィーユを舞台で見る幸運に恵まれました。まさに完璧で真似のできない芸術家でした。彼の演技は巧妙かつ自然で、それでいて楽しいものでした。彼の演技は変化に富んでいました。彼はクリスパン、ソシー、フィガロを次々に演じました。同一人物とは思えないでしょう。彼の喜劇の資源は無尽蔵でした。
ドゥガゾンは彼のユーモラスな役の後継者ですが、観客を笑わせようとするあまり、茶番にさえならなければ、優れた喜劇俳優でしょう。彼は従者の役を見事に演じました。ドゥガゾンは革命のときは悪役を演じました。彼は国王を探しにヴァレンヌまで出かけた男です。ある目撃証人によれば、この男は銃を背負って馬車の扉にいたそうです。考えてもみてください。この男は宮廷で、特にダルトア伯爵に可愛がられた男ですよ。
私はマドモアゼル・コンタの初登場を見ております。彼女は大変愛らしく姿の良い女性でした。でも最初は演技があまりに悪かったものですから、誰も大女優になるとは思ってはいませんでした。ボーマルシェに抜てきで、「フィガロの結婚」のスザンナの役を演じました。いくら愛らしくでもブーイングを免れることはできませんでした。このとき以来、彼女はどんどんうまくなって大女優への道を歩んできました。
偉大な俳優が高齢になり始めると、必ずや今日のフランス演劇界の誇りとなる、若き才能が育ってくるものです。マドモアゼル・マールは当時、若い女の子の役を見事に演じていました。彼女は「非常識な哲学者」でヴィクトリーヌの役を見事に演じました。誰も彼女に匹敵する女優はいませんでした。誰もあのような感動的で真に迫った演技は不可能でした。幸い、容姿と魅力的な声が維持され、マドモアゼル・マールには年齢は関係ありません。観衆も私と同意見であることは拍手でわかるでしょう。
私の記憶では、ソフィー・アルヌールはオペラ座で「カストルとポルックス」に出演し、私も二度聞いたことがあります。彼女は上品で、感性豊かな女性だという記憶があります。歌手としての彼女の能力ですが、当時の音楽が大嫌いでしたので、その点について十分に触れることはできません。マドモアゼル・アルヌールは美人ではありませんでした。彼女の口で顔は台無しでした。彼女の目で賢そうにみえ、これで彼女は有名になりました。彼女の気の利いたおしゃべりが口から口へと伝わり、記事にもなりました。
長い間優れた才能で私たちを楽しませてくれた女性はマドモアゼル・アルヌールの後継者でした。マダム・サントベルティです。歌劇の可能性を知るためには彼女の声を聞くべきです。マダム・サントベルティは声がすばらしいだけではなく、女優としても偉大でした。運命の女神が彼女に、ピッチーニ、サッチーニ、グルックのオペラを歌うように命じられたのです。これらの音楽はすべて美しく、表現力があり、彼女の才能に適したものです。彼女の才能は傑出しており、誠実で,高貴でした。彼女は美人ではありませんでしたが、情熱的な表情は魅力的でした。ダントレイギュ伯爵は容姿端麗で、健康であり、並外れた製の持ち主でした。伯爵は彼女に惹かれ、彼女と結婚しました。革命が勃発すると、二人はロンドンに逃げました。そのロンドンで、ある晩二人は殺されました。犯人も動機も明らかにされていません。
バレーでも同様に才能を持った人々がいました。ガルデルとベステル父が一番でしょう。ベステルは背が高く、堂々としていました。厳粛で、落ち着いた様式のダンスには向いていませんでした。メヌエットの前の会釈で帽子をとり、かぶり直すときの優雅さといったらありませんでした。宮廷の若い女性は宮廷での拝謁の前に礼儀作法のレッスンを受けたものです。ベステル父の後継者となったのは彼の息子です。優雅さと軽やかさを持ち合わせた、後世に残る驚異的な踊り手です。今日の踊り手はピルエットこそ惜しんではいませんが、彼ほど幾度もできないのは確かです。彼はとつぜん見事に宙に舞い、彼には翼があると誰もが思ったでしょう。だから父親のベステルが云いました。「息子が着地するのは仲間への思いやりからです。」
マドモアゼル・ギマールの才能は別のところにありました。彼女の舞踊はスキットにすぎません。彼女はただ短いステップをするだけです。彼女はそれを魅惑的な動きでやってのけました。他の女性ダンサーをさておき、観衆がシュロの葉を彼女に捧げたものです。彼女は背が低く、ほっそりとして、姿の良い女性でした。彼女の容貌にはこれといった特徴はありませんが、舞台に立つと、15歳くらいにしかみえないのです。
私が全演劇人生をご説明できる人の番になりました。オペラ・コミックの最高のタレントであるマダム・ドゥガゾンです。これほどの現実性を舞台上で見たことはありません。この女優は消え、実際のバベ、ダルベール伯爵夫人、あるいはニコレットにその席を譲りました。彼女の声はどちらかというと小さいものでしたが、笑わせ、泣かせるには充分でしたし。あらゆる状況と役柄に充分でした。グレトリとドゥレラは彼女に脚本を書きましたが、彼女に夢中でした。
彼女のようにニーナを演じれる女優はとうとうありませんでした。優雅でかつ情熱的なニーナ、非常に不幸で、感動的でしたので、彼女を見かけるとつい。皆さんは涙を流したものです。マダム・ドゥガゾンは心底王党派でした。革命が進行しているときに、「予知できない出来事」のメイド役の演技で、彼女は聴衆にこのことを示しました。王妃は観劇中でした。従者の「私は心より御主人様を敬愛しています」というデュエットが始まり、マダム・ドゥガゾンが「私がどれだけ奥様を愛しているか」と応える場面で、彼女は王妃のボックスを向き、手を胸に当て、王妃に会釈しながら溶けるような声で歌いました。私が聞いた話では、聴衆は仕返しを考え、当時はやり出していた。恐ろしい歌を歌わせようとしました。マダム・ドゥガゾンは屈しませんでした。彼女は舞台を去りました。
第三章終わり
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