2008年4月18日金曜日


第1章 若き日々

私の子供時代から話を始めることにします。この時代が私の生涯を暗示しているからです。私の絵への愛情はこの早い時期に明らかだったからです。6歳で寄宿舎に入れられ、11歳までそこにいました。その間私は自分の帳面だけでなく、友人の帳面まで、顔の正面や横顔を描き込みました。寄宿舎の壁に色チョークで顔や風景を描きました。どれだけ叱られてパンと水を絶たれる罰を受けたかご想像できるでしょう。外での自由時間を利用しては思いついた絵を地面に描きました。7歳か8歳のころ、ランプの光りを頼りに、ひげを生やした男性の絵を描いた記憶があります。この絵は今でも私はとってあります。お父さんが喜んでしまい、叫びました。「お前は間違いなく絵描きになれるよ!」生まれつき絵に対する情熱を持っていたことをお話ししたかったのですが、この情熱は失われることなく、ますます強くなる一方でした。私はこの魔法にかかったままですし、死ぬまで続くと思っています。私はヨーロッパの高貴の方々に巡りあわせていただく幸運に恵まれましたが、これもひとえに並はずれた情熱のせいだと思います。

寄宿舎にいた頃、私は体が弱く、両親は度々私を引き取りに来ては家で数日すごしました。これは私には好都合でした。父のルイ・ヴィジェーーは達者なパステル画を描きました。かの有名なラトゥールに匹敵するような絵も描いたこともあります。お父さんはそのスタイルで顔を描かせてくれました。実際一日中クレヨンを使わせてくれました。お父さんは絵に没頭していた人なので、ときどき奇妙なことをしました。私が記憶していることがあります。ある日町での晩餐に出かけましたが、すぐに戻ってきました。描き始めた絵を直したくなったのです。お父さんはカツラをとり、キャップをかぶりました。そしてこの帽子のままで金ぴかの上着を着て出かけました。近所の人が注意してくれなかったら、町中をこの格好で歩いたことでしょう。

お父さんはしゃれた話のうまい人でした。この天性の気質で人気がありました。お父さんとおしゃべりをしたくて絵を描いてもらいに来る人もいました。かなりきれいな女の人の肖像を描いていた時のことです。口を描き始めました。口を小さくしようとして、この女の人は顔をしかめました。等々我慢がならなくなってお父さんは言いました。「どうぞご心配なく。ご注文とあれば、口のないあなたを描いてご覧にみせます」

お母さんは大変きれいでした。お父さんが描いたパステル画やずっと後になってから私が描いた油絵から判断して頂けると思います。お母さんは無駄使いもしないものですから、お父さんはお母さんを女神のように思っていました。それに心底から信仰心があり、私もそうだった。いつも歌ミサは欠かさず、ほかのミサもきちんと出ていた。レントのときは決められたお勤めをすべて果たしました。私は神聖な歌が好きで、この当時オルガン音楽を聴くと涙出ました。お父さんは夜に芸術家や文学者を招待しました。その中でまずあげなければならないのはドワイヤンです。歴史画家で、お父さんの一番の親友であり、私の最初のお友達です。ドワイヤンのように素敵な人はいません。非常に知的で善意の人でした。彼の人物や物に対する判断は正しく、しかも絵画を語るときの情熱はすごく、彼の話を聞いていると、私の心臓はどきどきしたものです。

ポアンシネも賢くて陽気でした。彼は人の言うことを信じ込むので有名でした。いつも奇妙なことでからかわれていました。友人が「王様の護衛」というお役目があると言い、彼を燃えさかる炎の前に立たせ、あやうくふくらはぎが焼けるところでした。彼は動こうとしましたが、動いたらダメだ、その熱に耐えられなければ、その役目には就けないぞと言いました。ポアンシネはけっして馬鹿ではありませんでした。彼の作品は今でも人気があります。ある晩グラン・オペラで「エルミレーヌ」、テアトル・フランセーズで「サークル」、オペラ・コミックで「トム・ジョーンズ」が上演され成功しましたが、みな彼が書いたものです。ある人が彼は旅に向いているとたきつけました。それでまずスペインに出かけました。彼はグアダルキヴィールを渡る途中で溺れてしまいました。画家で詩人であったダヴェスネにもふれなければいけません。どちらも平凡でしたが、会話が機知にとんでいるため、お父さんの夕食に招かれたのです。ほんの子供でしたけど、夕食は楽しいものでした。デザートがでる前に食卓を離れなければいけませんが、私の部屋から笑いや冗談や歌が聞こえてきたものです。内容は分かりませんでしたが、おかげで休日が楽しいものになりました。

はじめての聖体拝領の後になりますが、11歳の時に寄宿舎を出ました。ダヴェスネが油絵を描いていて、奥さんを私の所に行かせて色の混ぜ方を教えてくれました。二人の貧しさは気の毒でした。ある日私は描きかけた絵を完成させたかったのです。ご飯を食べていくように言われました。ご飯はスープと焼きリンゴだけでした。

もう両親と一緒にいられるので私は大喜びでした。弟は三歳年下でしたが、天使のように愛らしかったのです。私は弟ほど元気ではなく、賢くもなく、可愛らしいもありませんでした。実際この当時私は一番不器量でした。おでこがでて、目はくぼみ、青白くてやせこけた顔でましなのは鼻だけでした。おまけに背丈が伸びるのが早く、背筋をまっすぐにのばせず、柳のようにおじぎをしたような格好でした。私の不器量がお母さんの悩みの種でした。私はお母さんは弟を溺愛していると思いこみました。どちらにしても、お母さんは弟を甘やかし、弟のしでかしたことは許し、私には厳格でした。そのかわりにお父さんが優しくてなんでも許してくれました。優しく愛してくれますので、私の心はますますお父さんに向かうことになりました。こんなにいいお父さんに恵まれたせいでしょう。私は信じておりますが、お父さんが言ったことは一言たりとも忘れていません。あの1789年のとき、幾度となく、お父さんが予言者のように言ったことを思い出しました。お父さんは哲学者の晩餐会から帰ってきましたが、そこでディドロ、エルベチウス、ダランベールに会いました。お父さんはすっかり落胆していました。お母さんがどうしたのと聞くと、「今夜聞いたことでね、世の中が逆転してしまうと思うようになったよ」と言いました。私はお父さんが病気なったとき、家で一年を過ごすことになりました。2ヶ月間苦しんだあげく、回復の見込みはありませんでした。臨終の時が来たことをさとり、お父さんは弟と私の顔を見たいと言いました。私たちは泣きながらベッドのそばに近づきました。いつもは生き生きとしていた顔つきはすっかり変わり果て、まったく表情がありませんでした。青ざめ冷たい死相が出ていました。二人とも冷たい手を取り、キスし涙でぬらしました。力を振り絞って起きあがり、二人に声をかけました。「お前たち幸せでな」とだけ言いました。一時間後にお父さんはなくなりました。

悲嘆にくれた私は当分クレヨンをとる気にもなりませんでした。ドアイヤンがときどき家に来てくれました。彼はお父さんの一番の親友でしたから、大変慰めになりました。もう一度私が大好きな仕事をするように勧めてくれたのは彼です。実際、これが唯一の慰めになりました。私が実物を描き始めたのはこの時です。パステルと油で肖像画も上達しました。実物や絵を見ながらスケッチしました。ランプのもとで親友になったマドモアゼル・ボッケと一緒に練習しました。夜サン・ドニ通りも彼女の家に行きました。ここで彼女のお父さんは骨董品の店を開いていました。わが家はド・クエリュ通りのルベール邸の向かい側にありました。ですから、出かけるときはお母さんがいつもつきそうと言ったものです。マドモアゼル・ボッケと私は画家のブリアールの家に通いました。この人は彼のエッチングや古典的な胸像を見せてくれました。ブリアールは画家としては平凡でしたが、ちょっと風変わりな天井画を描きました。ですが、彼の素描はすばらしく、それで習いにくる若い人がいたのです。アトリエはルーブルにありました。私たちは交互に食事のバスケットを持参しました。なにしろ一日がかりでしたから。

マドモアゼル・ボッケは15歳で私は14歳でした。私たち容姿を競い合っていました。私はすっかり容姿が変わり、きれいになっていました。彼女の芸術的天分は相当なものでした。私の進歩ははやく、まもなく話題になりました。その結果ありがたいことにジョゼフ・ヴェルネの知遇を得ました。この高名な画家は心からの激励と価値ある忠告をしてくれました。フランス・アカデミーのアッベ・アルノールとも知り合いました。想像力豊かな人物であり、文学と芸術に情熱をもっていました。彼の会話により、言うなれば私のアイデアは豊かになりました。彼は音楽と絵画について非常な熱意で語りました。アッベ夫妻はグルックの熱心な支持者でした。後にこの偉大な作曲家に私を紹介してくれました。私も音楽が大好きでしたので。

お母さんは私の容姿に自信を持つようにりました。私はふっくらして若さの特権である新鮮な容姿になりました。日曜日にはチュイルリーにつれて行ってくれました。お母さん自身まだきれいでしたが、次第に私も自由にものがいえるようになりました。二人で歩いていると、あとから来る男たちの作法が、私には嬉しいというより、迷惑でした。悲惨な喪失が癒しがたいのを見てとり、お母さんは絵を見せることでなんとか治せると考えたのでしょう。こうして二人でルクサンブール宮殿に行きました。ここのギャラリーにはルーベンスの傑作があるのと大画家の作品が数多くあるからです。現在では現代フランス画の絵画しか展示されていません。私はそのクラスで展示されていない唯一の画家です。昔の大家たちはその後ルーブルに移されてしまいました。このためにルーベンスはその良さを失ってしまったのです。照明の違いで絵が違ってしまうのは、音楽が演奏で違ってくるようなものです。

個人所有の絵を見ましたが、摂政殿下のパレ・ルバイヤルに匹敵するものはありませんでした。ここには昔のイタリアの大家が大変多かったのです。ここのギャラリーに入ると、私は大家たちの絵をながめてうっとりすると同時に、ためになる知識を集めて回るミツバチのようになりました。さらに、私の腕を磨くために、ルーベンスの絵、レンブラント、ヴァン・ダイクの肖像画を模写したが、グルーズの少女の肖像画も模写しました。それは微妙な肌の彩色にあるぼかしが勉強になると思ったからです。ヴァン・ダイクにもそれがありますが、さらに見事でした。ここでの勉強のおかげで、顔の出た部分の光りの度合いを変化させていくための重要な知識が得られました。これを実に見事に仕上げているのはラファエロであり、彼の顔はじつにあらゆる意味で完璧なものでした。しかしそれはローマ、あの光り輝くイタリアでのみラファエロを判断できるのです。数年後、生まれ故郷を離れることのなかったラファエロを見ることが出来ましたが、ラファエロはその名声以上の素晴らしさでした。

お父さんはお金をまったく残しませんでした。でも私は肖像画を数多く描いていましたので、お金をずいぶん稼いでいました。でもそれでは家計には十分ではありませんでした。弟を学校に行かせ、服や本を買うのには充分とはいえませんでした。お母さんは再婚しなければと思っていたようです。金持ちの宝石商と再婚することにしました。この男が強欲とは思っても見ませんでした。でも結婚後すぐにそのケチぶりを見せつけられました。生きていく最低限の支出しか認めませんでした。それでも私は自分で稼いだお金はすべて気前よくこの男に渡しました。ジョゼフ・ベルネはカンカンになって怒り、一定金額だけ渡し、残りは貯めておいたらどうかと忠告してくれました。私はこうすうると、お母さんがこのケチ男のことで苦しい思いをするのではと考えました。私はこの男が大嫌いでした。お父さんの衣装箪笥を自分のものにし、お父さんの衣装をそのまま着るのです。自分にあわせて衣装を直しもしないのです。若い私の評判でわが家にはいろんな人が来るようになりました。有名な人も私に会いに来ました。ピヨトル三世の暗殺者の一人であるオルロフ伯も来ました。オルロフ伯は非常に大柄な人で、大きなダイヤの指輪をはめていたのを記憶しています。この頃私はシュヴァロフ伯の肖像画を描きました。当時60歳ぐらいで侍従長だったと思います。愛想がよくて完璧なマナーの人でした。素敵な人でしたから皆からもてはやされました。マダム・ジョフランも私の家に来てくれました。彼女は華やかな社交生活で知られていました。マダム・ジョフランは文学や芸術で名のある人を家に招待していました。外国の著名人や貴紳の方々がここに集まりました。別段良家の出身でもなく、格別の才能があるわけでもなく、大金持ちでもないのに、パリではユニークで、現在の女性が望んでも得られない地位を築いたのです。私のことを聞きつけて、彼女はある朝私に会いに来て、私の人柄と才能を褒めちぎりました。彼女は年を取っているわけではないのに、私は大変高齢かと思いました。背中がちょっと曲がっているだけではなく、衣装が年寄りじみていたからです。鉄灰色のガウンをまとい、大きなツバの帽子をかぶっていましたが、その上に黒いショールをつけあごの所で結んでいました。現在では、この年配の女性だったら、化粧室でずっと若くみえるようにするでしょうに。

お母さんが再婚してすぐに、一家はサン・トノーレ通りのパレ・ルヴァイヤルのテラスに面した継父の家に移りました。ド・シャルトル公爵夫人が侍女たちと庭を散歩するのを見かけました。まもなく彼女は私に気づいた様子でした。私は当時大変評判になったお母さんの肖像画を仕上げたばかりでした。公爵夫人から使いの人が来て私に肖像画を注文したのです。彼女は私の才能をほめて友人に紹介してくれました。やがて私は威厳のある美しいド・ブリオンヌ伯爵夫人と愛らしいご令嬢であるド・ロレーヌ姫が訪問されました。二人のあとには宮廷やフォーブルク・サン・ジェルマンの貴婦人が続々と訪問されました。

街に出ると見つめられるようになりました。劇場や広場でもそうでした。私は注目の的になり、私の顔を見たくて肖像画を注文する人がありました。こんなことで私の好意を得たかったのです。でも私は絵画に夢中になっていましたので、こんなことで気がそれることはありませんでした。されに、お母さんから教えられたモラルや信仰上の原則が私を誘惑から守ってくれました。さいわい私はただの一編の小説も読んだことはありませんでした。「クラリッサ・ハーロー」が始めて読んだ小説でしたが、これも結婚してから読みました。結婚以前は霊父たちの道徳訓話のような神聖な文献しか読んだことはありません。ここには知るべきことがなんでも書いてあります。それと弟の教科書ぐらいのものです。

さて紳士方に話を戻しましょう。この方たちが色目を使おうとしているのに気づくと私の方でなく他の方を見ているように描きました。瞳がちょっとでも動くと「今目を描いているところです」と言ったものでした。これでこの方たちはちょっぴり腹を立てたみたいです。お母さんはいつもその場にいました。私はお母さんにはこの秘密を打ち明けていました。ですからお母さんは愉快そうでした。ある日曜日、聖人の日でもありましたが、歌ミサに出たあと、お母さんと継父は私をパレ・ルヴァイアルに散歩に連れ出しました。ここの庭園は当時は広々としてきれいでした。現在とは比べものになりません。今では周囲の家に囲まれて窒息しそうです。左手には広い通りがあり、大きな木のアーチがあり、そのために太陽光線も通らないほどでした。そこに上流階級の人々が身繕いして集まりました。オペラ・ハウスは宮殿のすぐ近くにありました。夏の公演は8時半に終わりました。上品な人々はオペラが終わる前に出て庭を散歩しました。女性は大きな花束を持って歩くのが流行でした。それに香りのよい粉を髪の毛に振りかけていましたから、空気が芳しくなります。革命以前ですが、あとで私は朝の二時まで続いたことを知りました。月明かりでの野外音楽も演奏されました。演奏家と愛好家が歌をうたい、ハープやギターの演奏もありました。有名なサン・ジョルジュもバイオリンを演奏しました。皆がそこに集まってきました。

マドモアゼル・ボクェと私がこの通りにはいるとかならず注目されたものです。私たちは16歳と17歳でした。マドモアゼル・ボクェはすごい美人でした。19歳の時、彼女は天然痘にかかりました。すべての階層の人達が心配したものです。いつも家の前には馬車の行列が出来たほどです。彼女は優れた才能がありながら、ムッシュウ・フィユールと結婚と同時に絵を描くのを止めました。女王が彼女をラ・ムエット城の案内係にしたのです。この可愛らしい女性のを話題にするとき、彼女の恐ろしい最後を思い出してしまいます。私が恐怖の予感がしてフランスを出る前の晩のことです。はっきりとおぼえていますが、マダム・フィユールはこういいました。「出ていくのは間違いよ。私はここに残るわ。革命で私たちが幸せになれると私は信じているもの」でも革命で彼女は断頭台に上ることになったのです。彼女がラ・ムエットを出る前に恐怖政治が始まったのです。ジョゼフ・ヴェルネの娘であり、マダム・フィユールの親友であるマダム・シャルグランがお城にやってきて彼女の娘の結婚を祝いました。―もちろん控えめでした。それでも次の日ジャコバンがマダム・フィユールマダム・シャルグランを逮捕しました。連中が言うには、国家のロウソクを浪費したからです。数日後には二人ともギロチンで処刑されました。

テンプル・ブールバールも人気のある散歩道でした。毎日、とくに木曜日ですが、何百台もの乗り物が道路に集まりました。カフェや見せ物はまだあるようですが。馬に乗った若者たちが馬車のまわりを回りました。ロンシャンでやったように。ロンシャンはすでにありましたし、もっときれいでした。歩道は大勢の歩行者で一杯でした。馬車に乗っている盛装の貴婦人の品定めをしては楽しんだものです。現在カフェ・チュルクが立っている場所ですが、皆が大笑いする見物がありました。マレイ地区の老婦人が一列椅子に腰掛けていました。ほお紅を真っ赤に塗り立ててまるで人形のようでした。当時はほお紅は上流階級にしか認められませんでしたから、彼女たちは精一杯この権利を行使したのです。私の友人の一人が彼女たちのことをよく知っていました。彼女たちの家での仕事といえば、朝から晩まで賭け事をすることでした。彼がある日言ったものです。彼がヴェルサイユから帰ってきたときのことです。彼女たちから何かニュースはないのかと聞かれました。彼が、ムッシュー・ド・ラ・ペルーズが世界を一周したと話すと、女主人が言ったそうです。「まあ!なんて暇な人だろうね。」

結婚してずっと後になってからのことであるが、この大通りで軽いショーを見ました。いつも決まって見に行ったのがカルロ・ペリコの「ファントッチーニ」でした。これは大変愉快でした。マリオネットは上手く作ってあり、仕草も自然ですから、つい錯覚してしまいます。私の娘はもうすぐ6歳になるところでしたが、人形が生きているものと信じておりました。そこで本当のことを教えました。まもなくコメディ・フランセーズに娘を連れて行きました。ボックスが舞台から離れていました。娘は私にたずねました。「お母さん、あの人たちは生きているの?」

コロシアムも流行の行楽地でした。これはシャンゼリゼの大きな広場に円形状に建てられました。中央にはきれいな湖があり、ボート・レースがありました。砂利が敷かれた通りがあり、ベンチが並んでいました。夕暮れには庭園からホールに向かいます。ここにはオーケストラがすばらしい音楽を流していました。この当時、テンプル・ブールバールには夏のヴォウホールと呼ばれた場所がありました。ここの庭は直接は入れる場所でした。その境には上流階級のために設けられた段になった席がありました。暑い日には暗くなる前に人々が集まります。一日は花火で締めくくられました。これらの場所は今日のティヴォリよりずっと人出がありました。チィルリーやルクサンブールしか行けないパリジャンがこれらの行楽地を放棄してしまったのは驚くべきことです。これらの行楽地は半ば都会的で半ば田園的でしたので、夜になると空気を吸いに、氷を食べに出かけたものです。




第2章 名声への階段

大嫌いな継父は皆が私のお母さんを尊敬するものだから当惑したのでしょう。外へ出て散歩してもいいというようになり、田舎に土地を持つと言いました。この話を聞いて大喜びしました。私は田舎が大好きだったからです。私はお母さんのベッドの脚のそばでねていました。暗いところで日の光が全然入らない所です。毎朝、天気にはかまわず、窓を広く開けました。新鮮な空気に飢えていたからです。継父はカイヨに小さな別荘を手に入れました。土曜日にはそこへ出かけ、日曜日をそこで過ごし、月曜の朝にはパリに戻りました。おやまあ!なんという田舎でしょう。小さくてつまらない庭、木一本なくて、熱い太陽を遮るものもなく、木陰があるだけです。彼は豆とキンレンカを植えましたが、育ちませんでした。私たちが使えるのはちゃんとした庭の四分の一だったのです。残りの四分の三は店の売り子に貸してあり、鳥を撃って楽しんでいました。絶え間ない雑音で私はすっかり参ってしまいました。それにこの射撃で殺されるのではないかと思いました。狙いは不正確でしたから。こんな退屈で不細工で、うんざりする所がなぜ「田舎」なのか理解できませんでした。とうとうよき天使が私を助けに来てくれました。お母さんの友人です。彼女はご主人と一緒にカイヨに食事に来ました。こんなところに流された私を不憫に思い、時々馬車に乗せてくれました。

私たちはマルリ・ル・ロアにでかけました。これまでに見たこともない美しい場所がありました。すばらしい宮殿には夏の家が六つあり、ジャスミンやスイカズラで覆われた小径があり、行き来出来るようになっていました。お城の後ろにある丘からは水が滝になって流れていました。水は大きな流れになり白鳥がたくさんいました。美しい樹々、緑の絨毯、花、噴水、一つは水が見えなくなるほど高く舞い上がっていました。それはそれは見事で壮麗でした。すべてルイ14世の偉業を物語るものです。ある朝、私はマリー・アントワネット王妃と出会いました。王妃は女官とご一緒でした。みなさまは白の衣装を身にまとい、若くて美しく夢を見ているようでした。私は母と一緒でした。私が退出しようとしたとき、王妃はご親切にも、私に好きな方に行ってよいと申されました。ああなんと!1802年私がフランスに戻っ た時、この気高く和やかなマルリーに急ぎました。宮殿、樹々、滝、噴水はすべて無くなり、わずかに石が一つ残っていました。この素敵な庭を後にして不愉快なカイヨに戻るのはつらいことでした。結局パリに戻り、冬を過ごしました。制作以外の時間は快適に過ごしました。15歳で私は最高の社交界に出かけました。私は有名な芸術家とはすべてお知りあいでしたから、あらゆる所から招待を受けました。彫刻家のル・モアヌと街で始めて食事をした時のことはよく覚えております。彼は大変評判お高い人でした。有名な俳優ルケンに会ったのもここです。野蛮で薄気味悪い容姿で私は本当に恐くなりました。眉毛が大きくていっそう表情が恐いのです。彼はほとんど口をきかず、ひたすら食べていました。

ル・モアヌ邸では著名な弁護士ゲルビエールと令嬢のマドモアゼル・ド・ロアッシーと知りあいました。彼女は大変きれいで、私が早い時期に肖像画を描いた女性の一人です。優れたパステル画家のグレトリとラトゥールはル・モアヌ邸の晩餐に来ていました。この晩餐は大変楽しい宴会でした。デザートが出てくるときに歌うことになっていました。若い女性の番が回ってきました。このしきたりはたしかに苦痛でした。女性たちは顔色が悪くなり、どきどきしていました。ですから音程を外して歌うことがありました。不調和でしたが、晩餐は楽しく終わり、立ち上がるのが残念でした。現在のように馬車がすぐに来るわけではありませんでしたが。

昨今の晩餐会については風聞以外に語ることは出来ません。今申しました時以降街で食事をするのはきっぱり止めたからです。ちょとした出来事で夜しか出かけなくなったのです。私はロアン・ロシュフォール公女にお食事の招待を受けました。盛装して馬車に乗りこもうとして、朝取りかかった肖像画を見直そうとしました。私はサティンのドレスを着ていました。これが始めてのことです。イーゼルの前の椅子に腰掛けました。椅子の上にパレットが置いてあることに気づきまえんでした。ガウンの状態がこんなになり家にいることにしました。以来私は夜の食事以外には招待をお断りしています。

ロアン・ロシュフォール公女のお食事の会は楽しいものでした。この社交界の中心になったのは、お美しいブリオンヌ伯と令嬢のロレーヌ公女、ド・ショアスール公爵、ド・ローハン枢機卿、「論争」の著者ムッシュウ・ド・ルリエールですが、最高に感じの良い客はなんと言ってもド・ローザン公爵でした。彼より賢くて楽しい人物はいませんでした。彼は皆を魅了しました。夜には演奏や歌がたっぷりありました。私もギターを演奏しながら歌いました。食事は10時半でした。10時とか12時に食卓にいることはありませんでした。みな社交性とユーモアで競い合っていました。私はといえば、ただ話を黙って聞いているだけでした。彼らの会話を充分楽しむには若すぎましたが、普通の話は面白いと思いました。

私の若い頃の人生は珍しいと思います。偉大な画家を思い浮かべるとまだまだでしたが、才能のせいだけで、引っ張りだこになり、世間から歓迎されただけではなく、私は一般の注目の的になることがありました。率直に言ってこれは誇りに思っていました。たとえば、ずっと以前の銅板画を模写して、フルーリ枢機卿やラ・ブルイェールの肖像画を制作しました。フランス・アカデミーに寄贈しました。ダランベールの秘書を通じて賞賛の手紙が届きました。この寄贈でダランベールの訪問を受けることになりました。非常に洗練されたマナーの見本のような人でした。彼は長時間わが家にいましたがその間、彼は私を絶賛しました。彼が帰った直後にある貴婦人が私を訪問しました。彼女はラ・ブルイェールとフルーリを実物を見て描いたのかと訊ねました。私は笑いをこらえて「私はちょっと若すぎますので」と答えました。こんなおかしな質問をする前にあの学者が帰ったのは、彼女にとってはよかったと思いました。

私の継父は引退していましたので、クレリュ街にある、ルベールの邸宅に住むことになりました。ムッシュー・ルブランがこの家を買ったばかりで、独りで住んでいました。私たちがそこに住み始めてから、彼の部屋を埋め尽くしていたあらゆる流派の見事な傑作をつぶさに見ました。大家の作品に直接ふれることが出来る機会に恵まれて大喜びしました。ムッシュー・ルブランは親切にも私の模写のために、最上級の絵を貸してくれました。こうして彼のおかげでひょっとすると今までで一番勉強になったと思われ、非常に感謝しました。6ヶ月経って彼は私に結婚を申し込みました。彼は体格がよくて愛想のいい顔をしていましたが、彼の妻になりたいとは思ってもみませんでした。私は当時20歳で将来に関しては不安を感じたことはありませんでした。私はすでに大金を稼いでいましたから、結婚したいなどと思ってもいませんでした。しかしお母さんは彼が大変裕福だと信じていましたから、何かとこの縁談を受けるように言いました。とうとう私はこの縁談を受けることになりました。継父と同居する苦しみから逃れたいという願望もありました。引退してから彼ますます不機嫌になったからです。これでホットしました。私は教会に行く途中でも「受けようか、断ろうか」と言い続けていましたから。ああ私は結婚を承諾してしまったのです。このために現在の問題と引き替えに新しい問題を抱えることになりました。ムッシュー・ルブランがひどい人であった訳ではありません。彼は誰にも親切でした。一言で言えば、気持ちのいい人でした。彼は物凄い賭博狂で自分と私を破産寸前に追い込んだのです。彼は私の財産を自由にしていました。1789年に私がフランスを出国するとき20フランも無い有様でした。これまで私は百万フランは稼いだのですが。彼は全部使い果たしたのです。

結婚はしばらく秘密にしてありました。ムッシュー・ルブランは絵の大きな取引をしていたオランダ人の娘と結婚すると思われていたのですが、この縁談にケリをつけるまで結婚を秘密にしてくれと言いました。この話には喜んで同意しました。私は旧姓を捨てたくなかったからです。私はこの旧姓で知られていましたから。秘密はいつまでも守られませんでしたが、このことが将来大変なことになりました。私がムッシュー・ルブランとの結婚を考えていると信じていた人が数多くやってきました。そんな愚かなことをするなと忠告しに来ました。王冠職人のオーベルが親身になって忠告してくれました。「ムッシュー・ルブランと結婚するぐらいなら、首に石をつけて皮に身投げした方がいいよ。」ダランベール公爵夫人がマダム・カニラ、ポルトガルの大使夫人マダム・ド・スーザと連れだって忠告しに来ました。夫婦の絆が結ばれて2週間後のことです。「お願いだから、ムッシュー・ルブランとは絶対に結婚しないでね」と伯爵夫人は叫びました。「結婚したら悲惨よ!」とも言いました。幸せな私が信じるわけがない事を一杯言いました。後に真実だったことをいやと言うほど知らされました。結婚を宣言してこの警告も終わりました。でも好きな絵のおかげで警告はいつもの元気には影響がありませんでした。各方面からやってくる注文に応じ切れませんでした。ムッシュー・ルブランは私が受け取った謝礼を着服するようになりました。さらに収入を増やす方法を思いつきました。私は彼の希望に直ちに同意したのです。

私が当時描き上げた肖像画の数は桁外れでした。私は当時流行の女性の服装スタイルが嫌いでしたので、この流行を絵のように美しくさせるように努力しました。モデルの信頼を勝ち取り、私の好みにあった服装を着せては喜んだものです。皆さんはショールを身につけてはいませんでした。幅の広いスカーフを体や腕のまわりに絡ませました。これはラファエロやドメニッキオの美しい衣装をまねたものでした。ギターを弾く私の娘の肖像画がその例です。それにパウダーが我慢できませんでした。私は美しいド・グラモン・カデルッス公爵夫人にパウダーをつけないように説得しました。彼女の髪は真っ黒でした。私は彼女の前髪を分けて乱れ髪にしました。晩餐の時間になりモデルをしおえても、彼女はその髪型を変えず、劇場にそのまま向かいました。これほどの美人ならもちろん流行に合わせるものです。実際このヘア・モードを真似する女性がまもなく現れ、これが普通になりました。想い出されるのは私が王妃の肖像を描いていたときです。パウダーをつけず、前髪を分けてくれるようにお願いしました。王妃は笑いながら「私が流行の最後を行くことになるわね」と言われました。「広い額を隠したかったとは言われたくないけど」

私が述べましたように、私は注文で追われていましたし、人気も大変ありました。結婚してまもなく、私はフランス・アカデミーの会議に出席しました。ラールプが女の才能につて講演をしました。私が始めて聞くような大げさなほめ言葉を話し始め、私の絵を褒め称え、また私の微笑をヴィーナスの微笑みにたとえ、「ウォーリック」の著者は私に視線を向けました。この式典に参列されたシャルトル公爵夫人とスエーデン王含めて、満場が立ち上がり、私の方を向き、熱狂的な拍手をくださいました。私はどぎまぎして卒倒しそうでした。

このような名誉ある喜びも母になることを知った喜びに比べれば比較になりません。わが子の最初の産声を聞いた喜びを書くつもりはありません。母親になった方ならだれでもご存じの感情です。出産前のことですが、私はド・マザラン公爵夫人を描いていました。彼女はもう若くはなかったのでえすが、まだ美しかったのです。ド・マザラン公爵夫人は誕生の時に妖精、富、義務、不幸の三妖精に授かったと言われていました。なにをしても、お友達を持ってもかならずや不運に見舞われるという気の毒な方でした。あらゆる種類の不運の話が広まっていました。ほとんど知られていないことがあります。ある夜のことです。彼女は食卓に巨大なパイを置く計画を立てました。中には小さな鳥が百羽入っていました。公爵夫人の合図でパイが開かれました。鳥が全部羽ばたいて客の顔に当たり、念入りに仕上げた型の髪に止まりました。大騒ぎなったことはご想像がつくでしょう。この鳥たちをどけるわけにはいかず、ついにこのいたずらを感謝しながら食卓を離れなければ行けませんでした。ド・マザラン公爵夫人は太った方でしたのでコルセットをしばるのに大変時間がかかりました。ある日、彼女はコルセットをしばっていたとき、訪問客の到来が告げられました。「あの方のお肉を整えるまでお入りにはなれません」とメイドがさけびました。この太りすぎがトルコの大使たちの賞賛の的になったことを想い出します。オペラでボックスに誰を入れたらよいか訪ねられましたが、彼らはためらうことなくド・マザラン公爵夫人を指さしました。―彼女が一番太っていたからです。

大使の話をすれば、忘れてはいけません。私は大使を二人描きました。二人とも銅のような肌をしていましたが、顔立ちはすばらしかったのです。1788年のことです。皇帝ティッポ・サヒーブがパリに特使を派遣しました。オペラ劇場でこの人たちを見ましたが、絵になると思い、肖像を描きたくなりました。しかし通訳と話をしていましたが、王からの要請がこない以上、描いてもらうわけにはいけないといいました。私はなんとか陛下のお許しを得ました。私は外国人が泊まっているホテルに行きました。彼らが気楽に描いて欲しいというからです。私が到着するや一人がバラ水のジャーを持って来て、私の手に振りかけました。一番背の高いダヴィッチ・カーンが私に着席を勧めてくれました。彼には短剣を手にして立ってもらいました。彼はいつの間にか自分の自然なポーズを取りましたが、私はあえて直しませんでした。別室で油を乾かし、年配の大使の肖像に取りかかりました。彼がむすこと一緒に座っているところを描きました。父親は威厳のある顔つきでした。金の花のついた白のモスリンのゆったりした服を着ていました。白い服は、広い折り返した袖の長いチュニックですが、豪華なベルトで止めてありました。

マダム・ド・ボニュイユに私がこの肖像画について話したところ、彼女は大使たちに会いたがりました。私たちは晩餐に呼ばれ、好奇心からお受けしました。部屋にはいると驚いたことに、食事は床に置いてありました。そこで私たちもオリエントのホストにならって横になるような格好をしなければいけませんでした。お皿の中身を手でつまんでもてないしてくれました。ある皿には羊の足のフリカッセに白いソースが添えてあり、スパイスがきいていました。もうひと皿には何ともいいようがないごたまぜがありました。食事は必ずしも楽しいものではありませんでした。スプーンの代わりに茶色い手が使われるのはショックでした。大使たちは少しばかりフランス語を話す若い男を中に入れました。私が座っている間に、マダム・ド・ボニュイユは歌謡曲を教えました。おいとまするときにはこの若者は習った歌をうたい、さらに「ああ、わが心はなんと悲しいことか!」といいました。大変オリエント的で、この場にぴったりでした。

ダヴィッチ・カーンの肖像画が乾いたので私はそれを送りました。彼はそれをベッドの下に隠し、見せませんでした。絵には魂が要るというのです。策略をもちいてその絵を手に入れました。大使は絵が見つからないので責任を従者に押しつけ、殺すといいました。通訳はパリで従者を殺す習慣はないと説明するのに一苦労でした。彼はさらにフランス王が絵を見たいと言っているとまで言いました。

私が王妃を始めて描いたのは1779年のことです。王妃が若さと美貌の絶頂にあった頃です。マリー・アントワネット王妃は背が高く、体つきがすばらしい方でした。少し太ってみえましたが、太りすぎてはいませんでした。腕はすばらしく、手は小さくて完璧な形でした。足は魅力的でした。王妃はフランスで一番完璧な歩き方をされました。頭をまっすぐに上げて、威厳があり、宮廷の王妃の風格がありました。それでいてこの威厳で彼女の顔の愛らしさを損なうことは決してありませんでした。王妃に会っていない人は彼女の人柄の優雅さと高貴さを結びつけることが出来ないでしょう。彼女の顔立ちはちょっと変わっていました。オーストリア人の特徴である長くて細い卵形の顔立ちを受け継いでいました。目は大きくありません。目の色はほぼ青でした。鼻はすっきりしており、愛らしく、口は大きすぎませんでしたが、唇はちょっと太い方でした。彼女の顔で特筆すべきは、肌の色の素晴らしさでした。こんなにすばらしい肌は見たことがありません。彼女の肌は透明で絵に茶色はいりません。この肌の効果を思うようには描けませんでした。こんな新鮮さ、繊細な色を描く絵の具がなかったのです。これは彼女にしかないものですし、他の女性で見たことはありません。

はじめてモデルになって頂いたときは王妃の堂々たる態度に私は怖じ気づきました。しかし王妃は優しく話しかけられましたので、私の恐怖も消えました。この時でした。私は大きなバスケットを持ち、サティンのドレスを着て、手にバラを一輪持っておられる絵を描きました。この肖像画は王妃の兄の皇帝ヨゼフ2世陛下のために描かれたものです。王妃はそれ以外に2枚の模写を注文されました。一つはロシアの女帝、もう一つはヴェルサイユかフォンテンブローのご自身のお部屋に飾るためでした。

私は王妃の肖像をいくつか描きました。腰から上の肖像を描きました。私は彼女がうすいオレンジ・レッドのドレスを着て、テーブルの前に立ち、花瓶に花を活けている所を描きました。幅の広いフープスカートを着ないで、普段着の彼女を描きたかったのですが、想像して頂けるでしょう。この肖像画をお友達や外国の公使たちにプレゼントしていました。一枚の絵はわらの帽子をかぶって、白のモスリンを着ていました。そではきちんとですが、まくれていました。この作品がサロンに展示されたとき、悪意のある人たちは王妃がシュミーズを着ているところを描いたと評しました。その頃は1786年ですから、彼女に対する中傷が激しかった頃です。それでもこれらの肖像画はたいへん好評でした。

展覧会の最後の頃にボードヴィル劇場で小作品が上演されました。「絵の集会」とかいうタイトルだったかと思います。建築家のブロンニアール夫妻が一階のボックス席をとり、劇の最初の公演で私を呼びました。脚本家は二人には劇の筋を内緒にしていました。私をびっくりさせようという魂胆があるとは思いもよらず、場面に絵を描いているところが登場し、女優が王妃の肖像を描いている私を演じたときの私の気持ちを判断してみてください。同時に普通席やボックス席の全員が私の方を向き、拍手喝采をしたのです。あの晩の私ほど感激し、感謝した人がいるとは思えませんでした。

私は幸運にも王妃とは非常にいい関係にありました。王妃は私がちょっとした声をしていることを耳にしました。肖像画を描くときはグレトリーと二重唱を歌ったものです。彼女自身、歌は上手ではありませんでしたが、音楽が大好きだったからです。彼女の魅力や愛想の良さをここでお伝えするのは困難です。マリー・アントワネット王妃が彼女に拝謁の栄に浴したときは、気持ちのいいお言葉をかけられなかったことはなかったと記憶しています。そしていつも私にキスしてくださったことは、私の思い返してももっともすばらしい想い出です。

肖像画のモデルになる約束をくださいましたが、私がその面会の約束を守れなかったことがあります。突然気分が悪くなったからです。次の日お詫びにヴェルサイユに参上しました。王妃は私が来るとは思ってみえなかったようです。馬車に乗って外出されるところです。宮殿のお庭に入ったとき、私が最初に拝見したのは彼女の馬車でした。しかしその日の当番の侍従たちに話をするために上の階に行きました。侍従の一人ムッシュー・キャンパンがよそよそしく横柄な態度で私に応対しました。そして大きな声で怒鳴りました。「マダム、王妃様はお待ちしていたのは昨日ですよ。陛下は外にお出かけだと思います。本日あなたのためにモデルになるとは思えません!」私が王妃様の他日のご命令をお受けするために来ましたと答えると、彼は王妃のもとに行き、直ちに私を彼女の部屋に案内しました。彼女は化粧を終えられ、本を手にされ、王女が暗唱されるのを聴いておられました。悪いのは私ですから、私の心臓は早鐘のように打ちました。しかし王妃は私を見上げ優しくいわれました。「私は昨日の朝あなたを待っていました。なにかあったのですか?」「陛下まことに申し訳ありません」と私は答えました。「私は昨日患っており、陛下のご命令に添えませんでした。さらにご命令を頂きに参りました。私はそれ次第でただちに退出いたします」「いいえ行かないで」と王妃はいわれました。「何もしないであなたを返すわけにはいけません!」彼女は馬車で外出の命令を取り消され、肖像画のモデルになられました。この優しいお言葉に私が動揺して慌てたものですからうまく対応できず、絵の道具を開けた時に絵筆を床に落としてしまったことを記憶しています。私はかがんで拾い上げようとしました。「かまいませんよ」と王妃は言われ、私がいくら言っても、王妃ご自身で全部拾うと言われました。

王妃が最後にフォンテンブローに行かれた時のことです。盛装であるのが慣行になっていました。私はここに参上してこの光景をみました。私は王妃が大礼服を着ておられるのを拝見しました。全身ダイヤモンドで飾られ、太陽の陽がさすとまばゆいばかりでした。彼女はギリシャ風の首筋をまっすぐにされ、女王の威厳を持って歩かれると、まるでニンフに取り囲まれた女神のようでした。このあとで私が王妃にポーズを取っていただいたとき、私は彼女の印象を述べさせて頂きました。さらに頭を真っ直ぐにされたため、高貴な振る舞いが一段とさえましたと申し上げました。彼女はおどけて「でも私が王妃でなかったら、傲慢だといわれるでしょうね」と言われました。王妃は丁寧で上品な態度でまわりの人々に慕われていましたが、この態度をお子様たちにも必ず教えられました。6歳の王女が農民の娘と食事をさせていましたが、女の子のほしいものを聞きました。王妃はお客さんをまずもてなすように気を配り、「お客様に敬意を表しなさいよ」と王女に言いました。


最後にポーズを取って頂いたのはトリアノンでした。ここで私は彼女がお子様と一緒にいる大きな絵を描きました。彼女の髪を整えました。髪と、皇太子、マダム・ルヴァイヤル、ノルマンディー公の習作をそれぞれ描いた後、非常に重要と考えていた絵に没頭しました。1788年のサロンに出品するためです。この絵は特別の部屋に一つだけ飾られましたが、悪意のある批評が一杯出てきました。「どこから金が出たのだ」と言われました。私には辛い意見が山ほどありました。ついに私は絵を送りました。その後とこの絵の運命を追いかける元気がありませんでした。大衆にまでこのように悪く言われるのは恐かったからです。事実、この驚きで病気になりました。私は部屋に閉じこもり、私の「王の家族」の成功を神に祈りました。そこへ弟とお友達がどっとやってきて絵は大評判だよと言いに来ました。サロン終了後、王はこの絵をヴェルサイユに送りました。王室の美術大臣で、王室の長官であるムッシュー・ダンジェヴィーユが私を陛下に紹介しました。ルイ16世からお言葉を賜りました。王は喜んでおると話されました。さらに私の絵を見ながら、「私は絵のことは分からないが、君のおかげで好きになったよ」と言われました。


この絵はヴェルサイユの一室に置かれました。王妃はこの部屋を通ってミサに出かけ戻りました。1789年の始めに皇太子が亡くなられましたが、この絵を見るたびに彼女の辛い出来事を想い出しては部屋を通るたびに涙を流されました。彼女はムッシュー・ダンジェヴィーユにこの絵を運び出すように命じられました。いつものようなご配慮で、彼女は私にこの絵を外した動機を言われました。私の絵がまだ残っているのは実に王妃の感受性のおかげです。うるさい女どもがヴェルサイユに両陛下を捕まえにきたのはそのすぐ後です。女たちは王妃のベッドを無惨に引きちぎったようにこの絵を壊したことは間違いありません。

ヴェルサイユでの最後の舞踏会以後マリー・アントワネットにお目にかかる栄に浴したことはありません。舞踏会は劇場で行われました。私が座ったボックスは王妃がおっしゃることは聞こえる所にありました。彼女ははしゃいで、宮廷の男性に踊りましょうと言いました。ムッシュー・ラメーのような人にです。彼の家族は王妃の思いやりにたまげました。他の男性はみな遠慮してしまい王妃は舞踏をあきらめました。これらの男性の振る舞いは非常に失礼だと思いました。この遠慮は反乱のように思われました。もっと深刻な反乱の前触れです。革命は近づいていました。事実、まもなく起こったのです。

例外としてダルトア伯の肖像画を私は描いておりませんが、王室の方々を次々に描いております。王家のお子様方、王の弟君、後のルイ18世、マダム・ルヴァイヤル、ダルトア伯夫人マダム・エリザベスを描きました。最後に名前を上げた王女ですが、顔立ちこそ整ってはいませんでしたが、優しくて親しみのある表情でした。新鮮な肌はすばらしく、かわいいらしい羊飼いの娘のような魅力がありました。彼女は善の天使でした。貧しい人達への慈善行為を見かけたことは幾度となくあります。全ての徳を備えた方でした。大革命のとき彼女は英雄的な勇気を示されました。王妃を殺しに来た人食いどもに進んで会いに行かれ、「王妃を私と間違えるでしょう!」と言われました。

王弟様を描いた肖像画のおかげで、ある王子とお知り合いになる機会を得ましたが、彼のユーモアと学識はお世辞抜きで賞賛されるべきものです。ルイ18世と会話する楽しさったらありません。陛下は全ての臣下に同じような趣味と理解力をもって話しかけられます。しかし明らかに話題を変えるためでしょう。ポーズを取りながら、彼は私に向かって歌いかけました。庶民的な歌をうたわれるものですから、宮廷内にどうやってこんな歌が入り込むのか理解に苦しみました。彼よりも音程のはずれた歌をうたう方はいないでしょう。「わしの歌をどう思うかね?」とある日たずねられました。「殿下王者の歌でございます」というのが私の答えでした。王弟の侍従長、ド・モンテスキュー侯爵は六頭立ての見事な馬車を仕立てて、ヴェルサイユに送りむかいしました。私の要請で母も一緒でした。行く途中、窓際に立って私が通るのを見ました。全ての人々が帽子を取りました。六頭立ての馬車と騎馬従者に対する敬意は楽しいものでした。私がパリに戻ったとき、辻馬車に乗りましたが、誰も私に気づく人はありませんでした。

このときド・ランバーユ王女を描きました。美人ではなく、すこし離れると事実美人ではありませんでした。彼女は顔に特徴がなかったのですが、肌は実にまばゆいほど若々しく、金髪の巻き毛はすばらしく、人柄が上品でした。この不運な王女の不幸な最後はよく知られているところです。彼女の忠実さもよく知られていますが、この忠実が仇となりました。1973年彼女は全く安全なトリノにいました。王妃が危険であることを聞き、フランスに戻ったのです。


第2章終わり

第3章 制作と楽しみ

1782年ムッシュー・ルブランは、私と一緒にフランダースに行きました。彼は仕事のことでこの地に呼ばれたのです。シャルル公のすばらしいコレクションの売却がブリュッセルであったからです。二人でそれを見に行きました。私を優しく迎えてくれた女官に会いました。ダランベール公女もみえましたが、私は彼女とパリでお会いしました。ここでお知り合いになれて嬉しかったのはド・リーニュ公でした。この方とはまだお知りあいではありませんでしたが、ユーモアと暖かい人柄で有名でした。私たち二人を彼の部屋に案内してくださいました。ここでいろんな傑作を鑑賞しました。とくにヴァン・ダイクの肖像画とルーベンスの胸像が素敵でした。でもイタリアの絵画はほんの数点でした。彼はご丁寧にも、彼の壮大な邸宅に私たちを招待してくださいました。私が記憶していますのは、彼が私たちを見晴らしのいい展望台に連れてって下さったことです。丘の頂上にあって、彼の領地とその周辺を見渡すことができました。私たちが吸った最高に気分の良い空気と見事な眺めは、それは魅力的なものでした。この素敵な領地で、一番すばらしかったのは、この邸宅の主のご挨拶でしょう。この方の上品な心遣いと、作法は他の人には真似ができないものでした。ブリュッセルの町は繁栄していて活気がありました。上流階級の人たちは人生を楽しむことが大好きで、ド・リーニュ公のお友達は正午にはブリュッセルを出発して、ちょうどカーテンが上がるときにパリのオペラ座に到着し、公演が終わると一晩でブリュッセルに戻ります。オペラ好きとはこういうものです。

私たちはブリュッセルを発ちオランダに行きました。私はサールダムとマースリヒトが気に入りました。この二つの小都市は大変きれいで、手入れが行き届いていますので、誰もが住民をうらやみます。街は非常に狭く、運河が張り巡らされていますので、馬車には乗りませんが、馬や小舟が商品の輸送に利用されます。家は低く、扉が二つあります。誕生の扉と死の扉です。人は棺に入ったときだけ死の扉を通るものです。家の屋根はピカピカに磨かれた鋼鉄の様に光り、輝いいます。何もかもが念入りに手入れされています。私は覚えていますが、鍛冶屋の店の外に、ランプのようなものが吊してありました。金メッキされ、磨かれていて、まるで貴婦人の個室用のランプでした。この地方の女の人は非常に美しく見えました。でも内気で、外国人を見かけると、すぐに走り去りました。しかしながら、この国にフランス人がいたら、この人たちも慣れたと思いました。

私たちは最後にアムステルダムを訪問しました。私は市庁舎でヴァン・ルーが描いた議員の集会の壮大な絵を見ました。信じがたいことですが、この大画面の中に、すべてが細かく、自然に描かれておりました。議員たちは黒い衣装を着ておりました。顔、手、衣装すべてが真似のできない巧みさで仕上げられていました。議員たちは生き生きとして、まるで彼らが私たちと一緒にいるみたいでした。この絵はこの種のものでは完璧なものであると信じました。私はこの絵から離れがたく、この絵の印象は今でも残っています。

私たちはフランドルに戻り、ルーベンスの傑作を見ました。パリよりも、はるかに効果的に展示されていました。フランドルの教会ではすばらしい効果がありました。ルーベンスの作品は個人の部屋に飾ってありました。その一つがアントワープにありました。有名な「麦わら帽子」(*)ですが、最近イギリス人に高額で売却されました。この見事な絵はルーベンスが描いた女の肖像画です。私は嬉しくなり、非常に感銘を受けましたので、同じような効果を出そうと努力し、自画像をブリュッセルで描き上げました。私は、羽と花輪で飾った麦わら帽子をかぶりパレットを手にした自画像(**)を描きました。この自画像はサロンに展示されました。遠慮なく言わせていただきますが、この作品は私の評判を相当高めることになりました。有名なミューラーがこの銅版画を製作しました。銅版画の暗い影がこのような絵の全体的効果を損なっていることはご理解いただけると思います。フランドルから帰って早々に、今申し上げた自画像と他の作品をみて、ジョゼフ・ヴェルネは私を王立美術アカデミーの会員に推挙することにしました。国王の主席画家であるムッシュー・ピエールは強く反対しました。花を美し描くマダム・バライェール・コステルはすでに会員であるが、女を会員にするのは望ましくないといいました。マダム・ヴィアンもすでに会員だったと思います。ムッシュー・ピエールは凡庸な画家でしたが、世才にたけた人でした。それに彼はお金持で、絵描きさんたちを豪華にもてなすことはできました。絵描きは今日ほど裕福ではありませんでした。もし、すべての真の美術愛好家がアカデミーに無関係でしたら、もしムッシュー・ピエールに対立して私を守ってくれなかったら、彼の反対意見は決定的だったでしょう。とうとう私は会員になることを認められ、寓意画を提出しました。

私は必死になって描き続けました、1日に3人の肖像画を描いたこともありました。食後も肖像画を書き続け、疲れ果て胃の調子がおかしくなりました。私は何も消化できず、やせ細ってしまいました。友人たちの勧めで医師に診てもらいました。医者は食後毎日寝るように云いました。この言いつけに従うのは大変ですだが、ブラインドをおろして部屋に閉じこもりました。そのうちに慣れました。私はこの習慣のおかげでこれまで生きてこられたと思っています。休息を強制されて残念だったのは、外で食事をするという楽しみを奪われたことです。私は昼のあいだ描き続けましたので、夜までお友達に会えませんでした。確かに社交界の楽しみは私には無縁でした。私は夜は洗練され、教養ある人たちと過ごしました。

結婚後はクレリュー通りに住んでいました。ムッシュー・ルブランは豪華な家具をそろえた部屋を借り、大画家の絵画を持っていました。私はといえば、小さな控えの間と寝室があるだけでした。それすらも私のアトリエになっていました。この部屋はがわずかな調度品があり、質素な壁紙が張ってあるだけでした。この部屋でお友達や宮廷からのお客様をお迎えしたです。誰もが私の夜のパーティーに来たがりました。人数が多すぎて椅子が足りなくなり、フランスの元帥が床に座ったこともあります。覚えておりますが、ド・ノエユ元帥は高齢の方で、大変太っていましたので、立ち上がるのが大変でした。

もちろんこんな偉大な方々が、私目当てにいらっしゃるといいたいところですが、パーティーのとき他の方に会いたくて来られる方もみえました。ほとんどの方はパリで最高の音楽がお目当てでした。グレトリュ、サッチーニ、マルティーニのような有名な作曲家がオペラの初演前にわが家で曲を披露したものです。

常連の歌手はアスヴェード、リシェール、マダム・トディでした。私の義理の妹は声がよくて、どんな曲でも初見で歌えましたので、大変重宝でした。私が歌うこともありましたが、正直ちゃんとしたものではありませんでした。

ガラーはとびきりの名人といって差し支えないでしょう。彼のような弾力性のある喉の持ち主には難曲というものはありませんでしたし、表現力に関しては彼に匹敵する歌手はいませんでした。グルックを彼ほど見事に歌った人はいないと思います。

バイオリニストのヴィオッティも来てくれがました。優雅で、力強く、表現力があり、うっとりしてしまいます。ヤルノヴィック、マエストリーノ、とてもお上手なアマチュアであられるプロシアのハインリッヒ公もいらっしゃいました。

サレンティンはオーボエを演奏しました。フルマンデルとクレーメルはピアノを演奏しました。マダム・ド・モンジェルーも結婚後一度みえました。彼女は当時、非常に若かったのですが、見事な演奏特に表現力で気難しい私の友達を仰天させました。彼女は正に楽器を歌わせました。マダム・ド・モンジェルーは以後、一流のピアニストでしたし、作曲家としても有名です。

私がコンサートを催していた頃は、趣味と余裕を持って楽しみました。その後何年かして、音楽が一般的になると、グルック派とかピッチーニ派とか呼ばれる人たちの間で深刻な論争が起こりました。愛好家は二派に分れました。戦場となるのはいつもパレ・ルヴァイアルの庭園でした。グルック派とピッチーニ派が互いに暴力的になり、一度ならず決闘沙汰になりました。

常連の女性としては、ド・グロリエール侯爵夫人、マダム・ド・ヴェルダン、ド・サブラン侯爵令嬢、彼女は後にシュヴァリエ・ド・ブフレールと結婚しました。それに、マダム・ル・クトー・ド・モレ ― この四人とも私の親友でした。ド・ルージュ侯爵夫人と友人のマダム・ド・ペゼー、私はこの二人を一枚の絵に描きました。それに、フランス人女性のあるホステスは、私の部屋が狭いので、たまにしか来ていただけませんでした。その他あらゆる国の身分の高い外国人女性が訪問されました。

男性に関しては、ここに書き切れません。この中から最も聡明な方々を夕食会に招待しました。アッベ・デリーユ、詩人ルブラン、シュヴァリエ・ド・ブフレール、セギール子爵およびその他の方々が、この集いをパリで最も楽しい夕食会にしてくださいました。

1日の仕事から解放されて、15人ばかりの人たちがホステスの家に集まり、楽しい夜を過ごした時代をご存知ない方は、どんな社交界がフランスにあったかお分かりにならないと思います。このような軽い夜の食事のくつろぎと楽しさ、これはどんな豪華な晩さん会にもないものです。お客さんの間には信頼と親密があったものです。パリの良き社交界が全ヨーロッパの社交界に勝るのは、このような夕食会なのです。

我が家では、例えば9時ごろに集まります。政治の話をする人は誰もいません。文学を語り、その時々のエピソードを話しました。時にはシャレードで気晴らしをしました。アッベ・デリーユや詩人ルブランが詩を朗読することもありました。10時すぎにはテーブルにつきました。我が家の夕食は質素なものでした。メニューは鳥、魚、野菜、サラダでした。時間は分のように経ち、深夜には解散でした。

自宅で夕食会をするだけではなく、私は時々外の夕食会にもまいりました。ダンスになることもありました。今日のように人出でむせ返るようなことはありませんでした。8人でスクエイア・ダンスをしました。ダンスをしない女性は見物していました。男性はそのうしろに立っていました。私はザクセンの公使ムッシュー・ド・リヴィエールのお宅で夜を過ごすことがありました。ユーモアと品位では傑出した人物でした。

そこで喜劇か軽いオペラを演じました。お嬢さん(私の義理の妹)は歌が上手でした。女優としても通用したでしょう。ムッシュー・ド・リヴィエールの長男は、喜劇役が上手でした。オペラや劇の本職の方にも出ていただきました。マダム・ラルエットは舞台から引退して数年になりますが、われら劇団員を軽蔑しませんでした。彼女はいっしょにオペラに参加しました。彼女の声は依然として若々しいものでした。
私の弟ヴィジーは主役を演じ、好評でした。ようするに、われら全員はいい俳優でした。

タルマがダメでした。こういうと読者はきっと笑わらわれるでしょう。タルマは恋人役を演じましたが、非常にぎこちなくて内気で、彼が偉大な俳優になろうとは誰も思いませんでした。ですから、われらの主役がラリーヴを上回り、ラカンの役を奪うのを見て私は仰天しました。私は他の分野に比べて演劇的才能を完成させるには時間がかかるものだと思いました。

ある夜のことです。詩人ルブランの朗読を聞くために十数人の友人を招待しました。私たちが友人を待っている間に弟が「アナカルシス」の数ページを読んでいました。ギリシャの晩餐に関するところまできました。ソースの作り方の説明でした。「今晩、これをやってみたら」と弟は言いました。私はすぐに調理人を呼んで適切に指示しました。鶏にはあるソース、ウナギには別のソースを作らせることにしました。

非常にきれいな女性たちが来る予定でしたので、私はギリシャの服装をを思いつきました。ムッシュー・ド・ボードレイルとムッシュー・ブータンは10時までは来られないことがわかっていましたので、二人を驚かせてやろうと思いついたのです。私のアトリエにはモデルに着せるもの布地がいっぱいありましたので、衣装の材料には事欠きませんでした。

それにド・クレリュ通りの私たちのマンションに住んでいたド・パロア伯爵は見事なエトルリアの壺の収集家でした。たまたまその晩、彼が私に会いに行きました。私は計画を彼に打ち明けました。彼はたくさんの杯や壺を維持でくれました。私はその中から選びました。私はこれらの品物を自分できれいにして、テーブルクロスを取りマホガニーの食卓に並べました。

次に私はそのうしろに、大きなスクリーンを置きました。一定の間隔の壁掛けでそのスクリーンを隠すためです。これはプーサンの絵にあるようにするためです。ランプはテーブルを照らしました。すべて準備は整いました。あとは私の衣装です。その時ジョゼフ・ヴェルネのお嬢さん。魅力的なマダム・シャルグランが最初に到着しました。私は彼女の手を取り、彼女の髪を整え、彼女の着付けをしました。

次に非常な美人のマダム・ド・ボヌイルが現れました。私の義理の妹であるマダム・ヴィジー、彼女は美人ではありませんが、この上なく美しい眼の持ち主です。これで3人です。3人とも、紛れもないアテネの女に化けました。

ルブランが入ってきました。私たちは彼のパウダーをふき取り、彼のカールを直し月桂樹の冠をかぶせました。ド・クビエーレ侯爵が到着しました。みなが黄金の竪琴にするギターを取り寄せにいかせる間に、私は彼の衣装を担当しました。同じようにマダム・ド・リヴィエールと有名な彫刻家ショーデの衣装も代えました。

時間は過ぎていきます。私自身のことをかまう時間はほとんどありませんでした。でも私はいつもチュニック風のガウンを着ていましたので ― 今ではブラウスと言いますが ― ヴェイルと花輪を頭につければいいのです。私の娘はかわいい女の子でしたが、彼女の衣装には困りました。マダモアゼル・ド・ボヌール現在では、マダム・ルノー・ダンジェルですが、彼女は天使のように愛らしかったのです。二人とも、うっとりするほど美しく、軽い古代の壺を持っていつでも飲み物を注げまう。9時半には準備は終わりました。10時にはド・ヴォードレイル伯爵とブータンの馬車の音が聞こえました。二人の紳士がダイニング・ルームの扉の前に着いたとき、私はドアを開きました。私たちはグルックの合唱曲「パフォスの神」を歌って二人を迎えました。ムッシュー・ド・クビエールが竪琴で伴奏しました。私の生涯でムッシュー・ド・ヴォードレイルとお友達ほど驚いた顔を見たことがありません。二人は驚きかつ喜び、しばらくたったままでとっておいた席に座るのに時間がかかったほどでした。

私が申し上げた2皿以外に、蜂蜜とコリント・レイズンのケーキと野菜2皿を出しました。その夜、キプロス・ワイン一瓶を飲みました。これは私へのプレゼントでした。しかし、これが気晴らしのすべてでした。それでも私たちは長時間テーブルに腰掛けていました。ルブランは彼が翻訳した「アナクレオン頌歌」を朗読してくれました。こんなに楽しい夜を過ごしたことは無いと思いました。ムッシュー・ブータンとムッシュー・ド・ヴォードレイルの二人は感激して、次の日には友人たちにこのもてなしをしゃべりました。

宮廷では、私にこの催しを繰り返してくれるように頼む女性もいました。私は理由をつけてお断りしました。このお断りに傷ついた女性もいたようです。社交界では、私がこの夕食会で2万フランを使ったという噂が広まりました。国王が困惑されてたまたま私の客の一人であったド・クビエール候爵に話されました。彼は非難がばかげていると、国王を納得させることができました。ベルサイユで2万ランの見積もりがローマでは4万フランにふくれ上がりました。ド・ストロガノフ男爵夫人によれば、私はギリシャ風夕食に6万フランを使ったことになっていました。サンクト・ペテルブルグでは金額は8万フランでした。実際は夕食の費用は15フランでした。

私は人畜無害の人間でしたが、敵はいました。革命の数年前、私はムッシュー・ド・ド・カロンヌの肖像画を描き、1785年のサロンに出品しました。私は大臣を座らせ、膝のところまで描きました。マダモアゼル・アルヌールはこれを見て「マダム・ルブランは彼の脚を切ったものですから、彼は外出できません」と言いました。私の絵が原因で、こんな些細な冗談も出たのですが、信じられないようなおぞましい、中傷の的になりました。この肖像画の謝礼について千の作り話が流れました。大臣は紙幣で包んだ砂糖菓子を大量にプレゼントしたという話もあれば、金庫を空にするほどの金額をパイに詰めてプレゼントしたという話もありました。事実はこうです。ムッシュー・ド・ド・カロンヌは20ルイ程度の箱に4000フランを入れて送ってきました。この金額が少ないのに皆さんは驚きました。というのは、以前にムッシュー・ド・ド・ボージョンの同じような肖像画を描きましたが、彼は8000フランを送ってきました。誰もこの謝礼を多すぎるとは思いませんでした。

私はお金のことは気にしたことはなく、お金の価値もほとんど知りませんでした。ド・ラ・ギッシュ伯爵夫人はまだご健在ですが、肖像画を私に依頼しましたが、彼女には1000フラン以上は払えないと打ち明けました。私はムッシュー・ルブランからは2000フラン以下では仕事はしないように言われていると答えました。私の親友たちはムッシュー・ルブランが投資に必要だと言っては、私が稼いだお金をすべて取り上げることを知っていました。私はポケットにも銀行にも6フランしか持っていないことがしばしばありました。私は1788年にハンサムなルボミルスカ公の肖像画を描きました。ルボミルスカ公夫人は1万2000フランを送ってきました。ムッシュー・ルブランに40フランを私にくださいといったのですが、彼はそれさえ持たせてくれませんでした。彼が言うには、約束手形を弁済するために全額必要だと言うのです。

私は何故お金に無頓着かというと、財産は必要のはなかったからです。我が家を楽しくするのに贅沢は必要ではなかったんです。私はいつも質素に生活していました。衣装にはほとんどお金を使いませんでした。私は服装に構わないといって叱られたこともあります。モスリンやローンの白いドレスしか着ていませんでした。ベルサイユで肖像画を描くとき以外はちゃんとしたガウンを着たことはありませんでした。私は自分で髪を結えましたから、髪飾にはお金をかけませんでした。私の肖像画でおわかりでしょうが、私はモスリンの帽子をかぶっていました。

私は気晴らしに劇場に出かけました。パリの劇場には数多くの才能ある俳優がいました。誓って申しあげますが、後を継げる俳優はいません。有名なラカンの演技を完全に見たことを記憶しております。彼の怪物のような醜さは必ずしもすべての役で出ていたわけではありません。彼がオロスマーニュの役を演じていたときのことです。私は舞台の近くで彼を見ました。彼のターバンのせいで、彼はぞっとするほど醜くみえました。私は彼の見事な演技が大好きでしたが、私は恐くなりました。

マドモアゼル・ドゥメスニルは背が低くて醜くかったのですが、彼女の悲劇的な役で観衆を夢中にさせました。マドモアゼル・ドゥメスニルは劇の途中までなんら感銘を与えていませんでしたが、突然彼女は変わりました。仕草、声、表情が悲劇的になり、満場の喝采を浴びました。私は、彼女が舞台に登場する前にワインを1瓶空ける習慣があり、もう一瓶は舞台の袖にとってあると言われていました。

私の記憶に残ってる最も華やかな初登場はディド役のマドモアゼル・ロクールです。当時、彼女は18歳か20歳そこそこでした。彼女の顔、容姿、発声 ― これらすべてが彼女がいずれ完璧な女優になることを示していました。これらの長所に加えて、態度と物腰が上品で、道徳的に潔癖であるという評判でした。そのせいで、彼女は貴婦人たちからもてはやされました。彼女といつも一緒にいる彼女の父親には、宝石、劇場衣装、お金がプレゼントされました。彼女はその後すっかり変わりました。
最後の偉大な悲劇俳優であるタルマは誰よりも優れています。彼の演技は天才的です。彼は演劇に革命をもたらしたとも言われています。まず大げさで、もったいぶった話し方をやめ、自然で、偽りのない話し方にしたことです。次に彼は服装を革新しました。彼がアキレスやブルータスを演じるとき、ギリシア人がローマ人の服装をしました。この点で私は彼に心から感謝するものです。タルマの顔は立派でしたし、表情が非常に豊かでした。彼の演技が激しくなっても、常に威厳がありました。悲劇俳優にとっていちばん大切な資質であると私は思います。彼は善人で、非常に気分の良い人でした。彼は受け答えするとき物静かでした。彼の深い関心を呼び起こすには会話に何かがなければなりませんでした。その時には、彼は傾聴に値する話をしてくれました。特に、演劇に関する話は価値あるものでした。

悲劇よりも喜劇才能があったと思います。私はプレヴィーユを舞台で見る幸運に恵まれました。まさに完璧で真似のできない芸術家でした。彼の演技は巧妙かつ自然で、それでいて楽しいものでした。彼の演技は変化に富んでいました。彼はクリスパン、ソシー、フィガロを次々に演じました。同一人物とは思えないでしょう。彼の喜劇の資源は無尽蔵でした。

ドゥガゾンは彼のユーモラスな役の後継者ですが、観客を笑わせようとするあまり、茶番にさえならなければ、優れた喜劇俳優でしょう。彼は従者の役を見事に演じました。ドゥガゾンは革命のときは悪役を演じました。彼は国王を探しにヴァレンヌまで出かけた男です。ある目撃証人によれば、この男は銃を背負って馬車の扉にいたそうです。考えてもみてください。この男は宮廷で、特にダルトア伯爵に可愛がられた男ですよ。

私はマドモアゼル・コンタの初登場を見ております。彼女は大変愛らしく姿の良い女性でした。でも最初は演技があまりに悪かったものですから、誰も大女優になるとは思ってはいませんでした。ボーマルシェに抜てきで、「フィガロの結婚」のスザンナの役を演じました。いくら愛らしくでもブーイングを免れることはできませんでした。このとき以来、彼女はどんどんうまくなって大女優への道を歩んできました。

偉大な俳優が高齢になり始めると、必ずや今日のフランス演劇界の誇りとなる、若き才能が育ってくるものです。マドモアゼル・マールは当時、若い女の子の役を見事に演じていました。彼女は「非常識な哲学者」でヴィクトリーヌの役を見事に演じました。誰も彼女に匹敵する女優はいませんでした。誰もあのような感動的で真に迫った演技は不可能でした。幸い、容姿と魅力的な声が維持され、マドモアゼル・マールには年齢は関係ありません。観衆も私と同意見であることは拍手でわかるでしょう。

私の記憶では、ソフィー・アルヌールはオペラ座で「カストルとポルックス」に出演し、私も二度聞いたことがあります。彼女は上品で、感性豊かな女性だという記憶があります。歌手としての彼女の能力ですが、当時の音楽が大嫌いでしたので、その点について十分に触れることはできません。マドモアゼル・アルヌールは美人ではありませんでした。彼女の口で顔は台無しでした。彼女の目で賢そうにみえ、これで彼女は有名になりました。彼女の気の利いたおしゃべりが口から口へと伝わり、記事にもなりました。

長い間優れた才能で私たちを楽しませてくれた女性はマドモアゼル・アルヌールの後継者でした。マダム・サントベルティです。歌劇の可能性を知るためには彼女の声を聞くべきです。マダム・サントベルティは声がすばらしいだけではなく、女優としても偉大でした。運命の女神が彼女に、ピッチーニ、サッチーニ、グルックのオペラを歌うように命じられたのです。これらの音楽はすべて美しく、表現力があり、彼女の才能に適したものです。彼女の才能は傑出しており、誠実で,高貴でした。彼女は美人ではありませんでしたが、情熱的な表情は魅力的でした。ダントレイギュ伯爵は容姿端麗で、健康であり、並外れた製の持ち主でした。伯爵は彼女に惹かれ、彼女と結婚しました。革命が勃発すると、二人はロンドンに逃げました。そのロンドンで、ある晩二人は殺されました。犯人も動機も明らかにされていません。

バレーでも同様に才能を持った人々がいました。ガルデルとベステル父が一番でしょう。ベステルは背が高く、堂々としていました。厳粛で、落ち着いた様式のダンスには向いていませんでした。メヌエットの前の会釈で帽子をとり、かぶり直すときの優雅さといったらありませんでした。宮廷の若い女性は宮廷での拝謁の前に礼儀作法のレッスンを受けたものです。ベステル父の後継者となったのは彼の息子です。優雅さと軽やかさを持ち合わせた、後世に残る驚異的な踊り手です。今日の踊り手はピルエットこそ惜しんではいませんが、彼ほど幾度もできないのは確かです。彼はとつぜん見事に宙に舞い、彼には翼があると誰もが思ったでしょう。だから父親のベステルが云いました。「息子が着地するのは仲間への思いやりからです。」

マドモアゼル・ギマールの才能は別のところにありました。彼女の舞踊はスキットにすぎません。彼女はただ短いステップをするだけです。彼女はそれを魅惑的な動きでやってのけました。他の女性ダンサーをさておき、観衆がシュロの葉を彼女に捧げたものです。彼女は背が低く、ほっそりとして、姿の良い女性でした。彼女の容貌にはこれといった特徴はありませんが、舞台に立つと、15歳くらいにしかみえないのです。

私が全演劇人生をご説明できる人の番になりました。オペラ・コミックの最高のタレントであるマダム・ドゥガゾンです。これほどの現実性を舞台上で見たことはありません。この女優は消え、実際のバベ、ダルベール伯爵夫人、あるいはニコレットにその席を譲りました。彼女の声はどちらかというと小さいものでしたが、笑わせ、泣かせるには充分でしたし。あらゆる状況と役柄に充分でした。グレトリとドゥレラは彼女に脚本を書きましたが、彼女に夢中でした。

彼女のようにニーナを演じれる女優はとうとうありませんでした。優雅でかつ情熱的なニーナ、非常に不幸で、感動的でしたので、彼女を見かけるとつい。皆さんは涙を流したものです。マダム・ドゥガゾンは心底王党派でした。革命が進行しているときに、「予知できない出来事」のメイド役の演技で、彼女は聴衆にこのことを示しました。王妃は観劇中でした。従者の「私は心より御主人様を敬愛しています」というデュエットが始まり、マダム・ドゥガゾンが「私がどれだけ奥様を愛しているか」と応える場面で、彼女は王妃のボックスを向き、手を胸に当て、王妃に会釈しながら溶けるような声で歌いました。私が聞いた話では、聴衆は仕返しを考え、当時はやり出していた。恐ろしい歌を歌わせようとしました。マダム・ドゥガゾンは屈しませんでした。彼女は舞台を去りました。

第三章終わり

第4章 亡命

私がフランドルに旅行した年のことです。私はランシーにしばらく滞在しました。ルイ・フィリップの父であるオルレアン公がそこに滞在され、彼の肖像画とマダム・ド・モンテソンの肖像画を描いてくれと言って来られました。その時、私は困ったのですが、思い出してはおもわず笑ってしまいます。マダム・ド・モンテソンがポーズを取っているとき、高齢のド・コンティ公女がある日。彼女に会いに行きました。公女はどうしても私をマドモアゼルと呼びました。高貴な女性が目下のものに向かって、こう呼ぶのは、以前は習慣でしたが。このような宮廷の気取った作法はルイ15世とともに無くなったものです。

有名な田舎の別荘ジェネヴィエールはド・ヴォードルール伯爵が所有していました。彼は非常に気分の良い人でした。ド・ヴォードルール伯爵はタルトア伯爵殿下のために、この土地を購入しました。ここには猟場があったからです。彼は購入して、ここを美しくしました。邸宅の調度は趣味が良く、これ見よがしではありませんでした。この邸内には素敵な小劇場がありました。私の義理の妹、私の弟、ムッシュー・ド・リヴィエールと私は、マダム・ドゥガゾン、ガラー、カイヨー、ラルエットたちといっしょにコミック・オペラを演じました。タルトア伯爵とお友達は私たちの演技をご覧になりました。ジェネヴィエールの小劇場で、最後に演じたのは、コメディー・フランセーズの俳優による「フィガロの結婚」でした。マダム・コンタはスザンヌ役を見事に演じました。会話、詩、その他すべてはこの邸内での出来事にしてありました。この建物は現在でも大部分残っています。ボーマルシェは感激してしまいました。暑いという声があるや、彼は窓を開く時間も惜しんで杖で窓ガラスを割ってしまったのです。

ド・ヴォードルール伯爵は「フィガロの結婚」を後援したことを後悔しました。事実、この上演のすぐ後、ボーマルシェは殿下への接見を申し出ました。申し出が受け入れられるや、伯爵が起きあがったばかりの早い時間にベルサイユに到着しました。この劇作家は彼がもくろんでいた、うまくいけば莫大な金が転がり込んでくる話を持ち出しました。伯爵は黙って聞いていました。ボーマルシェが話しおわると伯爵は答えました。「ムッシュー・ド・ボーマルシェ、君はもう少しいい時間に来れなかったのかね。私は昨晩楽しかったものでね、胃腸の調子はいいし、今日ほど気分の良い日はないよ。君が昨日こんな申し出をしたら、君を窓から放り出しただろう。」

私が訪問したことのある素敵な田舎はヴィレットです。ヴィレット侯爵は素敵とも愛すべきとも呼ばれていましたが、私を招待してくれました。私はそこでに二、三日、過ごしました。たまたま公園のフェンスを塗装している男がいました。この塗装工は非常に機敏に仕事をしていましたので、ムッシュー・ド・ヴィレットは褒めました。応えは、「はい、私はルーベンスが描いた全作品を1日で塗りつぶしてみせますよ」私はサントゥアンで何度かド・ニヴェルネ公爵とお食事をしました。公爵はここに美しい邸宅をもっておられました。彼は非常に楽しい仲間を集めていました。公爵は上品で鋭いユーモアで称賛されていましたが、気取ることなく、優しくて、威厳のある方でした。彼は年齢を問わず女性に非常に礼儀正しいことで知られていました。この点については、詩がド・ヴォードルール伯爵とお知り合いにならなかったとしたら、公爵はほかに例のない方と言っていいと思います。伯爵はド・ニヴェルネ公爵よりずっと若く、洗練された親切に、真心こもった礼儀作法を心得ておられるました。実際上品なくつろぎというか、感じの良い礼儀作法をお伝えするのは非常に難しいことです。これこそが40年前のパリの社交界を魅力的にしたものです。当時は女が社交界を取り仕切っていました。革命がそれを壊しました。ド・ニヴェルネ公爵は非常に小柄で痩せた方でした。私が彼に強いした時には、すでに高齢でしたが、生き生きとしていました。彼は詩が大好きで、魅力的な韻文を書いておられました。

サン・ジェルマンの入り口にある、ド・ノエイユ元帥のすばらしい邸宅で何度かお食事をしたことがあります。当時そこには、見事に手入れされた広大な公園がありました。元帥は非常に社交的な方で、彼の知性とユーモアはお客にも影響しました。彼は高名な文学者やパリや宮廷の著名人から客を選んでいました。

1786年のことですが、私は初めてルヴェシエンヌに出掛け、マダム・デュ・バリーの肖像を描きました。当時彼女は45歳ぐらいだったでしょうか。彼女は背が高かったのですが、高すぎることはありませんでした。彼女は多少丸みを帯びていました。喉ははっきりみえましたが、美しい方でした。顔は依然として魅力的であり、顔立ちは整って上品でした。彼女の髪は乾いた感じでしたが、子供の髪のようにカールしていました。しかし肌は衰えはじめていました。彼女は私を丁寧に迎えてくれました。行儀のいい方とお見受けしましたが、心はのびのびとした方だと思いました。彼女は長い目を完全に開かないものですから、生めかしい眼つきでした。彼女の声は子供っぽく、年齢にはそぐわないものでした。

彼女は私を建物の一室に泊めてくれましたが、絶え間ない騒音で悩まされました。私の部屋の下に美術品が陳列されていました。この部屋は手入れされず、胸像、壺、頭、珍しい大理石、その他高価な品々が雑然と展示されていました。これら贅沢のなごりと対照的なのは、彼女の簡素な服装と生活ぶりです。冬も夏も天気に関係なくマダム・デュ・バリーは綿か白のモスリンの服を着ていました。彼女は、公園の内か外を散歩していましたが、別段何事もありませんでした。この田舎での生活が、彼女を丈夫にしたのでしょう。長い間彼女をとりまいていた、数々のへつらいとも縁を切って生活していました。夜になると、マダム・デュ・バリーと私の二人だけが炉端にいました。彼女はルイ15世と宮廷について私に話をしました。彼女は話だけではなく行動により価値ある女性であることを示していました。彼女はルヴェシエンヌでは慈善活動をし、貧乏人を助けていました。食事が終わると、豪華で、趣味の良い華麗なな装飾で有名なあのパヴィリオンで、コーヒーを飲みました。マダム・デュ・バリーが初めて私を案内してくれたとき、彼女は言いました。「光栄にもルイ15世陛下が食事にお出ましになったのはここです。食事中歌手や演奏家のためのバルコニーが上にありました」

マダム・デュ・バリーが恐怖政治以前にイギリスにいったときのことです。彼女は盗まれたダイヤモンドを取り戻しにたのです。彼女は取り戻しました。イギリス人は彼女を暖かく迎えました。彼らは何とかして彼女をフランスにだけは戻さないように努力しました。しかしながら、お金を持っている人は誰でもそうですが、まもなく彼女を待ち受けていた運命に屈することになりました。彼女はザモレという名の黒人に裏切られ、密告されました。この男のことは、あらゆる回想録に書かれていますが、彼女やルイ15世にたいそう可愛がられたのです。逮捕、投獄され、マダム・デュ・バリーは裁判にかけられ、1793年の終わりに革命法廷で死刑の判決を受けました。この恐るべき日々に多くの人々が消えて行きましたが、彼女だけが毅然として処刑台に上れなかった女性です。彼女は泣き叫び、周囲のいやらしい群衆に助命を乞いました。群衆が非常に動揺しましたので、処刑者は急いで役目をすましました。このことで私の信念を強めることになりました。すなわち、この忌まわしい記憶の時期の犠牲者が誇りを持って毅然として死んでいったものだから、恐怖政治は早く終結しなかったのです。

私はマダム・デュ・バリーの肖像画を3枚描きました。まず最初に麦わら帽子をかぶったガウン姿の半身像を描きました。二番目の肖像画では、彼女は白いサティンを着て花輪を手にし、一方の手を台座にもたせかけていました。マダム・デュ・バリーの三番目の肖像画は私が持っております。私が描き始めたのは1789年9月の中旬でした。ルブシエンヌでは、遠くの方で銃声が聞こえました。彼女は悲しそうに「ルイ15世がご存命だったら。こんなことはなかったでしょうに」と言いました。私は顔を描き、手と体の輪郭は描きましたが、パリに行かなければならなくなりました。ルブシエンヌに戻り、仕上げたかったのですがベルティエとフロンが殺されたと聞きました。

私はもう震え上がってフランスを出ることにしか考えていませんでした。恐るべき1789年の年の瀬も押しつまっていました。上流階級の人々はすべて恐怖にとりつかれていました。今でもしっかり覚えていますが、私がお友達をコンサートに家に招待した夜のことです。到着した人々のほとんどが仰天して部屋に入ってきました。彼らはその朝ロンシャンに歩いて行ったのですが、エトアール門に集まった群衆が馬車でいく人たちに恐ろしい剣幕で罵声を浴びせたというのです。馬車の踏み台によじ登って「来年にはお前たちは馬車の後に付いてくるさ、俺達が馬車に乗るのだ」と叫んだ悪党もいたそうです。

私はといえば、詳しいニュースを聞かなくてもどんな恐ろしいことが起こるか予測出来ました。私が三カ月前に引っ越したばかりのグロ・シェネ通りの家は悪党どもに狙われていること明らかでした。連中は硫黄を空気口から地下室に投げ込むいました。もしこれが私の窓際でしたら、この無法者たちは私にこぶしを振り上げていたことでしょう。いやな噂が各方面から山ほど私の耳に届きました。

事実私の生活といえば、不安と悲しみの連続でした。私の健康はすぐに影響されました。私の親友建築家ブロンニアール夫妻が私の家にやってきました。私がやつれはてているので、二、三日彼らの家に来て養生しないかと言ってくれました。私はこの好意をありがたお受けました。ブロンニアールはアンヴァリッドに部屋を借りて、そこで私はパレ・ルヴァイヤルの典医の指示を受けました。彼の使用人はオルレアンの制服を着ていました。これが当時の唯一の制服でした。ここで私は最善の治療を受けました。私が食べられるようになると、私は上等のブルゴーニュ・ワインとスープで栄養をとりました。マダム・ブロンニアールはいつも付き添ってくれました。お二人は私の暗い見方を少し直すように配慮してくれたおかげで、私は少し落ちつきました。それでも私の悪い予感を振り払うことはできませんでした。「生きていて、何の意味があるの?養生して何の意味があるの?」と私は、お二人にたずねました。私の将来を支配する恐怖で、人生がおぞましいと思えたからです。確かにいくら想像してみても、今後犯される犯罪のほんの一部しか予想できなかったということです。

ブロンニアールの家で当時アンヴァリッドの所長をしておられた、ムッシュー・ド・ソンブリュール閣下といっしょに食事をしたことがあります。彼が予備に所持していた武器を押収しようとする試みがあるという話が出ました。「しかしわしは絶対に見つけられないところに隠してある」といいました。このお人好しの人物は自分以外に誰も信用できないとは思わなかったのです。その武器が押収されたところを見ると、彼が雇っている使用人の誰かが彼を裏切ったのです。

ムッシュー・ド・ソンブリュールは彼の軍事的才能のみならず、徳のある方で有名でした。彼は9月2日に独居房で殺される囚人の一人でした。殺人者たちは彼の勇敢な娘の涙ながらの嘆願に命を助けることにしました。しかし、悪逆非道な連中は助命と引き換えにマドモアゼル・ド・ソンブリュールに牢獄の前に流れていた血を飲むことを強要しました。その後長い間赤いものを見ただけで、この令嬢は激しく嘔吐しました。数年後(1794年)ムッシュー・ド・ソンブリュールは革命法廷により、断頭台に送られました。

私はフランスを離れる決心をしました。ここ数年間、私はローマに行きたいと思っていました。しかし私が約束した肖像画の数が多すぎて、この計画を実行できなかったのです。しかし私はもう描くことができなくなりました。恐怖におびえ、絵を描く元気をなくしたのです。さらに、誹謗中傷が私の友人たち、知人、私自身にも降り注ぎました。私は神様もご存知の通り生きてる人を傷つけたことなど一度もありませんのに。「私はノートルダムの塔はちゃんと立っているのに、塔を盗んだといわれている。でも有罪と言われたから、私はあの世に行くことになるのさ」と言った男の気持ちで考えていました。私は描きかけた肖像画を置いてきました。その中にはマドモアゼル・ド・コンタの肖像画がありました。同時に、私はマドモアゼル・ド・ラボルド(後のノアイユ公爵夫人)の肖像はお父さんが彼女を連れてきましたが、お断りいたしました。彼女はようやく16歳になったばかりで、非常にかわいらしいお嬢さんでした。しかしもはやお金の問題ではありません。人の首を救うのかどうかの問題です。私は荷物を積み、パスポートの準備もでき、次の日には娘と家庭教師とともに家を出る予定でした。その時です。共和国護衛兵の一団がマスケット銃を持った私の部屋になだれ込んできました。彼らは飲んだくれて、みすぼらしく、悪い人相をしていました。数人がやってきて、実に下品な言葉遣いで私に行ってはならぬ、そこでおれと言いました。誰もが自由に行動する権利があるから。私もその権利を行使しますと答えました。連中は私の言うことを聞こうともせず、ただ「行ってはならぬ、市民、行ってはならぬ!」と繰り返すだけです。とうとう連中は出て行きました。そのうち二人が戻ってきたとき、私は不安のどん底に突き落とされました。

この二人は悪党のな仲間でしたが、二人は脅しはしませんでした。二人が私に危害を加えるつもりは無いことが分かりました。「マダム」と一人が云いました。「我々は隣人だから、忠告しにきたのです。出来るだけ早くここを立ち去りなさい。あなたはここにはもう住めない。あなたが気の毒だとは思います。しかし、馬車で行ってはいけない。駅馬車でいきなさい。ずっと安全です。」私は心から二人に感謝し、忠告に従いました。同時五、六歳だった娘を連れて行きたかったので、席を三つ予約しました。しかし、2週間たつまでは娘と家庭教師の身の安全は確信できませんでした。亡命した人は皆駅馬車に乗ったからです。ついにその日がやってきたのです。

10月5日のことでした。王と王妃がパイクに取り囲まれて、ベルサイユからパリに連れてこられました。その日の出来事で、両陛下と高貴な方々の運命が心配で仕方がありませんでした。深夜心は乱れながらも、私は駅馬車に向かいました。私はフォブール・サントアーヌの検問が不安でしたが、なんとかバリエール・ド・トローヌに到着できたのです。弟と主人は駅馬車の扉から離れずに、この門まで付きそってくれました。私が不安だった郊外は全く静かでした。住民や職人その他は国王の家族を捕えにベルサイユに行き、疲れ切って眠ていたのです。

駅馬車の向かい側には薄汚い男が一人いました。疫病のような嫌な匂いがしました。この男は平気で時計その他を盗んで来たことを話しました。幸いなことに欲しくなるようなものが私には無いとみました。私は衣類をほんのちょっぴりと80ルイを持っているだけでした。私の重要な資産や宝石はパリに置いてきました。私の苦労の成果は私の主人が握っており、彼は全部使い果たしてしまいました。私は外国ではの収入だけで生活していきました。

彼の手柄を話すだけでは満足できず、ひっきりなしに有名人を並べたて、私の知人の名前も数多くしゃべりました。娘はこの男が悪い男だと思い、怖がってしまいました。そこで私は勇気をふるって「お願いですから、子供の前では人殺しの話はしないでください」といいました。これで彼は黙まりました。そして娘と戦争ごっこを始めました。私が座っていた座席にはグルノーブルからやってきた狂ったジャコバンが座っていました。50歳くらいでしょうか、顔色の悪い男で、食事のために宿屋で馬車を降りるたびに非常に恐ろしい話を乱暴な調子でしゃべりました。すべての町では、群衆がパリのニュースを知ろうと駅馬車をとめました。「諸君、すべて順調だ!パン屋とおかみさんはパリでは大丈夫だよ。新しい憲法が作成されることになる。連中は受け入れざるを得ないはずだ。そうなれば、すべて終わりだ。」この男をまるで賢者であるかのように信用しているバカがいっぱいいました。あれやこれやで私の旅は憂鬱でした。私自身にはもう恐怖はありませんでした。しかし、私は他の人々のことが心配でした ― 母、弟、私のお友達。私は両陛下のことが大変心配でした。旅行中ずっと、リオンまで来ても、馬に乗った男たちが駅馬車に近づいてきては、王と王妃が殺され、パリは燃えていると話しました。かわいそうに、私の娘は震え上がりました。この娘はお父さんが死に、家が焼け落ちだと思ったのです。彼女を慰めたと思ったら、さらにもう一人の男が現われ、同じ話をしました。

ボーボアザン橋を渡り切ったときの私の気持ちを表すことはできません。これで自由に息をすることができるのです。私はフランスを後にしました。フランスは私の生まれた国です。この国を出てこんなにホットする自分を責めたものです。山々の景色のおかげで、私の悲しい心は慰められました。私はこんなに高い山をかって見たことがありません。サヴォイの山々は、天にも届きそうで、まるで水蒸気と混じり合うようです。私の最初の感動は怖れに近いものでした。知らず知らずに、この光景に慣れ、ついにはこの風景に見とれました。道中の一部で、私はうっとりしました。「タイタンの壁」を眺めているようでした。以後ずっと私はそう呼んでいます。この美しさを満喫しようとして私は馬車からおりましだ。ほんの少し歩いた所で、私は仰天しました。キャノン千発分の威力のある火薬の爆発があったからです。岩から岩へとこだまして、まるで地獄のようです。

私は他の人たちと一緒に、モン・スニ峠にのぼりました。左馬騎手が近づいてきて「奥様はラバに乗った方が良いですよ。歩いて登るのはすごく疲れます」と言いました。私はいつも働いてますから、歩くのには慣れていますと答えると「あはは」という笑いが戻ってきました。「奥様は働いておりません。奥様が誰かみんな知っています。」「じゃあ私は誰なの?」と私は尋ねました。「あなたは絵がお上手なマダム・ルブランです。一同、あなたを無事にお届けできて喜んでおります。」この男がどうして私の名前を知ったのか敢えて憶測しませんでした。ジャコバンが数多くのスパイを持っていたかという証拠です。幸運にも私もう彼らを恐れる必要はなくなりました。

ローマに到着すると同時に、私はフィレンツェの画廊のために自画像を描きました。私はパレットを手にして、キャンパスの前にいる自分を描きました。キャンパスには王妃の姿が白いクレヨンで描いてありました。その後でミス・ピットを描きました。彼女は16歳で、非常にきれいでした。私は彼女をヘベの姿で描きました。雲の上でゴブレットを手にしています。一羽の鷲がゴブレットから飲もうとしています。私は実物の鷲を描きました。私は食べられるのではないかと思いました。ド・ベルニ枢機卿の飼っていた鷲です。このいやな猛禽は、中庭で鎖につながれ屋外に慣れていましたので、部屋の中で私を見ると、怒り狂いは私に飛びかかろうとしました。私は確かに恐い思いをしました。

このころ私はポーランドのポトシュカ伯爵夫人を描きました。彼女は夫と一緒にやってきました。彼女の夫が帰った後、冷静に話しました「あの人は私の三番目の夫ですが、最初の夫を戻すことを今考えています。その人は大酒飲みですが、私には合っていると思います。私はこのポーランドの女性を非常に絵画的に描きました。背景には苔むした優雅があり、水が流れ落ちていました。

ローマに住む楽しみが唯一、愛する国、家族、友人たちを後にした私を慰めてくれました。制作によってローマ市中や郊外を散歩する楽しみを奪われることはありませんでした。私はおしゃべりや質問で楽しみを台無しにされたくないのでいつも一人で宮殿に行き、そこで展示されている、絵画や彫像を見ました。
宮殿はすべて外国人に解放されていました。偉大なローマの貴族たちの親切に非常に感謝しました。一生涯、宮殿や教会で、人生を過ごすことも可能です。信じられないようですが真実です。教会には絵画や途方もない記念碑のすごい宝物がありました。サン・ピエトロの宝物はこの点でよく知られています。建築物に関して、いちばん見事な教会はサン・パオロです。その内部は両側の柱が並んでいます。
レント期間中のローマを見なければ、カトリック教会の偉大な力が分からないでしょう。イースターの日には私はサン・ピエトロ寺院の広場に出かけ、法王が祝福されるの見に参りました。これほど厳粛なものはありません。広大な広場は朝早くから農民や町の住民で埋め尽くされました。じつにいろいろな衣装を着ております。華やかで、色とりどりです。それに数多くの巡礼者もいました。彼らは広場の中央にあるオリエントの花コウ岩のオベリスクのようにじっと立っていました。10時に法王様は全身白い装束で冠をかぶり到着されました。法王様は教会の外の中央の台の上にある、見事な高いビロードの玉座に腰かけられました。枢機卿たちは綺麗な衣装を着て、法王様の周りにいました。彼の健康そうな顔つきからは年齢による疲労は見受けられませんでした。法王様の手は白くてふっくらしておりました。法王様はひざまずいて、祈りを捧げました。その後立ち上がり法王様は"Urbi et Orbi."と言われて祝福をくださいました。そしてまるで電気に打たれたように信徒、外国人、衛兵、その他一同はひざまずきました。その間大砲の音が鳴り引き、この場は一層厳粛になり、動けなくなりました。

祝福を与えられると、枢機卿たちは大量の紙を回廊からまきました。私が聞くところによればこれらは免罪符であるとのことです。みんなが手をのばして、それを取ろうとしました。押し合いへし合いして群衆が熱狂する様を言い表す言葉はありません。法王様が退出されるとき、軍楽隊はファンファーレを鳴らし、衛兵隊は太鼓を打ち鳴らして行進しました。夜になると、サンピエトロ寺院のドームには明かりがつけられました。まず彩色されたガラスを通して光がともされ、次に華麗な白い明かりがともされました。なんと速くこの変化が効果的であるのでしょう。想像もつかないことです。しかしこの光景は珍しいばかりでなく、美しいものでした。サンタンジェロのお城から豪華な花火が打ち上げられました。火薬や火の風船が空に舞い上がりました。最後の仕掛けはこの種のものでは最も華麗でした。このすばらしい花火はティべール川に写り効果を倍化させました。

ローマでは、あらゆるものが素敵でした。大邸宅には哀れなランプはありませんでした。各邸宅には大きな燭台があり、そこから巨大な炎が燃え上がりローマ市のすべてを昼のように明るくしました。この贅沢な照明で、外国人がびっくりするのはローマの市街はマドンナの前で燃えるランプで照らされていることです。

外国人にはカーニバルよりも聖週間の方が魅力的です。私もカーニバルには驚きませんでした。仮面をつけた人たちが幾重にも並んでいました。ハーレキンやプルチネロに変装していました。パリで見かけるのと同じです。違いはローマでは騒動を起こさないことです。一人の若い男がフランスふうの格好をして街を歩いていました。彼はフランスの伊達男をそっくり真似ようとしていましたが、私たちはすぐばれてしまいました。馬車や荷馬車が詰めかけて派手な衣装をした人たちで一杯になりました。今は羽やリボンや鈴をつけていました。召使いたちはスカラムッシューがハーレキンの格好をしていました。しかし全員非常に静かに去っていきました。最後に夕方になると、大砲が鳴り響き、競馬の開始をつけます。これで各気づきます。

上流階級の人なら持っている資産を全て無くしたとしても、ローマほど楽しく夜を過ごせる都市は世界中にありません。城壁の中を散歩するのは楽しみです。コロセウム、キャピトル、パンテオン、柱廊のあるサンピエトロの広場、見事なオベリスク、それに愛らしい噴水には太陽が虹を作ってくれます。陽が沈むころと月の光に照らされると広場は、とても印象的です。用事があるときもないときも、ここを通るときはいつも楽しい思いをしました。

私がローマで非常に驚いたことがあります。日曜日の朝、最下級の女たちが贅沢に飾りたてていました。飾りを身に付け、耳には人造ダイヤモンドの星の耳飾をつけていました。この衣装で彼女らは教会に行くのです。家の者が後に付いていくことがあります。たいていは夫です。夫の職業といえばたいていは召使いです。女たちは家では何もしません。仕事がないので、彼らは非常に貧しいのです。彼女たちはローマ市中の窓で見かけます。花や羽を頭に飾り、顔を化粧しています。彼女たちの衣装の上は見ることができます。衣装は非常に贅沢なもんです。ところが彼女たちの部屋に入るとびっくりします。彼女たちには汚いペチコートしかないのです。私が申し上げたローマの女性たちは貴族の役を演じることができます。ヴィラに出かける季節には、彼女たちは注意してシャッターをおろします。田舎へ出かけたと思い込みたいのです。

ローマの女性はすべて短剣を持って歩く習慣があることを知りました。貴婦人がものを持って歩くとは信じられませんでしたが、風景画家デニスのところに私は間借りをしてましたが、奥さんはローマの女性でしたが、彼女が持って歩いている短剣を私に見せでくれました。男性はといえば、必ず持っています。それがもとで、深刻な悲劇が起こることがあります。私が到着して3日後の晩のことです。街で叫び声を聞き、その後で騒動がありました。私は人をやって何事かを知ろうとしました。男はもう一人を短剣で殺したというのです。この特異な習慣で私はとても怖くなりました。外国人はこわがることはないと言われました。これはたんにイタリア人同士の復讐の問題にすぎないとも言われました。この場合に関して言えば、殺人者と犠牲者は10年前に争いごとをしており、敵を見つけ、直ちに短剣で刺し殺したのだという話でした。イタリア人はずいぶん長い間、怨みより抱き続けていることの証拠です。

上流階級の習慣はそれより穏健であることは確かです。上流階級はヨーロッパ中ほとんど同じだからです。しかしながら、私は絵画以外には何の判断力も持ち合わせていない女ですし、私にはいろんなパーティーの招待がありました。私はローマの貴族の夫人とお知り合いになる余裕はありませんでした。これはフランス人の仲間を求めていた他の亡命者たちも同様でした。1789年と1790年にはローマはフランスの亡命者たちで溢れかえりました。私のほとんど知っていましたので、すぐに友達ができました。ジョゼフ・ド・モナコ公女とフルーリ公爵夫人、それに貴族の方々が到着されるのを見ました。ジョゼフ・ド・モナコ公女は、顔が魅力的で、人柄も優しく魅力的な方でした。彼女にとって不幸なことでしたが、彼女はローマにとどまりませんでした。彼女の子供達に残されたわずかの資産のためにパリに戻りました。彼女は恐怖政治のときにパリにいました。投獄され、死刑の判決を受け、断頭台に上りました。

多くの人たちがローマに到着して、多くのお知らせを受け、毎日泣いたり笑ったりしました。たいていは悲しい話でしたが、たまにはうれしい話もありました。たとえばこんな話です。私が国を出てすぐ後ですが、国王はご自身の肖像を描いてもらうように言われました。国王は「いや私はマダム・ルブランが帰るのを待っている。王妃の肖像にマッチするような私の肖像を彼女に描いてもらいたいのだ。ムッシュー・ド・ラ・ペルーズに世界一周の指令を出しているところを、全身像で描いて欲しいのだ」とお答えになったそうです。

第四章終わり

第5章 ナポリの日々

私はローマに約8カ月いました。外国人はみな、ナポリに行くのを見て、私もナポリに行きたい気持ちになりました。私はベルニ枢機卿にこの話を打ち明けました。彼は、ボルテールの姪のマダム・ドゥニの夫であるムッシュー・ドゥヴィーエールがナポリに行こうと言っており、私が一緒であれば喜ぶはずだと私に言いました。ムッシュー・ドゥヴィーエールは私に会いに来て、枢機卿と全く同じ話をし、私と娘の世話をすると約束してくれました。さらに、彼は馬車にコンロのようなものを積んでおり、鶏の料理もできるということでした。テラチナのいちばんいい宿屋でも出てくる食事は非常に悪いので、このコンロは便利だと言うのです。これは大変いい話だと思いました。彼の話は私にはうれしいものでした。私は、この紳士といっしょに旅立ちました。場所は非常に大きくて、娘と家庭教師は前に座り、中央にもう一つ座席がありました。大男の召使いが私の前に座っていて、彼の背中が私に触るものですから、私は鼻を手で抑えでいました。私は旅行中に話をする習慣がないので、会話はただ、ほんのわずかの言葉をかわすだけでした。ポンティノ湿原を覚えようとしたときです。運河の縁に羊飼いの娘を見ました。羊はところどころに花が咲いている牧場を通り過ぎようとしていました。海とキルケ岬がみえました。私は「なんという美しい絵でしょう!」と旅の道連れに言いました。「羊飼い、羊、牧場、それに海」 彼は「この羊は薄汚い」、「羊はイギリスで見るべきですよ」と答えました。さらにテラチナ街道に沿って、小さな顔をボートでわたるところに行きました。左手を見ると夕日が照らす雲に包まれたアペニン山脈がみえました。私はついに大声で美しい雲を賛美しました。私の楽天的な友達は「雲が出ているということは、明日は雨だろうな」と言いました。

私たちがナポリに到着したのは、三時か四時でした。この町に入ったときの私の受けた印象は言葉では言い表せません。もえる太陽、広々とした海、僕に見える島ヴェスビアス火山から立ち上る煙の柱。人なつこくて騒がしい人々、ローマ人とはまるで違い、だれしも二つの都市は1000マイルも離れていると思うことでしょう。

私が海辺のチアヤに家を借りました。向う側にはカプリ島があります。私はこの環境に喜びました。私が落ち着くとすぐに私の家の隣に住んでいたロシアのナポリ大使スカヴロンスカ伯爵が使者をよこして、私の健康をたずね、上等な食事を運んでくれました。私はこのお心づかいに大変感謝しました。台所の準備ができるまでに時間がかかり、私は空腹で死にそうでした。その夜、伯爵にお礼を言いに参りました。こうして私は彼の魅力的な奥さんと知り合いになりました。

スカヴロンスカ伯爵は上品で整った顔の方でした。彼は健康上の理由で青白い肌をしていました。それでも彼は社交的でしたし、上品で知的な会話をされました。伯爵夫人は優しくて天使のように愛らしい方でした。かの有名なポチョムキンは彼女の伯父にあたり、彼女に財産をたっぷり持参させました。でも彼女に無用だったのです。彼女は黒いマントを着て、コルセットはめずに寝椅子で横になっているのは幸せだったのです。彼女の義理の母がパリからマリー・アントワネット王妃のドレス・デザイナーであるマドモアゼル・ベルタンの豪華な衣装一箱を送ってきました。信じられないことですが。伯爵夫人は箱を一つも開けたことはありません。彼女の義理の母が箱に入れてある美しいガウンや頭飾を着したところを見たいと言っても、彼女には関心がなく「何のために?なぜ?」と答えるだけでした。彼女は私に宝石箱を見せてくれましたが、そのときの返事も同じでした。宝石箱の中にはポチョムキンから贈られた大きなダイヤモンドが入っていました。でも私は彼女が身に付けているところを見たことがありません。私の記憶では、彼女は眠るとき、奴隷をベッドの下に置い、毎晩同じ話をさせるということでした。。彼女は1日中、何もしないで過ごしており、教養もありませんでした。彼女の話は全く無内容でした。にもかかわらず、彼女の愛らしい顔と天使のようなやさしさのおかげで、彼女は魅力的でありました。

スカヴロンスカ伯爵は誰よりも彼の妻の肖像を私に描いてくれと頼むました。私は同意し、到着2日後に描き始めました。第1回目のポーズの後のことです。イギリスのナポリ大使、サー・ウィリアム・ハミルトンがナポリでの最初の肖像画はぜひとも私に紹介してくれた素敵な女性の肖像画にしてくれないかと頼みに来ました。それがマダム・ハルテでした。まもなくレディ・ハミルトンになりました。私の愛すべき隣人との約束の後でしたから、スカヴロンスカ伯爵夫人の肖像画が順調に出来上がっていくまでは、他の肖像画を手掛けることはできませんでした。それから私はマダム・ハルテを海辺に横たわり、ゴブレットを手にしたバッカスの女として描きました。彼女の美しい顔は非常に生き生きとして伯爵夫人とは対照的でした。彼女の栗色の髪は豊かで上半身を覆えるくらいでしたから、髪の毛をなびかせたバッカスの女としての彼女は見とれてしまいます。

レディ・ハミルトンの生涯は小説です。彼女の旧姓はエンマ・ライアンでした。聞くところによれば、彼女のお母さんは貧乏な召使いでした。彼女の生まれた場所についても意見が分かれているようです。ハワーデンの正直な町の人のところに奉公に出ましたが、退屈な生活に飽きてしまいました。ロンドンにいけばもっと快適な生活ができると信じ、ロンドンに出ました。イギリスの皇太子殿下が私に話したところによれば、殿下は、彼女が木靴を履いて、果物の露天に立っているのを見かけたそうです。さらに、衣装はお粗末でしたが、彼女の綺麗な顔で注目を引いていたということです。ある店の店主が彼女を雇ったのですが、すぐに出て行き、上流階級の貴婦人-大変尊敬すべき女性 ― のメイドになりました。この家で、彼女は小説や演劇に興味を持ちました。彼女は俳優の仕草や声音を真似しました。そして大変上手になりました。この才能は彼女の女主人の気に入ることはなく、彼女は首になりました。描きたちがいつもたむろしている食堂の話を聞き、そこに行き、職を得ようとしました。彼女がいちばん美しかった頃です。

彼女はひょんなことから、この穴から抜け出すことができました。グレアム医師が彼女にヴェールをかぶせ、女神ヒュギエア(健康の女神)として、病院に飾ったのです。好奇心の強い人々がたくさんやってきて、彼女に会いたがりました。絵描きたちは特に喜びました。この展示をまもなく、ある絵かきが彼女をモデルにしました。彼女は優美にポーズを取り、彼はそれを絵にしました。彼女では、このその才能があり、それで彼女が有名になりました。レディ・ハミルトンにしてみれば悲しい顔も嬉しい顔をするのはたやすいことでした。さらに、いろんな人の役を演ずるのも彼女には何でもありませんでした。彼女の輝く目、波打つ髪で、彼女は突然魅惑的なバッカスの女になれるのです。彼女の夫が紹介したその日に彼女はあるポーズをとり、見てちょうだいと言いました。楽しかったのですが、彼女は普段着を着ていました。私はこれにはちょっと驚きました。私は気晴らしに絵を描くときのガウンを持っていました。それは緩やかなチュニックでした。彼女はショールで気飾り、画廊を埋め尽くすほどのポーズや表情をすぐにもしてみせました。事実フレデリック・ライムベルクの素描のコレクションがあり、これは銅版画になっています。

エンマ・ライアン物語に戻りましょう。彼女が私はさきほど申しました絵描きのために働いているでした。グレヴィル卿が彼女と恋に落ち、彼女と結婚しようと思いました。ところが彼は突然公的な地位を失い、破産してしまいました。彼は直ちにナポリに向かいました。伯父のハミルトン氏から援助が得られるというう希望を持っていたからです。伯父は確かに甥の借金をすべて払うことに同意しましたが、同時に彼は家族の反対にもかかわらず、エンマ・ライアンと結婚する意思を固めました。レディ・ハミルトンは想像以上の貴婦人になりました。ナポリ王妃が彼女と仲良く散歩してるとも言われました。確かに王妃は彼女とよく会いました。おそらく政治的なことだと言われています。レディ・ハミルトンは分別のない女性でしたから、王妃に数多くの外交上の秘密をもらしました。王妃はこれを彼女の国のために利用したのです。

レディ・ハミルトンは知的な女性ではありませんでした。そのくせ彼女は非常に横柄で、人を馬鹿にする女性でした。この欠点は彼女の会話にはっきり出ていました。しかし彼女はずるがしこさで、これで彼女は結婚出来たのです。彼女は普段着となると、非常に服装がお粗末でした。私が記憶していますが、私が彼女の最初の絵を巫女として描きました。彼女はカセルタに住んでいました。私はそこで毎日描きました。早くこの絵を仕上げたかったからです。ド・フルーリ公爵夫人とド・ジョゼフ・モナコ公女が、最後になりますが三度目のポーズのときに言い表せました。私はスカーフを彼女の頭にターバンのように巻きつけました。一方が上品に重なるようにしました。このターバンで、彼女はす非常にきれいになり、二人は彼女がうっとりするほどきれいになったと言いました。彼女のご主人は私たちを晩餐に招待しました。彼女は衣装替えに自分の部屋に戻りました。戻ってきて私たちと会ったとき、彼女の服装は全くの普段着ですが、そのあまりの変わりように二人は彼女とは思えないほどでした。

たちは1802年にロンドンに参りましたが、レディ・ハミルトンはご主人を亡くしたばかりでした。私はカードを置いて参りましたが、彼女はまもなく私に会いに行きました。喪服を着て濃い黒のベールをかぶっていました。彼女は素晴らしい髪を切って新しい「ティトゥス」風にしていました。私が見たのは大女のアンドロマケーでした。彼女は大変悲しいと言いました。友人であり、父でもあった夫を亡くし、慰めようもないと言いました。でも、彼女の悲しみは私には何の印象も与えませんでした。私には彼女が単に演技をしているとしか思えなかったからです。これは誤解ではありません。なぜなら、数分後には私のピアノに楽譜があるのを見つけると彼女は陽気な調べを奏で歌い始めたのです。

周知のことですが、ネルソン卿はナポリで彼女と恋をしていました。彼女はごく普通の手紙のやりとりをしているだけだと主張していました。ある朝、私は彼女の訪問のお礼に、彼女の家にうかがいました。彼女は喜びに輝いていました。そして髪にはバラを差ししていました。まるでニーナです。私は思わずバラの意味を訪ねてしまいました。「ネルソン卿からを手紙をいただいたからよ」と彼女は答えました。

.ド・ベルン公爵とド・ブルボン公爵が彼女のポーズの話を聞いて、彼女がロンドンでは見せたくない見世物をぜひ見てみたいと言われました。私は彼女に二人の公爵のための夜を設けたいと彼女にいました。彼女は了承しました。私はこの見世物を見たがっているフランス人の人たちも招待しました。その約束の日に私は私のアトリエの真ん中に大きな額縁を置き、両側にスクリーンをおこいてレディ・ハミルトンの肖像画のようにしました。招待客はみなやってきました。レディ・ハミルトンは、この額縁の中で、いろんなポーズを取りましたが見事でした。彼女は小さな女の子を連れてきました。年の頃は7歳か8歳でしたでしょう。彼女はレディ・ハミルトンにそっくりでした。この二人を見ていて私と思はプッサンの「サビーヌの略奪」を思い出しました。悲しみから喜びへ、喜びから恐怖へと彼女は素早く変身し、私たちは多いに喜びました。私が彼女を夕食に呼んだ時のことです。ド・ブルボン公爵は私のテーブルの横にいましたが、彼女が何杯ビールを飲むか見てくださいといいました。彼女はビールになれていたはずです。彼女はボトルに二、三本ではぶらつきはしませんでした。ロンドンを後にしてからと後、1815年にレディ・ハミルトンがカレイで死に、そこで極度の貧困の中で見捨てられで死んだという話を聞きました。

ナポリでの行楽によって、私の制作活動は妨げられませんでした。それどころか、私はこの肖像画を引き受け、この町での滞在が6ヵ月にもなりました。喉に着いたときは6週間過ごすつもりでした。フランスの大使タレーラン男爵がある朝ナポリ王妃が私に二人の娘の肖像画を希望していると知らせに来ました。私は直ちに仕事にとりかかりました。王妃はウィーンに立つ予定でした。王妃は二人の娘の結婚話でウィーンにでかけるのです。私の記憶では、王妃は帰国後私に「私の旅行の成果は上々でした。娘のために二組の縁談をまとめてきました」と言われました。長女はオーストリア皇帝フランツ二世と結婚し、ルイーズという王女はトスカトスカナ大公に嫁ぎました。二番目の王女は器量が悪く、しかめ面をして、私は絵を完成させる気にならないほどでした。彼女は、今後数年で死にました。

王妃が海外を訪問しておられる間、私は皇太子殿下の肖像画も描きました。昼の時間が肖像画を描く時間に指定されていました。参上するために私は暑いさなかにキヤヤ街道を通らなければなりませんでした。海に面した左側の家はまばゆい白で描きましたので、太陽は容赦なく反射し、私はほとんど目がみえない状態でしたねおもむために。私は緑のベールを確認ました。これは他の人は絶え間してませんでしたし、一風変わってると見られたでしょう。ベールは黒か白だったからです。数日後にはイギリス人の女性が私の真似をしてました。緑のベールがはやるようになりました。サンクト・ペテルスベルクでは緑のベールで、私は楽になりました。ここでは雪が非常にまぶしくって視力がなくなってしまうからです。

私の楽しみの一つはポシリッポの素敵な丘を散歩することでした。この斜面には同じ名前の洞窟がありました。1マイルにも及ぶすばらしいローマ時代の遺跡でした。ポシリッポの丘には別荘やカジノや、牧場、それに見事な木にはツタが花飾りのように、まきついていました。ここにはヴァージルの墓がありました。月桂樹が墓に生えているという話でしたが、一本もありませんでした。夜には私は海岸を散歩したものです。娘を連れて月の出を座って待っでいました。健康に良い空気を吸い豪華な眺めを楽しみました。これは娘の毎日のお勉強の後の休息になりました。私は娘に出来る限り良い教育を受けさせる決心をしました。そのために私はナポリで作文知り、イタリア語、英語、ドイツ語の先生を雇いました。娘は特にドイツ語に興味がありましたし、いろんな科目で適性があることがはっきりしました。彼女には多少絵の才能がありましたが、彼女の娯楽は小説を書くことでした。私が、パーティーから戻ってくると、彼女は手にペンを持ち、一方の手キャップを持っていました。私は彼女を寝させましたが、真夜中にこっそりを起きて残りを書いていました。私が記憶してますが、ウィーンで9歳のとき、ちょっとした小説を書いていました。その場面に合ったスタイルで書いていました。

ナポリで約束した肖像画はすべて完成しましたので、私はローマに戻りました。私がローマに到着すると同時にナポリ王妃もそこに到着されました。ウィーンから帰国する途中で、ローマに逗留されたのです。彼女が通られる途中、私は人込みの中にいましたが、私を見つけて話しかけられました。彼女は非常に優しい言葉遣いで、もう一度ナポリに来て、自分の肖像画を描いてほしいと言われました。お断りすることができませんでしたので。私はすぐにご要望に応じました。

ナポリに着くと、私は直ちに王妃の肖像画にとりかかりました。王妃がポーズをとられた日はおそろしく暑かったので、二人とも寝てしまいました。ナポリ王妃は妹のフランス王妃ほど綺麗ではありませんでしたが、私はフランス王妃のことを思い出しました。顔は老けていましたが、若かかりしころは綺麗だったと思われます。特に彼女の手や腕の形と色は完璧でした。

この王妃については、悪いことがいっぱい書かれ話されていますが、思いやりがあり、率直で気取らない方でした。彼女は王者の寛大さを持ち合わせておられました。ド・ボンベル侯爵は1790年にウィーンの大使でしたが憲法に誓いを立てることを拒否した唯一のフランス使節です。この勇敢で、高貴な行動により、ムッシュー・ド・ボンベルは大家族の父親でしたが、不遇な地位に降格されました。王妃はこのことを聞き、彼女自ら彼を称賛する手紙を書きました。さらに、彼女は君主たるもの、一致して充実なる臣下をねぎらわなければならないと言い、1万2000フランの年金を受け取ってくれるように頼みました。彼女は性格が明るくユーモアのある方でした。彼女は行政の重荷をひとりで背負っておられました。国王は何もしませんでした。彼ははカセルタで時間をつぶしていました。私がナポリに別れを告げる前に情報。私にラッカー塗りの箱をくださいました。彼女のイニシャルの周りにはダイアモンドがちりばめてありました。このイニシャルは1万フランの価値があり、私は生涯これを持ちつづけることでしょう。

私はヴェニスが見たくて仕方がありませんでした。私はその後に到着したのは昇天の祭日の前日でした。パリでお知り合いであったムッシュー・デノンが、これを聞き、すぐに私に会いに行きました。彼の知性と芸術に対する造形が深く、彼は私の偉大な先生でした。このようにに出会えて、私は幸せに思いました。彼が私を女に連れ出してくれた翌日の日はドージェと、海の結婚の日でした。ドージェと議員はブセンタウルと呼ばれる、内も外も金を塗った船に乗っていました。周りをボートの群れが取り囲み、何艘かには楽隊が乗り込んでいました。ドージェと議員は黒いガウンと白いカツラをつけていました。ブセンタウルは結婚のお祝いの場所に到着しました。ドージェは指から指輪を外し、海に投げ込みました。それと同時に先発ものとし国王が鳴り響き、この盛大な結婚式の成立を宣言しました。

この式典には多くの外国人が参列していました。その中にはイギリスのアウグストゥス王子とジョセフ・ド・モナコ公女がみえました。彼女は子供達のためにフランスに戻る準備をしていました。ヴェニスで彼女に会いましたが、これが最後となりました。


第5章終わり
第5章 ナポリの日々

私はローマに約8カ月いました。外国人はみな、ナポリに行くのを見て、私もナポリに行きたい気持ちになりました。私はベルニ枢機卿にこの話を打ち明けました。彼は、ボルテールの姪のマダム・ドゥニの夫であるムッシュー・ドゥヴィーエールがナポリに行こうと言っており、私が一緒であれば喜ぶはずだと私に言いました。ムッシュー・ドゥヴィーエールは私に会いに来て、枢機卿と全く同じ話をし、私と娘の世話をすると約束してくれました。さらに、彼は馬車にコンロのようなものを積んでおり、鶏の料理もできるということでした。テラチナのいちばんいい宿屋でも出てくる食事は非常に悪いので、このコンロは便利だと言うのです。これは大変いい話だと思いました。彼の話は私にはうれしいものでした。私は、この紳士といっしょに旅立ちました。場所は非常に大きくて、娘と家庭教師は前に座り、中央にもう一つ座席がありました。大男の召使いが私の前に座っていて、彼の背中が私に触るものですから、私は鼻を手で抑えでいました。私は旅行中に話をする習慣がないので、会話はただ、ほんのわずかの言葉をかわすだけでした。ポンティノ湿原を覚えようとしたときです。運河の縁に羊飼いの娘を見ました。羊はところどころに花が咲いている牧場を通り過ぎようとしていました。海とキルケ岬がみえました。私は「なんという美しい絵でしょう!」と旅の道連れに言いました。「羊飼い、羊、牧場、それに海」 彼は「この羊は薄汚い」、「羊はイギリスで見るべきですよ」と答えました。さらにテラチナ街道に沿って、小さな顔をボートでわたるところに行きました。左手を見ると夕日が照らす雲に包まれたアペニン山脈がみえました。私はついに大声で美しい雲を賛美しました。私の楽天的な友達は「雲が出ているということは、明日は雨だろうな」と言いました。

私たちがナポリに到着したのは、三時か四時でした。この町に入ったときの私の受けた印象は言葉では言い表せません。もえる太陽、広々とした海、僕に見える島ヴェスビアス火山から立ち上る煙の柱。人なつこくて騒がしい人々、ローマ人とはまるで違い、だれしも二つの都市は1000マイルも離れていると思うことでしょう。

私が海辺のチアヤに家を借りました。向う側にはカプリ島があります。私はこの環境に喜びました。私が落ち着くとすぐに私の家の隣に住んでいたロシアのナポリ大使スカヴロンスカ伯爵が使者をよこして、私の健康をたずね、上等な食事を運んでくれました。私はこのお心づかいに大変感謝しました。台所の準備ができるまでに時間がかかり、私は空腹で死にそうでした。その夜、伯爵にお礼を言いに参りました。こうして私は彼の魅力的な奥さんと知り合いになりました。

スカヴロンスカ伯爵は上品で整った顔の方でした。彼は健康上の理由で青白い肌をしていました。それでも彼は社交的でしたし、上品で知的な会話をされました。伯爵夫人は優しくて天使のように愛らしい方でした。かの有名なポチョムキンは彼女の伯父にあたり、彼女に財産をたっぷり持参させました。でも彼女に無用だったのです。彼女は黒いマントを着て、コルセットはめずに寝椅子で横になっているのは幸せだったのです。彼女の義理の母がパリからマリー・アントワネット王妃のドレス・デザイナーであるマドモアゼル・ベルタンの豪華な衣装一箱を送ってきました。信じられないことですが。伯爵夫人は箱を一つも開けたことはありません。彼女の義理の母が箱に入れてある美しいガウンや頭飾を着したところを見たいと言っても、彼女には関心がなく「何のために?なぜ?」と答えるだけでした。彼女は私に宝石箱を見せてくれましたが、そのときの返事も同じでした。宝石箱の中にはポチョムキンから贈られた大きなダイヤモンドが入っていました。でも私は彼女が身に付けているところを見たことがありません。私の記憶では、彼女は眠るとき、奴隷をベッドの下に置い、毎晩同じ話をさせるということでした。。彼女は1日中、何もしないで過ごしており、教養もありませんでした。彼女の話は全く無内容でした。にもかかわらず、彼女の愛らしい顔と天使のようなやさしさのおかげで、彼女は魅力的でありました。

スカヴロンスカ伯爵は誰よりも彼の妻の肖像を私に描いてくれと頼むました。私は同意し、到着2日後に描き始めました。第1回目のポーズの後のことです。イギリスのナポリ大使、サー・ウィリアム・ハミルトンがナポリでの最初の肖像画はぜひとも私に紹介してくれた素敵な女性の肖像画にしてくれないかと頼みに来ました。それがマダム・ハルテでした。まもなくレディ・ハミルトンになりました。私の愛すべき隣人との約束の後でしたから、スカヴロンスカ伯爵夫人の肖像画が順調に出来上がっていくまでは、他の肖像画を手掛けることはできませんでした。それから私はマダム・ハルテを海辺に横たわり、ゴブレットを手にしたバッカスの女として描きました。彼女の美しい顔は非常に生き生きとして伯爵夫人とは対照的でした。彼女の栗色の髪は豊かで上半身を覆えるくらいでしたから、髪の毛をなびかせたバッカスの女としての彼女は見とれてしまいます。

レディ・ハミルトンの生涯は小説です。彼女の旧姓はエンマ・ライアンでした。聞くところによれば、彼女のお母さんは貧乏な召使いでした。彼女の生まれた場所についても意見が分かれているようです。ハワーデンの正直な町の人のところに奉公に出ましたが、退屈な生活に飽きてしまいました。ロンドンにいけばもっと快適な生活ができると信じ、ロンドンに出ました。イギリスの皇太子殿下が私に話したところによれば、殿下は、彼女が木靴を履いて、果物の露天に立っているのを見かけたそうです。さらに、衣装はお粗末でしたが、彼女の綺麗な顔で注目を引いていたということです。ある店の店主が彼女を雇ったのですが、すぐに出て行き、上流階級の貴婦人-大変尊敬すべき女性 ― のメイドになりました。この家で、彼女は小説や演劇に興味を持ちました。彼女は俳優の仕草や声音を真似しました。そして大変上手になりました。この才能は彼女の女主人の気に入ることはなく、彼女は首になりました。描きたちがいつもたむろしている食堂の話を聞き、そこに行き、職を得ようとしました。彼女がいちばん美しかった頃です。

彼女はひょんなことから、この穴から抜け出すことができました。グレアム医師が彼女にヴェールをかぶせ、女神ヒュギエア(健康の女神)として、病院に飾ったのです。好奇心の強い人々がたくさんやってきて、彼女に会いたがりました。絵描きたちは特に喜びました。この展示をまもなく、ある絵かきが彼女をモデルにしました。彼女は優美にポーズを取り、彼はそれを絵にしました。彼女では、このその才能があり、それで彼女が有名になりました。レディ・ハミルトンにしてみれば悲しい顔も嬉しい顔をするのはたやすいことでした。さらに、いろんな人の役を演ずるのも彼女には何でもありませんでした。彼女の輝く目、波打つ髪で、彼女は突然魅惑的なバッカスの女になれるのです。彼女の夫が紹介したその日に彼女はあるポーズをとり、見てちょうだいと言いました。楽しかったのですが、彼女は普段着を着ていました。私はこれにはちょっと驚きました。私は気晴らしに絵を描くときのガウンを持っていました。それは緩やかなチュニックでした。彼女はショールで気飾り、画廊を埋め尽くすほどのポーズや表情をすぐにもしてみせました。事実フレデリック・ライムベルクの素描のコレクションがあり、これは銅版画になっています。

エンマ・ライアン物語に戻りましょう。彼女が私はさきほど申しました絵描きのために働いているでした。グレヴィル卿が彼女と恋に落ち、彼女と結婚しようと思いました。ところが彼は突然公的な地位を失い、破産してしまいました。彼は直ちにナポリに向かいました。伯父のハミルトン氏から援助が得られるというう希望を持っていたからです。伯父は確かに甥の借金をすべて払うことに同意しましたが、同時に彼は家族の反対にもかかわらず、エンマ・ライアンと結婚する意思を固めました。レディ・ハミルトンは想像以上の貴婦人になりました。ナポリ王妃が彼女と仲良く散歩してるとも言われました。確かに王妃は彼女とよく会いました。おそらく政治的なことだと言われています。レディ・ハミルトンは分別のない女性でしたから、王妃に数多くの外交上の秘密をもらしました。王妃はこれを彼女の国のために利用したのです。

レディ・ハミルトンは知的な女性ではありませんでした。そのくせ彼女は非常に横柄で、人を馬鹿にする女性でした。この欠点は彼女の会話にはっきり出ていました。しかし彼女はずるがしこさで、これで彼女は結婚出来たのです。彼女は普段着となると、非常に服装がお粗末でした。私が記憶していますが、私が彼女の最初の絵を巫女として描きました。彼女はカセルタに住んでいました。私はそこで毎日描きました。早くこの絵を仕上げたかったからです。ド・フルーリ公爵夫人とド・ジョゼフ・モナコ公女が、最後になりますが三度目のポーズのときに言い表せました。私はスカーフを彼女の頭にターバンのように巻きつけました。一方が上品に重なるようにしました。このターバンで、彼女はす非常にきれいになり、二人は彼女がうっとりするほどきれいになったと言いました。彼女のご主人は私たちを晩餐に招待しました。彼女は衣装替えに自分の部屋に戻りました。戻ってきて私たちと会ったとき、彼女の服装は全くの普段着ですが、そのあまりの変わりように二人は彼女とは思えないほどでした。

たちは1802年にロンドンに参りましたが、レディ・ハミルトンはご主人を亡くしたばかりでした。私はカードを置いて参りましたが、彼女はまもなく私に会いに行きました。喪服を着て濃い黒のベールをかぶっていました。彼女は素晴らしい髪を切って新しい「ティトゥス」風にしていました。私が見たのは大女のアンドロマケーでした。彼女は大変悲しいと言いました。友人であり、父でもあった夫を亡くし、慰めようもないと言いました。でも、彼女の悲しみは私には何の印象も与えませんでした。私には彼女が単に演技をしているとしか思えなかったからです。これは誤解ではありません。なぜなら、数分後には私のピアノに楽譜があるのを見つけると彼女は陽気な調べを奏で歌い始めたのです。

周知のことですが、ネルソン卿はナポリで彼女と恋をしていました。彼女はごく普通の手紙のやりとりをしているだけだと主張していました。ある朝、私は彼女の訪問のお礼に、彼女の家にうかがいました。彼女は喜びに輝いていました。そして髪にはバラを差ししていました。まるでニーナです。私は思わずバラの意味を訪ねてしまいました。「ネルソン卿からを手紙をいただいたからよ」と彼女は答えました。

.ド・ベルン公爵とド・ブルボン公爵が彼女のポーズの話を聞いて、彼女がロンドンでは見せたくない見世物をぜひ見てみたいと言われました。私は彼女に二人の公爵のための夜を設けたいと彼女にいました。彼女は了承しました。私はこの見世物を見たがっているフランス人の人たちも招待しました。その約束の日に私は私のアトリエの真ん中に大きな額縁を置き、両側にスクリーンをおこいてレディ・ハミルトンの肖像画のようにしました。招待客はみなやってきました。レディ・ハミルトンは、この額縁の中で、いろんなポーズを取りましたが見事でした。彼女は小さな女の子を連れてきました。年の頃は7歳か8歳でしたでしょう。彼女はレディ・ハミルトンにそっくりでした。この二人を見ていて私と思はプッサンの「サビーヌの略奪」を思い出しました。悲しみから喜びへ、喜びから恐怖へと彼女は素早く変身し、私たちは多いに喜びました。私が彼女を夕食に呼んだ時のことです。ド・ブルボン公爵は私のテーブルの横にいましたが、彼女が何杯ビールを飲むか見てくださいといいました。彼女はビールになれていたはずです。彼女はボトルに二、三本ではぶらつきはしませんでした。ロンドンを後にしてからと後、1815年にレディ・ハミルトンがカレイで死に、そこで極度の貧困の中で見捨てられで死んだという話を聞きました。

ナポリでの行楽によって、私の制作活動は妨げられませんでした。それどころか、私はこの肖像画を引き受け、この町での滞在が6ヵ月にもなりました。喉に着いたときは6週間過ごすつもりでした。フランスの大使タレーラン男爵がある朝ナポリ王妃が私に二人の娘の肖像画を希望していると知らせに来ました。私は直ちに仕事にとりかかりました。王妃はウィーンに立つ予定でした。王妃は二人の娘の結婚話でウィーンにでかけるのです。私の記憶では、王妃は帰国後私に「私の旅行の成果は上々でした。娘のために二組の縁談をまとめてきました」と言われました。長女はオーストリア皇帝フランツ二世と結婚し、ルイーズという王女はトスカトスカナ大公に嫁ぎました。二番目の王女は器量が悪く、しかめ面をして、私は絵を完成させる気にならないほどでした。彼女は、今後数年で死にました。

王妃が海外を訪問しておられる間、私は皇太子殿下の肖像画も描きました。昼の時間が肖像画を描く時間に指定されていました。参上するために私は暑いさなかにキヤヤ街道を通らなければなりませんでした。海に面した左側の家はまばゆい白で描きましたので、太陽は容赦なく反射し、私はほとんど目がみえない状態でしたねおもむために。私は緑のベールを確認ました。これは他の人は絶え間してませんでしたし、一風変わってると見られたでしょう。ベールは黒か白だったからです。数日後にはイギリス人の女性が私の真似をしてました。緑のベールがはやるようになりました。サンクト・ペテルスベルクでは緑のベールで、私は楽になりました。ここでは雪が非常にまぶしくって視力がなくなってしまうからです。

私の楽しみの一つはポシリッポの素敵な丘を散歩することでした。この斜面には同じ名前の洞窟がありました。1マイルにも及ぶすばらしいローマ時代の遺跡でした。ポシリッポの丘には別荘やカジノや、牧場、それに見事な木にはツタが花飾りのように、まきついていました。ここにはヴァージルの墓がありました。月桂樹が墓に生えているという話でしたが、一本もありませんでした。夜には私は海岸を散歩したものです。娘を連れて月の出を座って待っでいました。健康に良い空気を吸い豪華な眺めを楽しみました。これは娘の毎日のお勉強の後の休息になりました。私は娘に出来る限り良い教育を受けさせる決心をしました。そのために私はナポリで作文知り、イタリア語、英語、ドイツ語の先生を雇いました。娘は特にドイツ語に興味がありましたし、いろんな科目で適性があることがはっきりしました。彼女には多少絵の才能がありましたが、彼女の娯楽は小説を書くことでした。私が、パーティーから戻ってくると、彼女は手にペンを持ち、一方の手キャップを持っていました。私は彼女を寝させましたが、真夜中にこっそりを起きて残りを書いていました。私が記憶してますが、ウィーンで9歳のとき、ちょっとした小説を書いていました。その場面に合ったスタイルで書いていました。

ナポリで約束した肖像画はすべて完成しましたので、私はローマに戻りました。私がローマに到着すると同時にナポリ王妃もそこに到着されました。ウィーンから帰国する途中で、ローマに逗留されたのです。彼女が通られる途中、私は人込みの中にいましたが、私を見つけて話しかけられました。彼女は非常に優しい言葉遣いで、もう一度ナポリに来て、自分の肖像画を描いてほしいと言われました。お断りすることができませんでしたので。私はすぐにご要望に応じました。

ナポリに着くと、私は直ちに王妃の肖像画にとりかかりました。王妃がポーズをとられた日はおそろしく暑かったので、二人とも寝てしまいました。ナポリ王妃は妹のフランス王妃ほど綺麗ではありませんでしたが、私はフランス王妃のことを思い出しました。顔は老けていましたが、若かかりしころは綺麗だったと思われます。特に彼女の手や腕の形と色は完璧でした。

この王妃については、悪いことがいっぱい書かれ話されていますが、思いやりがあり、率直で気取らない方でした。彼女は王者の寛大さを持ち合わせておられました。ド・ボンベル侯爵は1790年にウィーンの大使でしたが憲法に誓いを立てることを拒否した唯一のフランス使節です。この勇敢で、高貴な行動により、ムッシュー・ド・ボンベルは大家族の父親でしたが、不遇な地位に降格されました。王妃はこのことを聞き、彼女自ら彼を称賛する手紙を書きました。さらに、彼女は君主たるもの、一致して充実なる臣下をねぎらわなければならないと言い、1万2000フランの年金を受け取ってくれるように頼みました。彼女は性格が明るくユーモアのある方でした。彼女は行政の重荷をひとりで背負っておられました。国王は何もしませんでした。彼ははカセルタで時間をつぶしていました。私がナポリに別れを告げる前に情報。私にラッカー塗りの箱をくださいました。彼女のイニシャルの周りにはダイアモンドがちりばめてありました。このイニシャルは1万フランの価値があり、私は生涯これを持ちつづけることでしょう。

私はヴェニスが見たくて仕方がありませんでした。私はその後に到着したのは昇天の祭日の前日でした。パリでお知り合いであったムッシュー・デノンが、これを聞き、すぐに私に会いに行きました。彼の知性と芸術に対する造形が深く、彼は私の偉大な先生でした。このようにに出会えて、私は幸せに思いました。彼が私を女に連れ出してくれた翌日の日はドージェと、海の結婚の日でした。ドージェと議員はブセンタウルと呼ばれる、内も外も金を塗った船に乗っていました。周りをボートの群れが取り囲み、何艘かには楽隊が乗り込んでいました。ドージェと議員は黒いガウンと白いカツラをつけていました。ブセンタウルは結婚のお祝いの場所に到着しました。ドージェは指から指輪を外し、海に投げ込みました。それと同時に先発ものとし国王が鳴り響き、この盛大な結婚式の成立を宣言しました。

この式典には多くの外国人が参列していました。その中にはイギリスのアウグストゥス王子とジョセフ・ド・モナコ公女がみえました。彼女は子供達のためにフランスに戻る準備をしていました。ヴェニスで彼女に会いましたが、これが最後となりました。


第5章終わり

第6章 トリノとウィーン

私はフランスを見たいという希望がありました。こうした目的もあって、私はトリノに行きました。ルイ16世の二人の伯母は親切にも姪のサルディニア王妃、クロティルダに手紙を送ってくださいました。二人は私の描いた肖像画がぜひ欲しいと言われました。私が底に着くと、陛下の前に参上しました。オデライーデ王女とビクトリア王女の手紙を読んだ後、彼女は優しく、私を迎えてくれました。彼女は残念ながら、伯母たちの希望にそえないと言われました。隠遁生活を送っているので、肖像画をも断らなければならないと言いました。私が見た限り彼女の言われることと決心はるような気がしました。さらにニア王妃は髪の毛を短く切り頭には小さな帽子をかぶっていました。これは他の衣装同様、非常に簡素なものでした。彼女は痩せているのに、私はびっくりいたしました。私は彼女が非常に若いときに結婚される前にお会いしていました。彼女はフランスの「肥夫人」と呼ばれていたからです。この変わり様は厳格な宗教的な行いに基づくものか、彼女の一族の幸運で、彼女が被った悩みでこうなったか知りませんが。彼女は分からないほど変わっていました。国王も部屋に入ってられまされましたが、青ざめておられ、お二人を見るのはつらいものでした。

私は直ちにルイ18世の奥方に会いに参りました。彼女は温かく迎えてくれただけではなく、トリノ近郊に素晴らしい景色を馬車で、見物するよう段取りをしてくださいました。私は彼女の事情である。マダム・ド・クビランと彼女の息子と一緒に出かけました。この周囲は非常に美しかったですが、私たちの行楽はそれほど幸運ではありませんでした。私たちは日中の熱いさなかに山の頂上にある修道院をたずねました。山の勾配は非常に急でしたので、途中で歩いて登らなければなりませんでした。記憶では、私たちは清らかな泉を通りました。雫がダイヤモンドのように光っていました。農民たちによれば、この水は万病に効くということです。長時間登っていましたので、私たちは疲れ果てて空腹で死にそうになりながら、ついに修道院に到着しました。テーブルは修道僧や人々のために準備されていました。私たちは大喜びでした。私たちが食事を待ちきれなかったのは、ご想像できるでしょう。時間が遅れましたので、私たちが何か特別のものがでてくると思いました。マダムが修道僧に私たちの紹介状を書いて、その紹介状を私たちに持参させたからです。ついにカエルの胸肉がでてきました。私はチキンのシチュウだと思いました。私はお腹が空いていたのですが、これを食べてもう一口も食べられないと思いました。さらに三皿でてきました。蒸したものあげるフライしたもの、焼いたものでした。ああでも、全部カエルだったのですと私たちは乾いたパンだけを食べ。水を飲みました。この修道は決してお酒を飲まず、ワインを出してくれませんでした。私がぜひとも食べたかったのはオムレツでしたが。ここには卵はなかったのです。

私が初めて修道院でポルポラティに会いました。彼は私にトリノから2マイルのところに彼が持っている農場に住まないかと言うのです。質素ではあるけれども、快適な部屋があると言うのです。私は喜んでこの話を受けました。私は都市生活が嫌いでした。私は直ちに娘と家庭教師と一緒にそこに住むことにしました。この農場は広々とした田舎にありました。周囲は野原で、小川のほとりには高い樹々があり、快適な木陰になっています。この人里離れた素敵な場所で、朝から晩まで私たちは散歩しました。娘は新鮮な空気を吸い、私はこの除かれる静かな場所で生活できました。この農家な場所で、このように幸せな気分でいましたのに、私は打ちのめされました。ある夜、馬車が手紙を届けてくれました。私の義理の妹の兄であるムッシュー・ド・リヴィエールからの手紙を受け取りました。彼は私に8月10日の恐ろしいできごとを知らせてくれました。さらに恐ろしいことを詳細に伝えてくれました。私は打ちのめされすぐにトリノに戻ることにしました。

町に入るや、ああなんという!私が街、広場で見たのは、あらゆる年齢の男女でした。彼らはフランスを逃げ出し、トリノに来て住家を求めていました。何千人もの人たちが町にやってきたのです。この光景に私の心は痛みます。ほとんどの人々は荷物もお金も食べるものも持っていませんでした。この人たちは時間がなくて命からがら逃げてきたんです。同じようなことは高齢のド・ヴィエロア公爵夫人から聞きました。この方のメイドは、ほんのわずかのお金を持っていましたが、逃げる途中で命をつなぐために1日10スーのお金しか使えませんでした。子供達はかわいそうに、お腹が空いて泣いていました。事実、これほど悲惨なことは見たことがありません。サルディニア王はこんな人々に家と食事を与えるように命じました。しかし、引用収容する余裕はありませんでした。マダムは彼らを救うために全力をつくしました。私たちは彼女の侍従に伴われてこの間人たちの家と食事を求めて町中を歩きまわりましたが、必要なだけ調達することはできませんでした。

私が忘れられないのは、ある年老いた兵士でした。彼は65歳ぐらいでしょうか、聖ルイ十字章をつけていました。彼は上品で、風采の良い人でした。彼は侘びしい街角に凭れていました。彼は誰にも何もせびりませんでした。しかし見ただけで、大変な不幸を体験したことは、顔に刻まれていました。私たちは彼のところに行き登っていった。わずかばかりのお金を彼にさしあげました。彼は薄いなりながら私たちに感謝しました。次の日、彼は他の人と一緒に王宮に寝泊まりしていました。町にはもう部屋がなかったからです。私がパリに行く計画を放棄したことは、ご想像できると思います。私はそのかわりにウィーンに出発することにしました。

ウィーンは32の郊外まで含めるとかなり広いのです。大変美しい宮殿がいっぱいあります。帝国美術館には偉大な画家のがありましたので、私はしばしば観賞に参りました。さらにリヒテンシュタイン公のコレクションも見ました。彼の画廊は7部屋あり、そのうち一部屋はヴァン・ダイクの絵だけでした。その他の部屋にはティツイアーノ、ルーベンス、カナレット等の絵が展示されていました。帝国美術館には名の通った画家の傑作がいくつかありました。

プラーテルは存在する散歩道で、最高のものであるという話は残念ながら、真実です。これは長くて、見事な通りで、優雅な馬車が数多くと思っておりました。チュィルリーの大通りのように道の両側には腰をおろした観客がいました。プラーテルが楽しくて、のように美しい理由は、この通りをいくと森があることです。鹿が沢山入って、しかも馴れているので、人が近づいても、鹿は驚かないのです。ドナウ川の堤にも散歩道があります。日曜ごとに中流階級の人たちが集まってはフライドチキンを食べるのです。シェーンブルンの公園も日曜日には人が大勢集まります。広い通りと美しい休憩所が、公園の端の高台にあり、散歩するのがとても楽しいのです。
ウィーンでは、舞踏会に行きました。特にロシア大使ロソモフスキー伯爵の舞踏会にはよく行きました。ウィーンの人たちはワルツを激しく踊りますので、人々がこんなに早くスピンをしてめまいで倒れないのは不思議でした。男女ともに、このはげしい動作に慣れていますので、舞踏会が続く間、片時も休むことはありません。「ポロネーズ」も踊られますが。これはずっと楽です。この踊りは静かに二人ずつで、静かに歩く行進にすぎません。この踊りは綺麗な女性には良いと思います向いています。彼女たちの顔や姿をすべて見る時間があるからです。

私は宮廷の大舞踏会を見てみたいと思いました。私は宮廷舞踏会に招待されました。皇帝フランツ二世が彼の二番目の妻シシリーのマリア・テレサのために開いたものです。私は1792年にこの王女を描きました。でも彼女に舞踏会で会ったとき、彼女はすっかり変わっていて彼女とは見えませんでした。彼女の花は伸び頬はこけてしまい、彼女は父親を恨んでいました。彼女が母親に似てないのは、たいへん気の毒でした。母親を見ると、私はフランスの魅力的な王妃を思い出しました。

ウィーンで、旧交を暖められたのはド・ブリオンヌ伯爵夫人、ド・ロレーヌ公女でした。彼女は私が若い頃に非常に親切でした。私は以前のように、彼女の家で夕ご飯を頂きました。彼女の家で、私は時々勇敢なナッサウ公とお会いしました。彼は戦いにおいてで強く、サロンでは優しくて謙虚な方でした。

コベンチェル伯爵の妹のド・ロンベック伯爵夫人のお宅をしばしば訪問しました。ド・ロンベック伯爵夫人はウィーンの著名人をお宅に招待しました。私がメッテルテルニヒ公と彼のご令息にお会いしたのはここでした。彼は永らく総理大臣をつとめていましたが、単なる若くてハンサムな男性にすぎませんでした。同じ場所で、タクシーは愛想のいいド・リーニュ公とお会いしました。彼は女帝エカテリナ二世に同行してクリミアに楽しい旅をした話をしてくれました。この話を聞いて、私は、この偉大な君主に会いたいという希望が湧いてきました。同じところでド・ギシェ公爵夫人にも出会いました。彼女の愛らしいを顔は全く変わっていませんでした。彼女の母親であるド・ポリニャック公爵夫人はウィーンに近いところにずっと住んでいました。彼女がルイ16世の処刑を知ったのは、ここでした。この話が彼女の健康を損ねました。王妃処刑の恐ろしい知らせを聞いたとき、彼女は倒れました。彼女の悲嘆のせいで、彼女の綺麗な顔が彼女とは思えないほど変わってしまいました。誰もが彼女はあまり、長生きはできないと思いました。事実その通りになりました。彼女はしばらくして死にました。

フランスで起こった恐ろしい出来事が彼女にどのようなものであったかは、私が経験した悲しみから、私にはよくわかりました。私は新聞のニュースを知りませんでした。マダム・ド・ロンベックのお宅で新聞を開いて、私の知人が九人もギロチンにかけられたのを見てしまったからです。みなさんは気を使って政治的なパンフレットを私に見せないようにしました。私は恐ろしい出来事を弟から知りました。彼は些細なことまで書いて送ってくれました。彼はただ、ルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台で消えたと書いてきました。その後、自分自身をいたわる気持ちから、この恐るべき殺人の前後について質問しないことにしました。ですから私は、私が将来語ることになるかもしれない、確実な事実以外はこの日まで何も知りませんでした。

春が来ると、私はウィーン近郊の村フイツィングに一軒の小さな家を借り、そこに引っ越しました。。この村はシェーンブルン公園に隣接していました。私は描きかけていたリヒテンシュタイン公爵夫人の肖像画をフイツィングに運び、そこで完成しました。この公爵夫人は体格がよく、かわいらしい顔をして、表情は優しく、天使のようでした。私は彼女をイリスの女神にすることを思いつきました。彼女にはひらめく虹色のスカーフをまとわせました。もちろん、彼女は裸足でした。この絵がご主人の画廊に飾られたとき、公爵夫人が靴をはいのを見て一族の長は憤慨しました。公爵は私に、この肖像画の下に素敵なスリッパを置いた、という話されました。公爵は両親に彼女がこのスリッパを履いて、すべて地面に落としたと言ったそうです。

ウィーンでは一族や国から離れた人同様に幸せでした。冬はヨーロッパでいちばん華やかな社交界がありましたし、天候が回復すると、私は田舎に引きこもりました。私が無事フランスに戻る前はは、オーストリアを離れることなど考えたこともありませんでした。ところがロシア大使とフランス人が私をサンクトペテルスブルクに行くことを強く勧めました。サンクトペテルスブルクでは女帝が私に会いたいはずだと言いました。ド・リーニュ公がエカテリナ二世について話すことで、私は女帝に一度お目にかかりたいと思うようになりました。私はパリに戻る前に一財産作りたいと思っていましたが、ロシアに短期間滞在するだけで、それが可能だと思うになりました。

二年半のウィーン滞在の後、1795年4月にプラハに向けて発ちました。それからブトワイスに向かいました。この周囲の景色には大変引きつけられました。この町はさびれて、城塞も破壊されていました。老人と女と子供には出会いましたが、それほど多くの人はありませんでした。ついに私はドレスデンに到着しました。途中、エルベ川に沿った高くて狭い道を通りました。川は広い谷を流れていました。到着したその日に私は、世界に類のない、有名なドレスデンの美術館に行きました。ここにある作品は非常によく知られていますので、私は特に説明しません。どこでも言えることですが、この美術館でもラファエロが他の画家たちを断然引き離していることです。私は部屋をいくつか回りました。私はある絵の前に立っていました。その絵は未だかって経験したこともない感動を呼び起こすました。その絵は処女マリアが雲の上に乗り、幼子イエズスを抱いている絵です。この人物像は神聖な絵筆のみが描くことの出来る美しくて高貴な絵です。幼児の顔は無邪気であると同時に天国的な表情をしております。マリアの着衣のひだは正確に描かれており、その彩色は申し分のないものです。マリアの右手には実物どうりに聖人が描かれています。彼の二つ手は特に注目に値します。左手には若き聖女が頭を傾け、絵の下にいる二人の天使を見つめています。この聖女の顔は愛らいと同時に、誠実で謙虚です。二人の小さな天使は手に顔を乗せ、彼らの目は、その上の人物に向けられています。二人の天使の顔は実に巧みに繊細に描かれており、言葉では表すことができません。

サンクト・ペテルスブルグに急ぐため私はドレスデンからベルリンに向かいました。ここで私は5日間滞在しました。私の計画では、再びここに戻り、ロシアからの帰途長期間滞在し、プロシアの魅力的な王妃にお会いすることです。

第6章終わり

第7章 サンクト・ペテルスブルク

私は1975年1月25日にサンクト・ペテルスブルクに入りました。ペテルホフの道を通りました。この道で、この都市が分かりました。この都市は両側に素敵な田舎の家があり、そのにははイギリス式の趣味のいい庭でした。ーキヨスクと綺麗な橋がありました。住民はこの沼地の土地を生かして、運河や小川で庭を美しく飾っていました。残念なことにすごい湿気で夜の美しい景色が台無しでした。夕暮れ前でも、この霧が道路に立ち昇り、濃く暗い煙に包まれているようでした。

都市の景観のみならず、私はその記念碑、美しい住宅、広い道路、この眺めが1マイルもあるのに魅せられました。水が進んだネバ川は街を縦断し、寝返り気にし小帆船が生き生きしていました。これがこの都市に活気を与えていました。ネバ川の埠頭は花コウ岩からできており、エカテリナ女帝による街の運河のようでした。川之江港の機種は見事な建物がありました。美術アカデミー、科学アカデミー、その他多くの建物がネバ川に写っていました。月の夜には、この古代の寺院にも似た建物ほどすばらしい景観はないと聞いていました。サンクト・ペテルスブルクは私をアガメムノンの時代に戻してくれました。一つは、建物の壮麗さであり、もう一つは古代を思い起こさせる、人々の衣装でした。

私は今月の光について、お話ししましたが、私の到着の時には月を眺めることはできませんでした。7月ペテルスブルクでは、本当に真っ暗なときは1時間もないのです。太陽は10時半に沈み、明け方までほんのちょっと暗いだけです。深夜から1時間半後には夜が開けるのです。ですからいつもはっきりとみえます。私はですから、太陽の出ている11時に夕食を取りました。

私が最初にしたことは十分な休息をとることでした。リガを過ぎてから、道は恐るべきものでした。大きな石があって、私が乗っていた馬車はひどいものでしたが、そのたびに大きく揺れました。宿屋は非常にひどくて、そこに宿泊する気に来れませんので、サンクト・ペテルスブルクに一直線に進みました。

私のサンクト・ペテルスブルクでの宿泊の期間はたった24時間でした。フランス大使、エステルハーツィ伯爵なる人物の訪問が告げられたとき、疲労困憊していました。彼はサンクトペテルスブルク到着の歓迎の言葉を述べ、女帝にすぐにも私の到着を知らせ、女帝の参内のご命令を受けて来る予定がと言いました。そのすぐ後にド・ショアズール・グフィエール伯爵の訪問を受けました。私が彼と話をしながら、偉大なるエカテリナ女帝に拝謁できる幸せを申しあげました。しかしながら、この絶大な権力のある女帝に拝謁したときの恐れと困惑を隠しはしませんでした。「心配いりませんよ」と彼は答えました。「女帝に会われたら、彼女の人柄のよさにびっくりするはずです。彼女は実に素敵な女性です。」正直言って、私は彼の話にびっくりしました。これまで私が聞いてきたことからして、彼の話は信じられませんでした。ド・リーニュ公が、彼のクリミア旅行の楽しいお話から、この偉大な女帝の優雅で、率直な振る舞いを語っておられたのは事実です。でも彼女を素敵な女性であるとは一度も聞いておりませんでした。

しかしながらその晩、エステルハーツィ伯爵が女帝がお住まいのツァールスコイセローから、戻り、メーカーが翌日の1時に私を謁見される滞在される、と伝えに行きました。こんなに早い参内は、私は予想しておりませんでした。私はすっかりあわててしまいました。私はいつものように質素なモスリンのドレスしか持っていませんでした。飾りのついたガウンを1日で、それもサンクト・ペテルスブルクで作ってもらうことは不可能でした。エステルハーツィ伯爵は10時丁度に私を呼びに来て、やはりツァールスコイセローにいる。彼の奥さんと朝食をとると言いました。ですから、約束の時間が来たとき、到底宮廷のドレスとはいえない私のドレスを気にかけながら。私は出発しました。マダム・エステルハーツィに強いしたとき、彼女の仰天は私にはわかりました。言葉遣いの丁寧な方でしたが、それでも彼女は私にたずねました「ほかにガウンは無いのですか?」。この質問で、私は顔が真っ赤になりました。私が正しいガウンを作る余裕がなかったことを申しあげました。彼女の不愉快な表情から、私の不安は募りました。女帝の前に進みでるときが来たら、私は持てる勇気をすべてふるいおこさねばならないと思いました。

伯爵は私に手を貸してくれ。二人で、公園のあるところを過ぎるところでした。私は一階の窓から私は若い女性がパンジーの鉢に水やりをしているのを見ました。彼女はせいぜい17歳でした。顔立ちはよく整っていました。彼女の顔は完全な卵形でした。彼女の美しい肌の色は輝いてはいませんでしたが、真っ白で、彼女の顔の表情とよくあっていました。彼女は天使のように愛らしかったのです。彼女の美しい髪の毛は首と額を覆っていました。彼女は白いトュニックを着ていました。結び飾りのついたガードルをつけた腰はニンフの腰のようにほっそりとして、しなやかでした。私はうっとりとして、彼女の姿を描きましたが、この若い女性の背景の建物には柱があり、ピンクと銀の紗の飾りが付いていました。私は「彼女こそプシケだわ」と叫びました。アレクサンドルの妻、エリザベス公爵夫人でした。彼女は私に挨拶をし、私を長い間引き留めて楽しい話をしてくれました。さらに、彼女は「マダム・ルブラン私たちは長い間、あなたを待ってたのよ。」「あなたがここにきているという夢も見たことがあるのよ。」私は彼女とお別れしなければなりませんでしたが。その後もこの楽しい思い出を持っております。

その二、三分後には、私はロシアの貴族たちの中にました。大使はまず私に彼女の手をキスするように言われました。作法に従って、彼女は手袋をとるはずだと。この時私は全部記憶しましたが、その時にはすっかり忘れてしまいました。私はこの有名な女性を見て、思いもよらない印象を受けました。私が彼女が非常に有名であるように、背も高い女性だと思っていました。彼女は非常に太っていましたし、顔は綺麗でした。彼女の白い髪の毛で、顔が引き立っていました。彼女の生まれ持った才能が、彼女の広くて、高い額に鎮座しているように思われました。彼女の目は柔和で、小さく、鼻はギリシャ風でした。肌はみずみずしく、表情は機敏でした。優しい声で、彼女は言われました。「マダム、ここであなたにお会いできてうれしく思います。あなたの評判はお会いする前から聞いていました。私は芸術が好きですが、特に絵画が好きです。私は絵は描けませんが、絵は大好きです」この接見で、彼女は話された時間はかなり長いものでした。彼女は私がロシアを好きになり、長く滞在することを望んでいると申されました。非常に気分の良い方でしたので、私の恥ずかしい思いも消えて行きました。私が陛下から、お暇を頂くときまでには、私はすっかり安心しました。私が彼女の手にキスをしなかったのは誠にお恥ずかしい次第です。彼女の手は美しく、色が白かったのです。エステルハーツィー伯爵にそのことで叱られたときには、このミスを嘆いたものです。私が着て服に関しては、彼女は全く関心がありませんでした。おそらく女帝はフランスの大使夫人よりもご機嫌のように見受けました。

私はツァールスコイセローの庭園を行きました。これは正に小さな妖精の国です。女帝には彼女の部屋と行き来できるテラスがありました。このテラスには彼女はたくさんの鳥を飼っていました。私が聞いたところでは、毎朝彼女は鳥に餌をやり。これが彼女の主な楽しみになっているそうです。

私が拝謁したその直後、陛下は私にその夏その美しい場所で過ごさせたいという希望を申されました。陛下は侍従たちに命令されました。その一人がバリアティンスキー公爵でした。私に城内に部屋を与えよとのことでした。彼女は私が絵画を描くところを見たくて、近くに住まわせたかったのです。しかしその後はかったことですが、この紳士たちは私を女帝のそばに住まわせようと努力しませんでした。彼女が繰り返し命令しても、彼らは近くにそのような部屋はないと主張するのです。私がこの事態の真相をしって、仰天したことがあります。宮廷人たちは、私がダルトア公爵の党派に属し、エステルハーツィー伯爵を他の大使に取り替えにはきたのではないかと心配していたのです。伯爵がこれらのことについて共謀していたことはあり得ます。たとえ私がこのこのような陰謀に興味が多少あるとしても、私は絵で忙しく、政治に時間を割けられない人間であるということが分かっている、知り合いがなかったことは確かです。さらに、女帝のそばに部屋を与えられるという名誉、このようなすばらしい所に住むという喜びを別にしても、ツァールスコイセローではすべてが堅苦しく、面倒でした。

その上私がロシアで受けたもてなしはよく計画されており、宮廷内のちっぽけな陰謀の慰めにはなりました。この国では、外国人は、特に多少とも才能があれば、熱烈にあるいは優しくもてなされものです。私は山のような招待状を受け取りました。私がすぐに愉快な上流の家族の家に来るように招待を受けました。その中には何人かの知人がサンクト・ペテルスブルクにいました。中には、旧友もいました。まず第一が真の美術愛好家であるストロガノフ伯爵です。彼の肖像画はは私が若いころパリで描きました。再会できたのは、私たちにとって無上の喜びでした。彼はサンクトペテルスブルクのすばらしい絵画の収集家でした。近郊のミノストロフにイタリア式の別荘を持ち日曜日ごとに晩餐に招待してくれました。彼はそこに来るようにいました。私はこの場所に夢中になってしまいました。この別荘は高い道路際に立っており、窓からはネバ川が見下ろせました。その広大な庭園はイギリス風でした。あらゆる方向から数多くのボートが到着し、数多くの人々がストロがノフ伯爵邸を訪れました。晩餐に招待されなかった人々は、この公園で散歩するのです。伯爵はこの公園で承認が露天を開くことを許可していましたので、この美しい土地は楽しい市で賑わいました。特に、近隣の地方の衣装は美しく、変化に富んでいました。

3時頃に私たちは覆いの着いた柱が立ち並ぶテラスに行きました。まばゆい日の光がすべてを照らしていました。私たちは公園の景観を楽しみました。ロシアの夏は最高ですから、気候は世界一すばらしいものです。この国の七月はイタリアよりも暑い時があります。私たちはこのテラスで食事をしました。食事はすばらしいものです。デザートには豪華な果物がでてきます。特にすごいのはメロンです。私には大変な贅沢でした。テーブルに腰をおろすや楽しい楽器の演奏が聞こえ、食事中ずっと続くのです。「イフィゲニア」の序曲の演奏にはうっとりです。私はびっくりしてしまいましたが、ストロガノフ伯爵が仰るには、各演奏者はただひとつだけの調べを演奏しているそうです。個々の音が完全に一つにまとまり、このような機械的な演奏からこのような表現ができるのか。私にはとても考えつかないことです。

食事の後、私たちは散歩を楽しみました。それから夜になるとテラスに戻ります。としているはくれると私たちは綺麗な花火を見ます。これは伯爵が私たちに準備しておいてくれたものです。ネバ川の水に反映して花火は美しく、効果的でした。最後に今日の楽しみを締めくくりは、二艘小さくて細いボートで、インディアンが私たちにダンスを披露してくれました。彼らのダンスは船を揺らさずに軽やかに動くというもので、かなり楽しい見物でした。

ストロガノフ伯爵の見事な大邸宅は1軒だけではありません。サンクトペテルスブルクではモスクワのように数多くの貴族は野外にテーブルを置いております。ですから、素性のわかった外国人は宿屋を頼る必要はありません。どこでも食事が食べられます。私の記憶では、私のサンクトペテルスブルクの滞在の終わり頃、大侍従長ナリシキン公爵は推薦状を持った外国人のために、25から30の野外にテーブルを持っておりました。このようなもてなしの習慣は、近代文明が行き届いていないロシアの内部でも残っておりました。ロシアの貴族たちが通常は首都からはるか遠くにある領地に行くとき、同じ。ロシア人の家に宿泊します。そこでは個人的な知り合いでなくても、貴族、召使い、馬は中に入れてもらい、出来る限りのもてなしを受けます。たとえ宿泊が1ヶ月に及んだとしてもです。

この広大な国を二人の友人といっしょに大旅行した人物を見かけました。この3人は遠い地方まで家夫長が支配していた時代に横断しました。3人は至る所で宿を借り、食事をしたのですが、財布はほとんど必要ありませんでした。3人に応対したり、馬の世話をする人たちに酒代を押し付ける必要がなかったのです。主は大部分が商売人が農民でしたが、暖かい感謝の気持ちに驚きを示していました。「私たちがあんたの国にいけば、あんたがただって、同じことするでしょうが」と彼らが云いました。

ロシアの夏は8月で終わります。秋はありません。私はツァールスコイセローで、散歩に出かけました。この公園は海に面しています。この眺めは想像できないほどすばらしいものです。予定外いつも彼女の気まぐれと呼んでいた記念碑がいっぱいありました。パラッディオ様式のすばらしい大理石の橋がありました。ロマゾフとオルロフの勝利の記念品であるトルコ風呂もありました。柱が32本ある寺院もありました。さらにヘラクレスの柱廊と大階段がありました。公園の樹の通りはほかに類がないものです。城の向かい側には長くて広い芝生の公園があります。その最後には桜の園があり、私は記憶してますが、おいしい桜ん坊をを食べたものです。

コベンツェル伯爵は私がある女性と知り合いになることを望んでいました。この女性は知的で美しいので、評判の女性でした。ドルゴルキ公女でした。私は彼女からアレクサンドロフスキーのお宅で、お食事の招待を受けました。彼女はここに別宅を持っていたのです。伯爵は私と娘をそこへ連れてってくれました。

この大邸宅の調度品はさりげなく、うれしいことに、船がいつも行き来するのを眺めることができました。今日では歌を合唱していました。ロシアの人々のを多少野蛮ですが、感傷的で、メロディーが豊かです。

ドルゴルキ公女の美しさには、私は感動してしまいました。彼女はギリシア人の顔立ちで、特に横顔ですが、少しユダヤ的な特徴が混じっていました。彼女の長い黒っぽい栗色の髪の毛は、特に構わず、彼女の方まで届いていました。彼女の容姿は完璧でした。その全人格で、彼女はその高貴さと優雅さとをさりげなく示していました。彼女は私をやさしく上品に受け入れてくれましたので、私は彼女の家に一週間滞在してはという申し出を喜んでお受けました。私の知り合いになった魅力的なクラーキン公女はドルゴルキ公女の家に住んでいました。お二人の貴婦人とコベンツェル伯爵とでこの家を持っていたのです。

お食事の後私たちは金の縁取りのついた赤いビロードのカーテンのついたボートに乗って出かけました。屋根のないボートに乗った合唱隊が私たちのために歌ってくれましたが、一番高い音でも非常に正確でした。私が到着した日の夜には音楽がありましたが。次の日にはダレイラックの「地下」が演じられました。ドルゴルキ公女はカミーユの役、若き日のド・ラ・リボシエール、この方は後にロシアの大臣になりましたが、少年の役、コベンツェル伯爵は庭師でした。

私は記憶していますが、このお芝居をしている間に、サンクト・ペテルスブルクのオーストリア大使であったコベンツェル伯爵にウィーンからの急使がやってきました。庭師の格好をした伯爵を見ても、この急使は伝達を遠慮しようとはしませんでした。このシーンでの二人の会話で劇の進行がそれてしまいました。この1週間が終わりましたが、私には1分しか経ってないように思えました。残念ですが、私は数多くの肖像画を約束をしておりましたので、ドルゴルキ公女の別荘を去らなければなりませんでした。

コベンツェル伯爵はドルゴルキ公女を熱烈に愛していましたが、彼女は彼のしつこい求愛に応えていませんでした。彼女が冷淡な態度を示しても彼を追い払うことはできませんでした。彼の唯一の目的は彼女の側にいることでした。町でも田舎でも、彼は片時も彼女から離れませんでした。あっと言う間公文書を書き終え、送ると、彼は彼女のそばにより、完全な奴隷に戻りました。彼はほんのちょっとした言葉や仕草にも飛んで行くようでした。彼女が彼に与える役割は何でも急受けました。例えその役が彼の風貌に合わなくてもです。

コベンツェル伯爵は年齢は50歳ぐらいで、醜く、ひどい斜視でした。彼は背たけは高い方でしたが、非常な肥満体でした。それでも彼は行動的でした。彼が愛する公女のを命令を実行する場合には特に行動的でした。それ以外では、彼は機敏で、聡明な方でした。数々の逸話が登場する彼の会話は楽しいものでした。彼の逸話のお話は完璧でした。私は彼が大変いい人で、親切な人だと思っています。

ドルゴルキ公女がコベンツエル伯爵や多くの崇拝者のため息に無頓着になるのも当然です。失恋した王者というものは女の関心を得るために惜しげもなく財を浪費したものです。彼女はそれ以上の華麗な関心をある崇拝者から受けたからです。かの有名なポチョムキンが ― 彼は辞書から「不可能」という言葉を排除したい人物です ― 彼女への崇拝を示しました。その豪華さは、私たちが「千夜一夜物語」で読んだものよりもはるかに上回るものでした。

1791年にクリミアに旅行した後、エカテリナ女帝はサンクトペテルスブルクに戻った時のことです。ポチョムキン公は陸軍の総指揮官として後に残りました。奥さんを連れてきた将軍もいました。ドルゴルキ公女と出会ったのは、そのときでした。彼女の名前もエカテリナでした。ポチョムキン公は名目はエカテリナ女帝のためと称して、彼女のために盛大に宴会を開きました。テーブルでは、彼女はポチョムキン公の隣に座りました。デザートのとき、ダイヤモンドがいっぱい入った水晶のゴブレットができました。このダイヤモンドは貴婦人たちにスプーン1杯ずつ給仕されました。この饗宴の花形は、この贅沢を見ていました。ポチョムキン公は彼女に、「この宴会は貴方のためのもです。だが驚かれないのはなぜですか?」とささやきました。

この魅力的な女性の気まぐれを満足するためには、いかなる犠牲をも惜しみませんでした。彼女がいつもフランスに注文している、舞踏会用の靴がないということを聞き、ポチョムキンはパリに早馬を飛ばしました。使いのものは昼夜飛ばして彼女の靴を持って帰りました。サンクトペテルスブルクでは知られていることですが、ドルゴルキ公女に一大スペクタクルを見てもらいたくて、予定よりも早くに、急いでオチャコフの砦の攻撃を開始しました。

ドルゴルキ公女ほど、威厳のある物腰の女性はいないと思います。私の「巫女」を見て、彼女は大いに気に入られ、このスタイルで、肖像画を描いてほしいと私にいました。私は喜んで彼女が完全に満足するようにがんばりました。肖像画が仕上がると彼女は綺麗な馬車を私に差し向け、私の腕にブレスレットをつけてくれました。ブレスレットはダイヤモンドの銘のついた彼女の一房の髪の毛でできていました。銘は「世紀を飾る女を飾れ」でした。私がこの贈り物の思いやりと品の良さに感動したものです。

私がサンクト・ペテルスブルクに到着したときにポチョムキン公はその地に数年間いましたが、彼はまだ魔法使いであるかのように言われていました。彼のイマジネーションは途方もなく野心的でした。この点については、ポチョムキン公が女帝エカテリナ二世のために計画したクリミア旅行をド・リーニュ公やド・セグール公が書いています。旅行の行程中の大邸宅や村々は、まるで魔法の杖を振ったかのように、女帝陛下を歓迎して花火の炎が林立したのです。事実、この旅行は現実離れした出来事でした。彼の姪であるスカヴロンスカ伯爵夫人はウィーンで私に「もし私の伯父があなたを知ったら、伯父は、あなたに金銀財宝を持たせてくれることでしょう」と言いました。確かに、この著名な人物はいつも気前よく散財し、おそろしく贅沢でした。彼の趣味は途方もなく、贅沢で、王侯のような暮らしぶりでした。ですから、彼は王侯たちを上回る財産を持っていましたが、ド・リーニュ公が私に語ったところでは、彼は金がなくなるはずだと言うことでした。

寵愛と権力のせいで、ポチョムキン公は、彼のつまらない欲望を満足させることに慣れてしまいました。このことを証明する例があります。ある日、彼の副官の身長の話になりました。ポチョムキン公は、ロシア陸軍のある士官はもっと背が高いと言いました。当の士官を知っている人は全員ポチョムキンの意見に反対しました。彼はたちに使者を派遣して、その士官を連れ戻すように命令しました。この士官は800マイルも離れたところにいたのです。ポチョムキン公に呼ばれたと聞いて、彼は大喜びでした。彼は自分が昇進されると思ったのです。彼の落胆ぶりは想像に余りあります。野営地についたとき、彼はポチョムキンの副官と背比べされたのです。長い旅の疲れ以外に何の交流もなく、彼は任地に戻ったのです。

長い間寵愛を受けていで、君主のそばで統治することに慣れてしまった、この人物は晩年には寵愛を失いました。レプニン公に命令を下し、和平の交渉をさせました。この和平はポチョムキン方が強く反対しているものでした。ただちに彼は署名を妨害すべく出発しましたが、ヤッシーで、和平が締結されたことを知りました。この報告は彼には決定的でした。以前から病気がちでしたが、彼は重い病にかかりました。それでも、サンクトペテルスブルクに戻る旅にでたのです。しかしに数時間後には病は重くなり、馬車の動きに耐えられなくなりました。そこで彼はある牧場で横にされ、マントをかぶせられました。1791年10月15日、ポチョムキン公はブラニッカ伯爵夫人に抱かれて、この地で最後のため息をもらしました。


第七章終わり

第8章 ロシアでの生活

陛下がツァールスコイセローから戻られるとすぐに、ストロガノフ伯爵が陛下の二人の大公女、アレクサンドリーナとヘレンの肖像画を描くようにとのご命令を私に伝えにきました。二人の大公女は表情は全く違っていましたが、年齢は13歳か14歳ぐらいとお見受けしました。お二人とも天使のような顔をしていました。肌の色は特に美しく、繊細で、まるでアンブロシアで過ごしておられたかのようでした。年上のアレクサンドリーナはギリシャふうの美少女で、アレクサンドルに似ていました。年下のヘレンの顔はさらに繊細でした。私は二人が女帝の肖像メダルを持っているところを描きました。衣装は簡素なギリシャ風にしました。

この世を仕上げ部屋女帝はまもなくアレクサンドルと結婚する予定のエリザベス大公女の肖像画を描くように私に命じられたました。すでに私が申し上げたように、この姫君はうっとりするような美人でした。このような天使のようなお姿を普通の衣装で描きたくはありませんでした。私はかねがね彼女とアレクサンドルのお二人を歴史画として描いてみたいと思っていました。私は彼女が宮廷の正装で立っておられるところを描きました。そばの籠に入った花にさらに花を付け加えました。私が彼女の大肖像画を仕上げたら、彼女の母君のためにもう一枚注文されました。今度は淡い紫色のカバーをかけたクッションにもたれてたポーズにしました。エリザベス大公女がもう少しポーズを取って頂いたならば、私がもっと優しくて愛らしく描けたのですが。ある朝彼女がポーズを取っていたときのことです。私はめまいがして、ぼうっとしてしまい、目を閉じてしまいました。彼女はびっくりして、ご自身で水を求められ、私の目を拭いて、この上なく親切に私を見守ってくださいました。私が帰宅するや否や、彼女は私の容体を聞きに、使いのものをよこしました。

このころ私はコンスタンチン大公の奥方である、アンナ大公夫人の肖像画を描いておりました。彼女はコブルク公女でした。彼女の義理の姉ほど神々しい顔付きではありませんでしたが、それでも優しくて愛らしい方でした。彼女はおそらく16歳ぐらいでしょうか目鼻だちは生命力にあふれ陽気でした。この若き姫君がロシアでの幸福を知らなかったというわけではないのでしょうが。アレクサンドルが的な容姿と性格を母から受け継いだとしても、コンスタンチンはそうではありませんでした。コンスタンチンは彼の父に似ていました。非常に醜いというわけではありませんが、父親のように、生まれつき非常なかんしゃく持ちでした。

この当時ロシアの宮廷にはたくさんの美人がいましたので女帝が臨席される大舞踏会は素晴らしい眺めでした。彼女が催されたもっとも華麗な大舞踏会に私は出席いたしました。女帝は堂々とした衣装で、部屋のうしろに座っておられました。付き添っていたのは宮廷を代表する方々です。彼女のそばに立っていたのは、マリー大公夫人、ポール、アレクサンドル、コンスタンチンの三大公でした。この方々の前には舞踏会場と隔てる欄干がありました。

舞踏会は「ポロネーズ」と呼ばれるダンスをただ繰り返すだけでした。私の最初のパートナーは若いバリアティンスキー公爵でした。私は彼といっしょに部屋をぐるりと回り、その後で椅子に腰掛けてダンスをされる方々を眺めておりました。

どれだけ美しい女性が私の前を通りすぎたことでしょう。これらの美女たちの中でも、やはり帝室の大公女たちが栄光のシュロの葉を手にすべきです。彼女達はみな、ギリシャふうの衣装を着ており、トゥニックを肩のところでダイアモンドのバックルで止めていました。私はエリザベス大公女の衣装に手を伸ばして少し直して、正しい着付けにしてさしあげました。パオロのご令嬢アレクサンドリーナは銀を散らしたライト・ブルーのベールをかぶり、彼女たちの顔立ちは一段と神々しくなりました。女帝を取り巻く人々のすばらしい衣装、豪華な部屋、素敵な人々、おびただしいダイヤモンド、千もの照明の輝きで、この大舞踏会は誠に魅力あるものとなりました。

数日後私は宮廷の大晩餐会に出席しました。私が部屋に入ったときには招待された貴婦人方は全員そろっておりテーブルのそばに立っていました。すでに最初の一皿は出ておりました。大きな扉が開かれ女帝が登場されました。すでに申しあげましたように、彼女は背の低い方でしたが、このような行事の場合には顔をまっすぐにし、鷲のような目、常に命令しておられる顔付き、これらは帝王にのみ備わっているもので、彼女はまるで世界の女王のようでした。彼女は三重のリボンをつけておられてました。彼女の衣装は簡素で、威厳のあるものでした。金の刺繍のあるモスリンのトゥニックで、ダイアモンドのベルトで止め、広い両袖はオリエント風に折り曲げてありました。このトゥニックの上は非常に短い袖のついた赤いビロードのノルマンでした。白い髪の上の帽子には折曲げがありませんでしたが、美しいダイアモンドが付いていました。

陛下が着席されると貴婦人は全員テーブルに座り、世界共通の作法に従って、ナプキンを膝の上に置きました。女帝はといえば、彼女は子供のようにナプキンをピンで止めました。彼女は貴婦人たちが食べていないのに気がつき、いきなり「皆さん、あなたがたは私の後に従いたくないのでしょう。あなたがたは食べているふりをしてるだけです!私はいつものように、ナプキンをピンで留めたのです。こうしないと私は卵一つ食べても私の襟を汚してしまうのでね」と叫びました。彼女が旺盛な食欲で食事をしてをおられました。食事中合奏団が部屋の後の回廊で上手に演奏していました。

食事に関してですが、サンクトペテルスブルクで一番悲しい食事に行ったのはズボフの妹の家でありました。ここで私はついうっかりして紹介状の返事を出さなかったのです。ロシア滞在で六カ月が経過していました。私はある晩劇場から出てくるところで、彼女とお会いしました。彼女は私に近づいてきて、丁寧に私に出した手紙のご返事を今でもお待ちしておりますと言われました。なんと言い訳していいか分からなくて、私はお手紙を出し忘れたのでしょうが、私はもう一度探して持って上がりますと言いました。
かくして私はある朝、D-伯爵夫人を訪問しました。彼女は翌々日に私をお食事に招待したのです。サンクト・ペテルスブルグでは二時半に食事をするのが習慣になっていました。私はですから伯爵夫人宅をその時間に妻と一緒に出かけました。娘も招待されていたのです。私たちは非常に暗い居間に通されました。その途中で食事の準備が何もされていないのに気がつきました。一時間、二時間が経過しました。その間、テーブルにお座りくださいませとは言われませんでした。とうとう彼の召使いがやってきて、カード・テーブルを置きました。居間で食事をするなんて不思議だと思いましたが、食事はもう出てくるものと思うことにしました。

そうではありませんでした。召使いが出て行きに三分後に多くの客がカードを始めました。六時頃、あわれな娘と私はお腹が空いてたまりませんでした。そして鏡を見て、私たちの姿に驚き悲しみました。私はもう死にそうでした。七時半になって漸く、私たちはお食事の準備ができたと告げられました。しかし私たちの胃は空腹を通り過ぎて苦しくて、もう何も食べる気がしませんでした。D-伯爵夫人はロンドンの普通の時間に食事をしていたことが分かりました。伯爵夫人はそのことを告げるはずでしたが、彼女はおそらく世界中の人は、この食事の時間をしてるものと思ったのでしょう。

私は外出して食事するのは好きではありませんが。特にロシアではそうせざるを得ないことがあります。招待をたびたび断るときは相手に非常な不快感を与える覚悟をしなければなりません。私はお食事の招待が多くなるにつれてを食事が嫌いになりました。彼らは食事にお金を惜しみません。貴族はほとんど一流のフランス人の料理長を雇っています。食事の豪華さは比類のないものです。客がテーブルに座る十五分前には、あらゆる種類のコーディアルとバターを塗ったパンをお盆に乗せて回します。コーディアルは食事の後には出てきませんが。ふつうは最高級のマラガ・ワインです。

ロシアでは、たとえ自宅で催される晩餐であっても、身分の高い貴婦人が客の前にテーブルに座ります。上流階級の作法ではロシアの貴婦人の前に進むことは不可能ですから、一緒にテーブルに着くためには、ドルゴルキ公女か他の人が私を手を取ってくれます。フランスの貴婦人だった傲慢とがめられるでしょうはそういう訳ではありません。

サンクトペテルスブルグでは室内にいる限り、厳しい天候に気がつきません。ロシア人では完全に室内を暖かくする方法を知っているからです。本番の立っている。扉から出てが見事なストーブで暖められていますので、煙突のついた。暖炉の火はただの飾りにすぎません。階段も廊下も室内と同じ温度に保たれてす。部屋の出入りする扉は開いたままになっていますが、別に不都合ではありません。当時大公にすぎなかったポール皇帝はフランスに来て、最初に言った言葉は「皆さんはサンクト・ペテルスブルグで、寒さをご覧になれるでしょうが、ここパリでは、寒さを感じることができます」でした。私はロシアに七年半滞在してパリに戻りました。そのときドルゴルキ公女もパリにおられました。私は記憶しておりますが、私は彼女にお会いしに出かけた日のことです。二人とも寒くて暖炉の前にいました。二人とも言いたのですが「温まるためにロシアで、冬をすごしましょう。」

外出する時は外国人も厳しい気候の影響を受けないように注意が必要です。誰でも馬車のなかでビロードの毛皮の裏地がついたブーツを履いています。コートも同様に厚い毛皮の裏地がついています。零下十七度になると、劇場は閉鎖され、すべての人は家に閉じこもります。こんなに寒いとは思っていなかったものですから、温度計が十八度のとき外出を思いたったのは、私一人ぐらいでしょう。ゴロヴィン伯爵夫人はちょっと離れたプロスペクトという通りに住んでおられました。。私にから、彼女の家まで馬車を一台も見かけませんでした。これには驚きましたが、私は行きました。この寒さは最初私が私の馬車の窓が開いてるものと思ったほどです。彼女の居間に入ってくる私を見るなり。彼女は「おやまあ、どうやってその夜に来られたんですの?」と叫びました。この言葉で、私は気の毒な御者のことを思い出しました。そして私はガイドを取らずにすぐに馬車に戻り、出来る限り早く家に戻りました。それでも、私は気が動転していて、私は麻痺してしまいました。私は頭にオーデコロンをふりかけて血液の循環を良くしようと思いました。そうでもしなければ、私は気が狂っていたでしょう。

私がびっくりしたのは、この厳しい寒さでも一般の人々にはあまり影響がないということです。この結果健康に支障はほとんど無いのです。ロシアでは百歳以上の人が他の国よりも多いのです。モスクワと同じように、サンクト・ペテルスブルグでも、帝国の大貴族や著名人は六頭立てか八頭立ての馬車に乗っています。左馬騎手は浅いが、十歳ぐらいの男の子でが実に巧みに馬をあやつります。馬は二頭から八頭です。こんな小さい子供が薄着で胸のところをはだけていることもあります。フランスやプロシアの擲弾兵をニ、三時間で殺してしまうような寒さに肌をさらしても、この子たちは平気なのです。私はといえば、二頭の馬車で満足していましたが、私が驚いたのは、御者の従順さです。どんなに厳しい気候でも決して不平を言うことなく、劇場や舞踏会でのご主人の帰りを待っています。彼らは身動きせずに、じっと坐っています。足が凍りつかないように、足で箱をけるくらいです。左馬騎手の男の子は馬車の踏み台に坐っています。しかしながらこういうこともあります。馭者は主人から毛皮のコートや手袋を支給されており、さらに寒さが尋常でない場合には、パーティーや舞踏会を主催した主人が彼らに強い酒を振る舞いますし、さらには庭やが街で、木を支給して焚き火をさせます。

ロシアの平民たちは一般に醜いのですが、彼らの振る舞いは簡素で品位がありますが。彼ら世界でいちばん善良な人々です。一番人気なるものはウォッカすが。酔っぱらいはいません。この階級のロシア人はポテトとニンニクに油で調理したものとパンで生活しています。ですから。毎週土曜日に一回は風呂に入りますが、彼らは臭いのです。こんな食事でも、彼らは仕事をしてるときや船を漕いでいるときには大声で歌います。ド・カステルー侯爵が革命の始まりについて、私の家で話したことを思い出します。「彼らが絆から解放されたら、彼らはもっと不幸になるだろう。」この季節は隙間風が入らないように、まだ詰め物がしてありました。ロシアでは春はありません。しかし、植物は急いでその埋め合わせをします。文字通り、木の葉は見るまに大きくなります。五月の終わりのある日、私は娘といっしょに「夏庭園」に散歩に出るました。私たちはその成長にの速さに関して、聞いていたことを確かめたくて、まだつぼみの低木の葉っぱに注目しました。私たちがずっと歩いて最初のその場所に戻ってきました。そのつぼみは開き、葉っぱは完全に開いていました。

ロシア人は、その季節にあった娯楽をして過ごします。厳寒の気候の時には橇のパーティーを日中でも、夜は松明をともして楽しみます。中央によっては雪の山を築き並外れたいいので滑りおりますが、ケガもしません。山の上から人を押して下の方では受け止めるの職業にしてる人もいます。

見物して最も興味深い儀式はネヴァ川の祝福です。この儀式は一年に一度行われます。皇帝、皇室、政府高官の出席のもとで祝福を与えるのは大修道院長です。この時期にはではの交流は、少なくとも三フィートの厚さですので、穴が開けられます。皆が、儀式の終わった後の神聖な水を汲みます。女たちが小さな子供を水の中に入れるのもみます。母親が子供の手をはなしてしまい、この迷信の犠牲にしてしまう不幸な出来事もあります。がし子供を亡くしたことを嘆く代わりに、彼女のために祈ってくれる天使になったことを感謝するのです。皇帝は最初の水をいうがあります。この水を差し出すのは大修道院長です。

すでに申し上げたように、サンクトペテルスブルグの街は非常に寒いのです。ロシア人たちは彼らの部屋を春のように、暖かくするだけでは満足しません。部屋には窓網戸を並べ、フランスでは五月に咲く愛らしい花を植えた箱や壺をおきます。冬の部屋は非常に念入りに照明されています。部屋はミントの入った熱いビネガーで、匂いが付けられ、気持ちのいい、健康的な香りがします。部屋には男も女もす一緒に触れる長くて広い長椅子が置いてあります。この長椅子になれたために、しばらくは普通の椅子に座れませんでした。

ロシアの貴婦人はお辞儀します。私には、私たちの作法よりも威厳があって優雅であるように思われました。召使いを呼ぶときに彼女達は鈴を鳴らしません。その代わりに両手を叩いて合図します。ハーレムではサルタン達がこうするという話です。ロシアの貴婦人は今の扉に正装した召使いを置いています。彼は訪問客に扉を開くために、いつもそのその場所にいるのです。その当時、名前を告げないのが習慣でした。私にいまだに奇妙なことはベッドの下に女の奴隷を眠らせている貴婦人が何人かいたことです。
ロシア人は、知的で有能です。彼らはどんな仕事でもたやすく覚えてしまいます。芸術の世界で成功した人もいます。ストロガノフ伯爵邸でのことです。私はある建築家を見かけましたが、この人は以前伯爵の農奴でした。この若者は非常な才能を示しましたので、伯爵は彼を皇帝ポールに紹介しました。皇帝をは彼を宮廷建築家の一人に加え、彼が設計し提出したプランに基づき、劇場を建てるように命令しました。私はこの劇場を見ておりませんが、非常にきれいな建物だそうです。

芸術的農奴に関しては、私は伯爵ほど幸運ではありませんでした。私には男の召使いがいませんでした。私がウィーンから連れてきた男に盗まれたからです。ストロガノフ伯爵は私に一人の農奴をくださいました。彼は伯爵の嫁が絵を気慰みで描いているとき、彼女のパレットの準備をし、彼女のブラシを洗っていたということです。同じような目的で私がこの若者を使いましたが、二週間私のお手伝いをしたならば、絵描きにしてあげると言いました。

それからというもの、伯爵を説得して、彼を解放させ、美術アカデミーの学生にするために奔走しました。伯爵は何通かこの問題に関して手紙を書いてきました。伯爵は私の要求を受け入れましたが「まもなく彼は返ってくるでしょう」と言いました。私は若者に二十ルーブル伯爵も少なくとも同額を彼に与えました。彼は直ちに画学生の制服を買いに行きました。そしてその格好で意気揚々として、私にお礼を言いに来ました。二ヶ月後に彼は大きな家族肖像画を持ってきました。その出来映えは実にひどく、見るに耐えないものでした。この若者はかわいそうに、ほとんど謝礼をもらえずに費用を支払った後に八ルーブルの金を失ったのです。伯爵が予見していたように、彼はその自由を放棄し、主人の家に戻ることになりました。

召使いたちの知性には顕著なものがあります。一言もフランス語を知らない。使いがいました。同様に私はロシア語を知りませんが、通訳なしで互いに完全に理解しあうことができました。手を挙げて私はイーゼル、絵の具箱を頼みました。他のジェスチャーで私が入り用のものを頼みました。彼はいつも私の意味を汲み取り、私にとって非常に重要な人でした。私が発見した彼の非常に貴重な性格がありました。彼はどんな誘惑に負けない正直な人物でした。私の部屋の謝礼として、小切手が送られてくることがよくありました。私で忙しいとき、そばの机の上に置いておきました。ことが終わると、私は決まってその小切手を持っているのを忘れたものです。時には参与がそのままにしてありましたが、一枚も抜き取られていたことはありません。さらに彼はお酒を全く絶っていました。私は彼が酔っているのを見たことがありません。この良き召使いの名前はピョートルでした。私がサンクトペテルスブルグを出すとき、彼は泣きました。私はずと心から彼と別れたことを残念に思っています。

ロシアの人々は、生まれつき正直で優しいのです。サンクト・ペテルスブルグやモスクワで大きな犯罪はもちろんのこと、盗難の話も聞いたことがありません。野蛮人同然のこの人たちの驚くべき善良で静かな行動は、農奴制のもとで生活してるから、というのが多くの人たちの意見です。私はロシア人が非常に信心深いからだと思います。

私がサンクトペテルスブルグに到着してまもなくのことです。私は旧友であるストロガノフ伯爵の嫁に会いに田舎の別荘に行きました。カミノストロフの別荘はネバ川周辺の街道の右手にありました。私は馬車からおり、庭園に入る小さな木戸を開け、一階にある部屋に着きました。その部屋のドアは開いておりました。ですから、ストロガノフ伯爵庭に入るのは、大変簡単なことです。入っていますと、彼女は居間にいました。彼女私に部屋を見せてくれました。彼女の宝石がすべて庭を見通せる窓の近くに置いてありました。道路に非常に近いところにあるわけです。これには私はびっくりしました。ロシアの貴婦人たちがダイアモンドや装飾品を大きなケースに入れて飾ってあるのは、まるで宝石商の店のようで、私にはすごく不用心に思われました。

私は「伯爵夫人、盗まれる心配をされたことがないのですか?」とたずねました。「いいえ」というのが彼女の答えでした。「警察がしっかりしてますからね。」として、彼女は宝石箱の上にある処女マリアやロシアの守護聖人である聖ニコラスの像を指さしました。その前にはランプが燃えていました。私が七年半ロシアで過ごしましたが、処女マリアか聖人の像それに、子供の像がありましたが、ロシア人にとって、神聖な何者かであるのをこの目で見てきました。

庶民が人に話しかけるときは、ただ年齢によって、お母さん、お父さん、お兄さん、お姉さんと言います。この言葉は皇帝や皇后それに皇室全体にも使われるのです。大衆の上の階級には快適な環境にある人が数多くおり、非常に裕福な人もいます。商人の妻は衣装に大金を使いますが、これが家計を圧迫しているようにはみえません。特に頭の飾りは綺麗で粋なものです。帽子の耳覆いは小さな真珠が縫いつけてあり、広い布が頭から肩そして背中をまで垂れ下がっています。そのベールが顔の影になります。どうしてだかわかりませんが、彼女たちは顔を白か赤で塗り、おかしな眉毛を描いているから、これは絶対に必要です。

サンクトペテルスブルグに五月がやって来ても、春の花で風が香ることも無ければ、詩人な賛美するナイチンゲールの歌も聞こえません。地面はまだ半ば溶けた雪で覆われています。ドーガ川がでは川に巨大な岩のような氷の塊をもたらし、互いに積み上がります。この氷の塊でネバ川の氷が割れるとともに和らいだ寒さがまた戻ります。

この流氷は素晴らしい恐怖と呼ばれています。その音は凄まじいものです。ネバ川は、取引所のそばでポン・ロワイヤルのセーヌの三倍もの広さになります。この氷の海がすべての場所で、割れるときの効果を想像してみてください。すべての波止場には氷の上を跳んで渡ることは禁止の通達が張られているにもかかわらず、勇敢な人は敢えて動いている氷の上に挑み、川を渡ろうとします。この危険な貢献をする前に、彼らは十字を切り、もし死んだとしても、それが運命だと自分に言い聞かせて飛び出します。ボートで新記録で最初に渡りきった人はネバ川の水の入った杯を皇帝に献呈します。皇帝はそのお返しに杯に金を入れます。

夜には私は社交界に出掛けました。数多くの舞踏会、コンサート、劇がありました。私はいつもこの催しに参加しました。そこでフランス人の仲間たちの洗練された、優雅な振る舞いを見ました。パリから、サンクトペテルスブルグまでいい趣味が飛んできたような気がしました。ここでは来客のもてなしに事欠くことはありませんでした。どこにでも、非常に親切にもてなしてくれました。八時に集合して、十時に食事が始まります。この間他の国同様にお茶を飲みます。ロシアのお茶は上等です。私はこのお茶が合わなくて、控えておりましたが、その香りを吸い込むのが楽しみでした。私をお茶の代わりに蜂蜜水を飲んでおりました。この素敵な飲み物には上質の蜂蜜とロシアの森で摘んだ小さな果物が入っています。この飲み物は瓶に詰める前に一定期間、地下室に寝かされています。リンゴ酒、ビール、レモネードとは比べ物にならないほど美味しいのです。

第八章 終わり

第9章  エカテリナ

私が何ヶ月も外では冷たい空気、内ではストーブの空気を吸った後、夏の到来を知り大喜びし、サンクト・ペテルスブルクの美しい郊外を急いで満喫したいと思いました。私はペルゴオラ湖に空気浴にロシア人の召使いを連れて出かけました。私は澄んだ水をながめました。水は湖岸の樹々を映していました。その後近くの高台に登りました。一方の地平線は海でした。太陽に照らされた帆を見ることができました。静けさがあたりを支配し、それを破るものは千羽の鳥のさえずりと遠くの鐘の音でした。澄んだ空気と絵のように美しい自然に魅了されました。忠実なピヨトルは私の食事を暖め花を集めてくれました。私はフライデイと共に島で過ごしたロビンソン・クルーソーを思い出しました。

かなり暑いときには娘といっしょに朝の散歩にクレストフスキー島に出かけました。この島の最先端は海と一緒になり、海には大きな船が航海していました。夜にロシア人の農民の踊りを見に出かけたこともあります。彼らの民族衣装は絵になるものでした。サンクト・ペテルスブルク一帯の大変な暑さについて、記憶しています。いつだったかイタリアよりも暑い七月のある日のことでした。私はドルゴルキ公女のお母様である。バリアティンスキー夫人と会いました。かっては天使のように愛らしく聡明であり、活発な知性の持ち主で、サンクト・ペテルスブルグでも有数の魅力的な女性でした。彼女は地下室に落ち着き、お付きの女性が階段の下に座り、本を静かに朗読していました。

その後クレストフスキー島に戻りました。ある日、ボートに乗っていたとき、水浴びをしている男女の群れに出会いました。遠くから若い男たちが裸で、馬に乗っているのが見えました。彼らは馬を水浴びさせていたのです。他の国だったら、これを見た人はびっくりするでしょう。しかしロシア人は本来天真爛漫なです。冬になると、夫婦と子供たちはいっしょに暖炉の上で寝ています。暖炉が小さいときには、木製のベンチに横たわり、羊の皮をかぶっています。こんな善良な人たちが古くからの家父長制の習慣を守ってきたのです。

とりわけ楽しかったのはゼラギン島での散歩でした。かっては美しい庭がありましたが、現在では放置されています。それでもまだ美しい樹々、愛らしい通り、寺院があり、大きな柳の木、美しい花、小川に囲まれていました。それにイギリス風の橋がありました。散歩を満喫するために私はネバ川の堤に面した小さな家を借りました。この家の立地の良いところは気晴らしに事欠かないことでした。絶え間なく川を上り下りするボートから、歌や笛の演奏が聞けることでした。

砲兵隊の指揮官メリッシモが近所に住んでいました。この方のご近所に住んで私は幸せでした。彼は非常に善良で親切な人でした。彼は長期間にわたってトルコに住んでいましたので、彼の家はオリエンタル風の豪奢な家でした。上から光が入る浴室があり、中央には10人以上入れるお風呂がありました。階段で水の中に入れました。水浴びが終わった後、体をふくリンネルが金色の浴場の手すりにかけてありました。リンネルには刺繍がしてあり、インドの香料が入っていました。刺繍の重みで、香料が肌にしみつきました。これは優雅でした。部屋の周りには幅のある長椅子があり水浴後、寝そべることができました。ドアの一つは小さな素敵な居間につながっています。この今から芳しい花床が見下ろせました。窓の高さに届く花もありました。この部屋で将軍は果物、クリーム・チーズ、最高級のモカ・コーヒー、このいずれもが王女になった気分で、私の娘は大喜びでした。

さらにもう一度、彼は素晴らしい晩餐に招待してくれました。彼は外国滞在中に持ち帰ったトルコのテントで晩餐を催してくれたのです。テントは家に面した芝生の上に張られました。十二人がテーブルに腰掛けました。デザートには美味しい果物が出て来ました。晩餐はすべてアジアのメニューで、将軍の素晴らしい礼儀作法で趣がいっそう加わりました。私はテーブルに腰をかけたとき近くで大砲を撃たないように願いましたが、これはどの将軍にも習慣になってることだそうです。私はこの家を借りたのは一夏限りでした。次の年は、若きストロガノフ伯爵がカミンストロフの家を貸してくれました。私は大層気に入りました。毎朝、私はひとりで近くの森を散歩し、私の隣人であるゴロヴィン伯爵夫人と夜を過ごしました。ここで私は若きバリアティンスキー公、タレント公女それに気のあった多くの人たちと出会いました。ここでおしゃべりしたり朗読を聞いたりして夕ご飯まで過ごしました。事実、時間は非常に快適に過ぎていきました。

ロシアの人たちは、エカテリナ女帝のもとで幸福に暮らしていました。貴賤を問わず聞きましたが、この国の栄光と繁栄は、この方のお陰だということです。私は、ロシアの国の誇りである征服については語るつもりはありません。私はただ、女帝が人々に成し遂げた善政についてお話ししたいと思います。彼女の34年間に及ぶ治世で、彼女の素晴らしい才能のおかげで有益なこと偉大なことすべてを成し遂げました。彼女はピョートル一世のモニュメントを立てました。彼女は、237の石造りの町を建設しました。彼女によれば、何度も火事に会うから、木造の村はかえって高くつくというのです。彼女は海を艦隊で覆いました。彼女は至る所に工場や銀行を設立しました。これはサンクト・ペテルスブルグ、モスクワ、トボリスクの交易に役立ちました。彼女はアカデミーに新たな権限を与えました。すべての町や村に学校を創りました。運河を掘り、花崗岩の採石場を創り、法律を整備し、孤児院を創設しました。最後に、ワクチンの恵みを導入しました。彼女の強い意志と、人民への奨励により、ロシア人たちに受け入れられました。彼女は最初に接種を受けました。
この事件の悲しみが原因となりエカテリナの時代が短くなったかどうかは分かりません。ロシアはやがて彼女を失うことになります。彼女の死去の前の日曜日のことでした。エリザベス大公女の肖像画を持って陛下にお目にかかりました。彼女は私の作品を褒めて「孫娘たちは私に肖像画を書いてもらえと言っています。私は齢を取っているからというのですが、孫娘たちがどうしてもというならば、来週の今日にでもポーズを取ることにしましょう。次の木曜日のことです。彼女はいつものように九時に鈴を鳴らしませんでした。ついに女中頭が部屋の中に入りました。女帝が部屋にいないので、衣装部屋に行きました。部屋を開けると、エカテリナが床に倒れていました。何時に卒中の発作を起こしたかは分かりませんでした。脈はまだありましたが、絶望的でした。このような悲報がかくも早く広がるのは経験がありません。私に関しては、この恐ろしい知らせを受け取って苦しみました。私の娘は病気から回復中でしたが、私が意気消沈しているのを感じ取り、また病気になってしまいました。

食事をすませて、私はドルゴルキ公女のもとに急ぎました。コベンツエル伯爵が宮廷からの知らせを10分ごとに伝えてくれました。われわれの不安は増すばかりでした。誰もが耐え難いことでした。国を挙げてエカテリナを崇拝していたというだけではありません。パーベルの治世になることを恐れていました。夕方にパーベルは、サンクト・ペテルスブルグ近郊の宮廷から到着しました。母親が意識不明で横たわっているのを見て、自然な感情に戻ったのでしょう。彼は女帝に近寄り、手にキスをし、少し涙を浮かべました。エカテリナ二世は1796年11月17日に逝去しました。コベンツエル伯爵は女帝が息を引き取るのを見届け、女帝が逝去したことを伝えてくれました。

正直なところ、パーベルに対して革命があり得るという噂がありましたので、私は恐怖におびえだドルゴルキ公女を放ってはおけませんでした。帰宅途中、宮廷の広場の大勢の群衆を見ても慰めにはなりませんでしたは。それでも、人々は非常に静かで、当面恐れることは無いと信じました。次の朝、民衆は同じ所に集まりエカテリナの窓の下で、張り裂けんばかりの泣き声で哀悼の心を表しました。老いも若きも、そして子供までも「マツーシャ」(お母さん)に呼びかけ、すすり泣きながら、何もかもなくしてしまったと嘆きました。玉座につく皇太子を考えて、この日は一層悲しいものでした。

女帝の一帯は宮殿の大きな部屋に6週間置かれました。部屋は昼も夜も明かりがともされ、豪華に飾られました。エカテリナは女帝の安置所に置かれ、帝国のすべての都市の紋章で囲まれていました。彼女のお顔は覆いがとられ、美しい手は、ベッドの上に置かれていました。遺体のそばで、順番に詣でた貴婦人たちはすべて膝まずきその手にキスをするか、そのふりをしました。私は彼女の生前に手にキスをしたことはなかったのですが、ためらわずにキスしました。私はエカテリナのお顔を見ないようにしました。見たら、一生悲しい思い出が残ると思ったからです。

母親の死後、パーベルは直ちに父親のピヨトルの死体を掘り起こしました。ピヨトルは35年間、アレクサンドル・ネフスキー修道院に埋葬されていました。質疑の中にあったのは、骨とピヨトルの服の袖だけでした。パーベルは父親の遺体にもエカテリナ同様の敬意を表したかったです。彼は棺をカザンの教会の中央に置き、ピヨトル三世の老いた士官や友人たちに通夜をさせました。パーベルは通夜に来るように圧力をかけ、ピヨトルに最大限の敬意を表しました。

葬儀の日が来ました。ピヨトル三世の棺の上には冠が置かれ、エカテリナの棺の脇で、葬儀は盛大に行われました。二人の棺は砦に運ばれました。母親の亡骸を粗末にするのがパーベルの願いでしたので、ピヨトルの棺が先でした。

私は窓からこの壮麗な行進を眺めていました。まるで劇場のボックス席から、お芝居を見るようでした。皇帝の棺の前を進む近衛騎兵は上から下まで黄金の鎧を着ていました。女帝の棺の前を進む兵士は鋼鉄の鎧を着ていました。ピヨトル三世の暗殺者達はパーベルの命令により、棺をかつぐ役でした。

新皇帝は冠もかぶらず、后と多くの宮廷の人々と一緒に歩いて行進しました。全員喪服を着ていました。女性たちは長いすそと真っ黒なヴェールを着ていました。彼らは気温が低く、雪が降るなか、宮殿から砦まで歩かなければなりませんでした。この砦にロシアの二人の君主が安置されることになりました。ネバ川の向こう岸にあり、長い距離でした。

6カ月の喪が命じられました。女たちは髪の毛を引き詰めるられました。女の被りものは額の所まで下げられましたが、見栄のしないものでした。しかしこの程度の不便は、女帝の死がもたらした帝国全体の不安に比べれば、取るに足りないものでした。これらすべての善政にエカテリナ自身が関わっていました。彼女は誰にも実権を握らせませんでした。彼女は命令を口述して大臣に急使を送りました。大臣たちは実質上彼女の秘書にすぎませんでした。私が腹立たしいのは、ダブランテ公爵夫人です。彼女は最近エカテリナについて著作を発表しました。彼女はド・リーニュ公やセグール伯爵の著作を読んでいないのか、論駁の余地のないと思う二人の証言を信用していないのでしょうか。彼女が読んでいたなら女帝の統治者としての卓越した資質を評価し、尊敬したでしょうが。女として同性の女帝を誇るべきですのに、ダブランテ公爵夫人は彼女に関する回想録に注意を払ってはいません。

エカテリナは偉大なる芸術の愛好者でした。エルミタージュでヴァティカンの部屋に匹敵する部屋を建築しました。これらの部屋をラファエロの50枚の絵で飾りました。美術アカデミーを古代の彫像の石膏像と数多くの画家達の絵で飾りました。彼女が宮廷近くに建てたエルミタージュはあらゆる点で趣味の良さではお手本というべきで、サンクト・ペテルスブルグの不細工な宮殿がいっそう見栄がしなくなりました。彼女はフランス語の文章が上手いことはよく知られています。サンクト・ペテルスブルグの図書館で私は見ましたが、ロシア人のために制定した法律の自筆原稿がありました。これらすべて彼女が自筆でしかもフランス語で書いたものです。聞くところによると、彼女の書体は上品で正確です。思い出すのは、彼女の簡潔な表現の一例です。スバロフ将軍がワルシャワの戦いで勝利したとき、エカテリナは直ちに使者を送りました。使者が幸せな勝利者に届けたのは、「スバロフ元帥へ」という彼女の直筆の封書だけでした。

この絶大なる権力を持った女性は家庭では、気取ることなく、気むずかしくもありませんでした。彼女は朝五時に起き、火をともし、自分でコーヒーを沸かしました。こんな話もあります。ある日彼女は、煙突掃除人が煙突に上っているのに気づかず火をつけました。煙突掃除人はまさか女帝が火をつけたとは思いもよらず、彼女に汚い罵りを浴びせかけました。こんな扱いを受けても、彼女は急いで火を消し、失礼な言葉にも笑ってすごしました。

朝食のあと女帝は手紙を書き、その間、伝令を待たせて9時まで執務室に閉じこもっていました。彼女は鈴を鳴らして召使いを呼びました。召使いは鈴に応えないことがありました。ある時、待ちくたびれて我慢がならず、召使いの部屋の扉を開きました。そこで連中は座り込んでカードをしていました。鈴を鳴らしたのに、なぜ来ないのかとたずねました。一人が澄まして「カードが終わっていません」と答え、カードを続けました。別の話になりますが、ブルース伯爵夫人は女帝の部屋にいつでも入ることを許されてました。彼女がある朝女帝の部屋に入ったときのことです。女帝は化粧室でただ一人でした。「陛下お付きのものはいないのですね」と伯爵夫人は言いました。「どうしていいかわからない」と女帝は答えました。「女中たちはみんな帰ってしまったのよ。私は、全然合わないドレスを着ようとしてかんしゃくをおこしてしまってね。そうしたら、全員私を残して帰ってしまったのよ。誰一人いないわ。女中頭のレイネットまでも。あの娘たちが機嫌を直すまで待っているのよ」

夜になると、エカテリナは宮中でお気に入りの人たちを呼び出すこともありました。彼女は孫を呼んでは、鬼ごっこやスリッパ隠しのようなお遊びをしました。10時には就寝されました。ドルゴルキ公女はお気に入りでした。彼女によれば、女帝のおかげでパーティーが非常に盛り上がり楽しいものになったそうです。スタヘルベルグ伯爵.やセグール伯爵は、エカテリナの小さなパーティーに招待されました。女帝がフランスと国交を断絶し、フランス大使セグール伯爵を退去させるに際し彼女は深い遺憾の念を表明しました。「でも私は君主です。それぞれお役目がありますからね」と言いました。多くの人は、エカテリナが死去したのは、彼のも孫娘であるアレクサンドリナ皇女とスウェーデン国王との結婚の失敗での失望が原因だということです。国王は叔父にあたるスーデルマニア公爵といっしょに1796年の8月にサンクト・ペテルスブルグを訪問されました。彼がまだ17歳でしたが、背が高くて気品があり、若さにもかかわらず尊敬されていました。良い躾を受けていましたので、彼は非常に丁寧な人でした。彼が結婚しに来た皇女は14歳で天使のように愛らしく、彼はたちまち恋に落ちました。私が記憶していますが、彼が私の家に来て、未来の花嫁の肖像を見たときのことです。彼はうっとりとして眺め手の帽子を落としてしまいました。

女帝は、なによりもこの結婚を願っておりました。しかしながら彼女は、ストックホルムの宮殿にロシア正教のチャペルを持ち、ロシア正教の僧侶を駐在させることを主張しました。しかしながら、若き国王は、アレクサンドリーナ皇女を愛しながらも、彼の国の法律をおかずことには同意しませんでした。エカテリナが、大司教を呼び、夜の舞踏会の後に婚約を発表することを知り、ドゥ・マルコフ氏が繰り返し催促しましたが、国王は舞踏会には欠席しました。その当時私は、ディートリヒシュタイン伯爵の肖像画を手掛けておりました。二人で何度も窓に行き、若き国王が要請におれ、舞踏会に出かけるかどうかを見守りました。しかし彼は現れませんでした。結局、ドルゴルキ公女によれば、全員が集まっていたとき、女帝は彼女の部屋のドアを半分開き、悲しげに「皆さん、今晩の舞踏会はありません」と言いました。国王とスーデルマニア公爵は次の朝サンクト・ペテルスブルグを後にしました。


第9章終わり

第10章  皇帝パーベル

皇帝パーベルは、1754年10月1日に誕生し、皇位を継承したのは1796年12月12日でした。エカテリナの葬儀に関して私が述べたことで、新皇帝が国民とともに悲しんでいなかったことの証拠になります。周知のことですが、ニコラス・ズーボフに聖アンドリュー勲章を授けました。彼は皇帝の母の死去のニュースを伝えたからです。パーベルは賢く、博識であり、精力的でした。しかし彼の気まぐれはほとんど狂気に近いものでした。この不幸な皇帝の寛大な感情はしばしば残忍な感情の爆発でした。寛容であるかと思えば怒り、思いやりがあるかと思えば、恨みというもので、全く気まぐれでした。

ある晩私は宮廷の舞踏会にまいりました。男女ともに黒いドミノ仮面をつけていましたので、誰もが皇帝も仮面をつけているものと思いました。二つの部屋の間の出入り口は人ごみで混雑していました。ある青年が急いで通り過ぎてある女性に肘で押してしまいました。パーベルは直ちにお付きの士官に「あの男を要塞に連れて行け、戻ってきたら、あの男が牢獄に入っているかどうか報告せよ」と命じました。士官はすぐに戻ってきて皇帝の命令を実行したことを報告しました。彼は「しかしながら陛下、申しあげますが、あの青年は近眼です。ここに証拠がございます」と言いました。彼は持参した囚人の眼鏡を取り出しました。パーベルは、眼鏡を調べ、納得し、興奮して言いました。「すぐに出って、あの男を両親のも取り戻せ。あの男が家に戻ったという報告を聞くまでわしは寝ないぞ」

パーベルの命令に少しでも逆らえはシベリアに流刑されるか監獄行きでした。狂気と気まぐれがどこまで進行するか予測できず、人々は恐怖の中で生活していました。やがて、人々はの仲間を家に招待しないようになりました。数人の友人がいても用心深くシャッターを閉めました。舞踏会があった時も馬車は家におくり返されました。注目を引かないためです。すべての人の言動は監視され、私が聞いたところでは社交界には必ずスパイがいるということでした。皇帝の噂は互いに控えていました。私の記憶ですが、ある日私は小さな集まりに出掛けました。私を知らないある貴婦人があえてこのことを話題にしました。ですが、この方は私が部屋に入るのを見るなり、話を打ち切りました。ゴロヴィン伯爵夫人はやむなく、彼女に続けるように言いました。「怖がらないでお話しください。マダム・ルブランです」エカテリナのもとで生活してきたあとでは、誠に息苦しいものでした。エカテリナは自由にものをいうことを許してくれたからです。

パーベルがやってきた無駄な暴政の例を上げたしたら、きりがありません。たとえば、彼はすべての人が宮殿に向かってお辞儀をするように命令しました。たとえ彼が不在であっても。丸い帽子の着用は禁じられました。彼にはそれがジャコバン主義の象徴に見えたのです。警察官は丸い帽子を見るや、杖で払いのけました。こんな法律を知らない人たちは帽子を脱がされて、非常に困りました。一方ではすべての人がパウダーを使うように命令されました。この法律が制定されたとき、私は若きバリアティンスキー公爵の肖像画を描いていました。彼はパウダーをつけないで来てくれという私の要求に同意しました。ある日彼は死人のように青ざめてやってきました。「どうされました?」と私は尋ねました。彼は「私は皇帝に今会ってしまった」と震えながら答えました。「扉に隠れる暇もなく、皇帝が私を見つけるのではないかと死ぬほど怖かった」バリアティンスキー公爵の恐怖はもっともでした。すべての階層の人たちが同様でした。サンクト・ペテルスブルグの住人で、ベッドで一晩眠っても、次の晩、眠れる保証はありませんでした。

私自身断言できますが、人生で一番恐ろし体験をしたのはパーベルの治世下の時代です。だしはある日、その日を過ごすためにペルゴオラに出掛けました。同行したのは私の馭者のムッシュー・ド・リヴィエールと忠実なロシア人の召使いピヨトルでした。ムッシュー・ド・リヴィエールが鳥やウサギを撃つために猟銃を持っていました。ところで彼は、そんなに獲物を仕留めませんでしたが。突然私は気がつきました。食事を調理するためにつけた火が木に燃えうつり非常な勢いで広がっていきました。木々は密集していますし、ペルゴオラは、サンクト・ペテルスブルグに近いのです!私は恐怖で、叫び声をあげムッシュー・ド・リヴィエールを呼びました。恐怖もあって、私たちはこのを消すことに成功しました。手にひどい火傷をしましたけれども。皇帝やシベリアを思い浮かべました。私たちがどれほど熱心だったかは、ご想像いただけると思います。

パーベルで思い出す恐怖は、一般的な事実から申しあげていますが、私自身に対しては礼儀正しく思いやりのある方でした。私がサンクトペテルスブルグで、最初に彼にお会いしたときのことです。彼がパリを訪問されたとき、私は彼にお会いしていたのです。彼は覚えて下さっていました。私はそのころまだ若かったし、それ以後ずいぶん時間が経っていますので。このことを忘れていました。彼は顔と名前を覚える才能を持ち合わせていました。彼の治世で奇妙な法令の中で順守するのが厄介なのがありました。皇帝が通り過ぎるとき、男女ともに馬車から降りるというものでした。ところでパーベルは非常にサンクトペテルスブルグの街に出掛けました。彼はいつも街を通っていました。わずかなお付で、馬に乗っていることもあり、付き添いなしで、それに乗っていることもありました。彼であるという前触れは何もありません。それでも彼の怒りにふれないように、彼の命令に従わなければなりません。同意していただけるでしょうが、飛び降りて、どんなに寒くても雪の中に立っているのは残酷でした。ある日外に出かけた時のことです。馭者は、彼が近づいてくるのに気がつきませんでした。「止めて皇帝よ」と叫ぶのもありませんでした。私のドアが開いて、私が降りようとしたとき、皇帝自らソリからおり、私を礼儀正しく止めました。命令は外国の貴婦人とりわけ、マダム・ルブランに出したものではないと言いました。

パーベルの気まぐれな寵愛はいつまでも続くとは限りません。趣味や愛好でこれほど変わりやすい人はいないからです。治世の初期にボナパルトを嫌っていました。後に彼はボナパルトに親愛の情を抱くようになり彼の肖像画を個室に飾り、皆に見せていたのです。彼の好き嫌いは長続きしませんでした。ストロガノフ伯爵だけが例外でした。宮廷人で皇帝に気に入られているのは誰もいませんでした。彼のお気に入りはフランスの俳優フロジェールでした。才能は無くはないが、世渡りが上手な方でした。フロジェールは皇帝の書斎にいつでも予告なしに出入りすることができました。二人が腕を仲良く腕を組んで庭園を散歩しているのを見かけました。話題はフランス文学です。パーベルはフランス文学とくにドラマに憧れを持っていました。この俳優は宮廷の小さな集まりに招待されました。冗談には才能がありました。彼は大貴族も冗談のネタにしましたが、これが皇帝を大いに喜ばせましたが、ネタにされた人達にはそれほど面白くもないものでした。

大公殿下達もフロジェールの悪ふざけから逃れることはできませんでした。事実パーベルの死後彼は宮廷に出入りしなくなりました。アレクサンドル皇帝はモスクワの街をひとりで歩いてをられました。皇帝は彼に会い、「フロジェール」と気楽に声をかけました。「君はなぜ私の所に行いのかね?」フロジェールは、ホッとして答えました。「私は陛下の住所を存じありませんでしたので」と答えました。この冗談に皇帝は大笑いし、このフランス人の俳優に給料の未払いを気前よく出しました。この哀れな男は、怖くて請求できなかったんです。

長い間パーベルと関係があったので、フロジェールが君主の恨みを恐れたのは、至極もっともなことです。パーベルは復讐心に燃えていたからです。彼の暴政の大部分はロシア貴族に対する憎しみに由来するものです。パーベルはエカテリナの生存中彼らに恨みを抱き続けていきました。この憎しみのはあまり有罪と無罪を混同し、彼が追放しなかった人たちを卑しねては喜んでいたのです。一方外国人とくにフランス人には、非常に親切でした。証言しておかなければなりませんが、彼はフランスからの旅行者や亡命者に対して非常なもてなしをしました。

フランス人の中には非常に気前よく援助してもらった人がいます。たとえば、ドティシャン伯爵の例です。彼はサンクト・ペテルスブルグで、無一文でやってきました。彼は小さくて弾力性のある靴を作ることを思いつきました。私は一足買いましたが、それをドルゴルキ公女邸で宮廷の女性たちに見せました。彼女たちは素敵だとい、亡命者の胸部に対する同情もあって、たちまちたくさんの靴の注文ということになりました。この靴は皇帝の目にとまることになりました。皇帝は、この職人の名前を知るとすぐに彼を呼び出し、良い官職を授けました。あいにくそれは秘密の官職でしたので、ロシア人は怒りパーベルもドティシャン伯爵を長くそこにおけませんでした。しかし皇帝は、彼を貧困から守るために取り計らいました。

このそのことがあって、正直に申しますと、私は皇帝に甘えてしまいました。ところが、ロシア人にしてみれば、最高権力を持った狂人の途方もない気まぐれにより、いつも平安を脅かされていたのです。以前はのどかで平和な宮廷の恐怖、不満、ひそひそ話をお伝えするのは困難かと思います。確実に言えることは、パーベルの治世が続く限り、今日こそがその時代の秩序だったのです。いじめられた人が他人をいじめるように、パーベルの人生は決して羨ましいものではありませんでした。彼は刃か毒で死ぬと信じていました。この信念が彼を奇妙な行動に向かわせたのです。

昼夜を問わず、サンクト・ペテルスブルグの街を歩き回って一方で、彼は用心深くスープを彼の部屋で作らせました。その他の料理も同様に彼の秘密の部屋で調理されました。これらすべては忠実なキュタイソフが監視していました。彼は信頼できる付き人であり、パリにも同行した人物で、いつも彼に付き添っていました。キュタイソフは皇帝に限りなく献身ぶりであり、終生変わることはありませんでした。

パーベルは非常に醜い人でした。鼻は低く、口は大きく、歯が向き出ていました。まるで死の顔でした。目は時々優しいこともありましたが、ギラギラしていました。彼は中肉中背でした。全体としてある種の優雅さに欠けてはいないとしても、彼の顔は戯画を描きたくなるものでした。事実、このような娯楽は危険を伴いますが、それでも多くの戯画が描かれました。その戯画は両手に紙を持っているものでした。一枚には「命令」、もう一枚には「命令取り消し」、額には「異常」と書かれていました。この戯画について語るとき、私は震えがでます。危険な状態にある人のことを考えてしまいます。作者と購入者の両方です。

こんなことすべて申しあげましたが、サンクト・ペテルスブルクは一時滞在の画家にとっては、楽しくてお金儲けにはなる所です。パーベル皇帝は絵画の愛好家であり、パトロンでした。フランス文学の崇拝者であり、俳優には気前よく補助金を出しました。皇帝は俳優たちのおかげで、フランスの演劇の傑作の上演を楽しめたからです。

私の父の友人で、歴史画家のドヤンについては、私はすでに申しあげました。彼はエカテリナの時代同様、パーベルにも重用されました。ドヤンは当時高齢で、質素な生活をしていました。彼は女帝の申し出のほんの一部を受け取りました。皇帝はエカテリナ同様にしました。皇帝は、彼に内装がまだできていない聖ミカエル新宮殿の天井画を命じました。不安な仕事をしていた部屋はエルミタージュに近かったのです。パーベルと宮廷の人々はミサのためにそこを通りかかりました。皇帝はミサから戻るとドヤンに親しげに話しをしました。

今でも思い出しますがある日、皇帝のお付きの人がドヤンに話しかけました「少し眺めさせていただきます。あなたは描いてらっしゃるのは、太陽の戦車の周りを踊っている『時間』ですね。向こうに一つ見えます。他の『時間』は同じ大きさなのに.小さい気がしますが」ドヤンは冷静に答えました。「はい、おっしゃる通りです。でもあなたが指摘されましたのは『半時間です』」話しかけた人物は納得して、喜んで去っていきました。忘れずに記録しておかなければなりません。皇帝は、天井画ができあがる前に支払いをすましたかったのです。皇帝は、ドヤンに多額の紙幣を紙に包んで送りました。金額は覚えておりません。パーベルを自筆で書いていました「このお金で、絵の具でも買って下さい。油はランプにまだ残っているでしょうから」

私の父の旧友がサンクト・ペテルスブルグの生活に満足してるように、私も同様でした。私は朝から晩まで休む間もなく仕事をしました。日曜日だけは2時間仕事を休みました。私のスタジオみたい人たちがいましたし、その中には大公や大公妃もいましたから。すでに申しあげた絵やズラリと並んだ肖像画以外に、私がパリから取り寄せたマリー・アントワネット王妃の大きな肖像画がありました。彼女が青のビロードのドレスを着ている絵です。この絵に対する一般の関心で、私は嬉しく思いました。ド・コンデ公は当時サンクト・ペテルスブルグに滞在中でしたが、これを見て一言も発せず、涙を流しました。

生活環境の点において、サンクト・ペテルスブルクには何一つ不自由はありませんでした。まるでパリに住んでいるような気がしました。たくさんのフランス人がおしゃれな集まりにいました。私がリシューリュー公爵やド・アンジェラン伯爵に再会できたのはこんな場所です。お二人ともこの住人ではありません。一人はオデッサの知事、もう一方は常に軍事視察の目的で旅行しておられました。でも他のフランス人たちとは事情が違います。たとえば、私は愛らしくって優しいドゥクレ・ド・ヴィレヌーヴ伯爵夫人と知り合いになりました。この若い女性は愛らしいだけではなく、体格がよく、心の美しさから来る独特の魅力がありました。彼女とはサンクト・ペテルスブルグとモスクワでもお会いしました。私が思い出しますのは、ある日、彼女の所に食事に出かけた時のことです。こんなことはロシアでは珍しくありません。しかしびっくり仰天したのはドゥクレ・ド・ヴィレヌーヴ伯爵がソリで私を迎えに行たのです。非常に寒かったので、私の額は凍ってしまいました。私は恐怖で「私はもう何も考えることができない!」と叫びました。ムッシュー・ド・ヴィレヌーヴは店に連れていき。そこで私の額を雪でこすりました。この治療法はロシア人が同じようなときに使っているものです。私の心配ははたちまち消えました。

私をこんなに大事にしてくれたロシアの人たちをおろそかにはしませんでした。私のフランス人の友人や私のロシア人家族との関係をは、親密になるばかりでした。すでに申しあげた多くの人々以外にも、私はムッシュー・ディミドフにお会いしました。彼はロシア有数のお金持ちの紳士です。彼の父親は彼に鉄や水銀の鉱山を遺しました。政府向けの巨大な売り上げで、ますます財産を増やしました。彼の途方もない財産のおかげで、ロシア有数の古くからの貴族のストロガノフ家の令嬢、マドモアゼル・ストロガノフと結婚することができました。この結婚は上手くいき、二人の男の子が生まれました。一人はほとんどパリで過ごしており、もう一人は絵画の愛好家です。

皇帝は私に方法の肖像画を制作するよう命じました。彼女がタイヤの冠をかぶり礼服を立像を描きました。私はダイヤモンドを描くのが嫌いです。筆はその輝かしさを表せないのです。それでも背景に大きな深紅のビロードのカーテンを置き、冠を出来る限り輝かせるのに成功しました。私が細部を完成させるために絵を家に送りました。皇后は礼服とそれについている宝石類を私に貸すと言われました。たいへん高価なものですので、私はお預りすることをお断りしました。心配で夜も寝られないからです。それよりは、私は肖像画を宮中で、完成させたいと思い、私は絵を宮廷に持ち帰りました。マリア皇后はとても綺麗な方で、太られて若さを保ってみえました。彼女は背が高く、威厳があり、髪は素敵なブロンドでした。第舞踏会で、彼女をお見かけしましたのを記憶しています。彼女は両肩に美しい巻き毛をたらしダイアモンドのティアラをつけておられました。この背のたかい美しい女性が堂々としてパーベルの隣に歩いていました。誠に対照的でした。それに優しい性格が彼女の愛らしさを引き立てていました。マリア皇后こそは真の福音の女性と言うべきでした。彼女の徳の高さは広く知られています。彼女こそ中傷されない女性の唯一の例であると思います。申しあげますが、私は彼女のお気に入りなったことを誇りに思っています。あらゆる機会で皇后が私に示して下さが好意は山ほどあります。

皇后は宮廷晩さん会のあとでポーズを取られました。ですから、皇帝と二人の息子アレクサンドルとコンスタンチンはいつも同席していました。観客がいても私は全然気になりませんでした。とりわけ、皇帝は、一人の時は多少気後れもしますが、私には非常に丁寧でした。私がすでにイーゼルに向かっているとき、コーヒーが出されたことがあります。皇帝は私にカップを持ってきてくださり、私が飲み終わるまで待って、それを片付けました。本当の話ですが、次の時、彼は私の前でコミカルな役を演じました。私は皇后の後に静かな背景をおくために幕を張っていました。パーベルはまるで猿のように、おどけた格好をしました。幕をひっかいたり、それに登るふりをしました。アレクサンドルとコンスタンチンは、外国人の前での父親のグロテスクな振る舞いに悲しげでした。私自身もお二人のためにお気の毒にかんじました。

ポーズをとっておられる間、皇后は二人の息子ニコラス大公とミハイル大公を呼びました。現在の皇帝であるニコラス大公ほど可愛らし子供を見たことがありませんでした。現在でも私は記憶で、彼を描くことができると信じております。それほど彼の顔は愛らしいのです。ギリシャ的な美しさのあらゆる特徴が備わっていました。

私がもう一つ記憶してますのは、これとは全く違う、ある老人の美しさのタイプでした。ロシアでは、皇帝が政府、軍隊と同時に教会の頂点に立っていますが、宗教的実権は第一の「父」が握っています。ロシアでは「大修道院長」と呼ばれています。彼とロシア人との関係は、法王様と私たちの関係のようなものです。この席を占める聖職者の高徳については、しばしば耳にしていました。

ある日私の知人が彼の元を訪問したときですが、一緒に行かないかと誘ってくれました。私は大喜びでこの招待を受けました。私の人生で、このように威厳のある人物に会ったことはありません。彼は背が高く、堂々としていました。彼の顔立ちは美しく、目鼻だちは完璧に整っており、やさしさと高貴さを兼ねそなえ形容しがたいものでした。長い白ひげは胸まで垂れ、彼の威厳のある顔にさらに厳粛な趣を与えました。彼の衣装は簡素で、威厳のあるものでした。彼の衣装は、長い白衣でした。前で上から下まで黒い幅の広い布で分かれており、ひげの白さを際立たせていました。彼の歩き方、仕草、まなざし、すべてが初対面からの尊敬を抱かせるものでした。大修道院長は最高の人でした。彼は深い心の持ち主であり、教養があり、何カ国語も話せました。さらに得の高さと優しさですべての人から慕われました。彼は厳粛な聖職者ですが、上流社会に対しても気軽であり、恵み深かったのです。大層綺麗なガリチン公の令嬢の一人がある日、彼を見かけて走りより、ひざまずきました。この老人はすぐに一人のバラを取り、バラを祝福して彼女に与えました。サンクト・ペテルスブルグを去るにあったて、私が残念なことは大修道院長の肖像画を描かなかったことです。これほど素晴らしいモデルに出会った画家は無いと私は信じるからです。

第10章終わり