
私がイギリスに到着した当初は5カ月か6カ月のつもりでしたが、もう三年近くも滞在してしまいました。画家としての興味だけではなく、私への親切なおもて なしのせいです。イギリス人は心が冷たいというのを耳にします。私はその意見には同意できません。私がロンドンで体験した思いやりには感謝の念で一杯です。私がお受けできる以上の招待を受けました。表現に困るのですが、私の趣味にあった仲の良いサークルができました。これに成功したのは、レディ・ベン ティンクと彼女の妹さん、ヴィリエール姉妹、ミセス・アンダーソンそれにトリムスタウン卿と親しくしたからです。トリムスタウン卿はアマチュアながら絵は お上手で、絵画と文学に趣味があり、才能を磨いてこられました。彼は現在パリに滞在し、私との交友は続いています。ですから、私の娘がパリに来たという知らせを聞かなかったら、フランスへの帰国を躊躇したことでしょう。私はぜひとも娘に再会したかったのです。父親が私と連絡を取ることを許したという話もひそかに聞いたことも理由の一つです。私には理解できない話ですが、帰国を急ぎました。友人や知人の親切な忠告に抵抗するにはそれなりの動機が必要でした。 この時期ボナパルトは、自らを皇帝と称し、アミアン条約が破棄されて以降、フランスに滞在するイギリス人の出国を禁じました。芸術好きで知られているレ ディ・ハーンは私が人質になるに決まっていると言いました。
私が乗船する場所まで行く駅馬車に乗り込もうとした瞬間、あの魅力的なマダム・グラシーニが現われました。彼女は私に別れを告げるために来たものとばかり 思いました。彼女は私を宿屋に連れて行きたいと言い、私を彼女の馬車に乗せました。馬車には枕やら荷物がいっぱいでした。「これは何のためです?」と私は 尋ねました。「じゃあご存知ないのね」と彼女は答えました。「あなたは世界で一番ひどい宿屋に行く所だったのよ。風向きがよくなるまで一週間以上は待つことになるかもしれないのよ。だから、ここにあなたを泊めてあげようと思ったの」私はこの思いやりに感動して言葉もありませんでした。この美しい女性は、彼 女の後をついて歩く大勢の崇拝者はもちろんのこと、ロンドンと彼女との交友関係を喜ぶ人達を振りきり、私と一緒に過ごしてくれたのです。なんと素晴らしい ことでしょう。私はこれを忘れることはありません。
友人たちとくに娘に再会するのは嬉しいことでした。フランスまで彼女に同行した娘の夫はナリシュキン公の命令で、サンクト・ペテルスブルグに音楽家を雇う 仕事で来ました。彼は数ヶ月後に一人で戻りました。ああ!ずっと会えなかった私の恋人、私の娘はパリに滞在していたのです。私は大喜びでした。私もそうで すが、彼女もあいにく非常に短気でした。悪い仲間に対する私の嫌悪感を教えこもうとしましたが、失敗でした。さらに私の過ちかどうか分かりませんが、彼女 の勢いに私は圧倒されましたが、私は彼女を圧倒することができませんでした。いずれ将来分かるでしょう。彼女のせいで私がどれほど涙を流したことか!でも 彼女は私の娘です。彼女の美貌と才能と知性で、彼女はこの上なく魅力的になりました。私は嘆きました。どうしても一緒に暮らそうと説得することは叶いませ んでした。私が我慢できない人たちとどうしても会うと言いはりました。それでも私は毎日彼女と一緒でした。そのこと自体は非常な幸せでした。
ある晩私は、サンクト・ペテルスブルグで称賛された肖像画を並べました。美男美女にだけはガーゼをかぶせました。結果は好評でした。別の日には歴史上の 人物の頭飾を幕の上に描きました。頭飾の下は穴を開けて顔が出せるようにしました。顔を出した人たちの会話は非常に面白いものでした。ロベールはこの面白 騒ぎに子供のようにはしゃぎました。彼はニノンの頭飾の下に顔を出しました。一同大笑いでした。今日ではこんな催し物は子供っぽいと思われるでしょう。今 日では夜のパーティーでは政治の話やカードをするのが流行です。でも私たちはこの習慣を捨ててはいません。事実、私たちは非常に楽しかったです。この娯楽 はパリジャンのカードやロンドンの居間の息の詰まるようなパーティーに決して劣りません。
私がロンドンから戻って。最初に会った一人がマダム・ド・セグールでした。私は彼女のお宅によく行きました。彼女の夫がある日、私のイングランド滞在で皇 帝が不機嫌であると語りました。皇帝は「マダム・ルブランは友人たちと会って来た」と言ったそうです。しかしボナパルトの私に対する怒りはそれほどでもな かったようです。こう話して数日後、ムッシュー・デノンを私の所に寄こして、彼の妹であるマダム・ムラーの肖像画を書くように命令しました。私は断ること ができないと思いました。謝礼は千八百フランでした。これは通常、この大きさの絵で私が受け取っている金額の半分以下でした。謝礼の値打ちはさらに下がり ました。絵画の構成を納得できるようにするために、私は値段をそのままで、マダム・ムラーのかわいらしい女の子を描き加えたのです。
私がこの肖像画を引き受けた時に味わった苛立ちと苦痛をどう書き表すことができるのでしょう!最初のポーズを取るとき、マダム・ムラーは女官を二人連れてきました。二人は私が絵を描いている間、彼女の髪をいじるのです。こんな状態では彼女の顔を上手く描けないと私が云いました。そうしたら彼女は女官を 出て行かせました。それに彼女は私と約束した時間を守ったことがありません。私は仕上げてしまいたいと思いましたが、私は夏中パリに拘束されたのです。彼 女は決まって私を待たせました。私は腹が立って仕方がありませんでした。さらにポーズを取る間隔が非常に長く、彼女が髪型を変えてしまうこともありまし た。最初は彼女の頬に垂れ下がるカールにしていました。私はそう描きました。そのうちにこれが流行遅れになると、彼女はまるっきり違った髪型でやってきま した。私は彼女の顔に描き込んだ毛を削り取らねばなりませんでした。同様に真珠の頭帯も削り、カメオをそこに描き込みました。衣装についても同様でした。 私が最初に描いた衣装は当時の流行でしたが、前が裁断してあり、幅広く刺繍が施してありました。流行は変わると衣装の前を閉じ、刺繍を変えなければなりませんでした。マダム・ムラーに苛立ち私はついに我慢できず、彼女がスタジオに入るときに「私が描いてきたのは、苦労を掛けない、待たせない、本物の姫君 でしたよ」とムッシュー・デノンに言いました。事実、マダム・ムラーは、ルイ14世がいみじくも言われた、時間厳守は王の礼儀という言葉を知りませんでした。
マダム・ムラーの厄介な肖像画から解放されて、私は元どおりの平穏な生活を取り戻しました。しかし旅行したいという願望は未だ治まっていませんでした。私はまだスイスを見たことがありません。私はもう一度パリを離れ山に向かうことにしました。
このスイス旅行を終えてから、私はようやく休息を取りたいと思うようになりました。私が常々この国に抱いていた好みもあり、蕾が開く前にルヴシエンヌに向けて出発しました。その結果私が到着した時期には、同盟国は二度目のパリ攻撃を試みていたのです。外国軍の手に落ちた場合、村は町よりも危険だということ は知られていました。私は1814年3月31日の夜を忘れることがないでしょう。
危険の近いことを知らず、私はまだ避難を考えておりませんでした。夜の11時でした。私が就寝した時です。ドイツ語をしゃべるスイス人の召使いヨーゼフが 私の部屋に入ってきました。彼は私を保護する必要があると信じていました。プロイセン軍がこの村に侵入したのです。彼らは村中略奪していました。
ヨーゼフの後には人相の悪い三人の兵隊がやってきました。彼らは刀を振り回しては、私のベットに近づきました。ヨーゼフはドイツ語で、私がスイス人であ り、病人であると騙そうとしました。ヨーゼフを無視して、彼らは台の上にある金製の嗅ぎタバコ入れを取りました。それから私のキルトの下を探り、金を隠していないか調べました。一人が刀でキルトを切り裂きました。もう一人はフランス人だと思います。少なくともフランス語を流暢にしゃべりました。彼は「箱は返してやれ」と言いましたが、仲間は言うことを聞くどころか、机に向かい、なかのものをすべて取り上げました。その後で兵隊たちは私の食器棚を調べまし た。私に死ぬほど恐ろしい4時間を過ごしました。あげくにこの恐るべき連中は出て行きました。この種の体験はこれだけではありません。1815年に外国人 が戻ってきたときのことです。イギリス人がルヴシエンヌにやってきました。連中はたくさんの物品を私から奪いました。漆塗りの大きな箱も取られました。これを取られて大変悔しい思いをしました。これはストロガノフ伯爵がサンクト・ペテルスブルクで私に下さったものです。
プロイセン兵隊の夜の訪問の後、私はサン・ジェルマンに行きたくなりました。しかし道路は充分安全ではありませんでした。マルリのいい人の所に避難をしま した。この近くにマダム・デュバリーのパビリオンがあります。私同様、怯えた女たちがすでにこの場所を占拠していました。みな一緒に食事をし、眠れるとき に限りですが、一部屋に6人が眠りました。夜は恐怖のうちに過ぎて行きました。私は命の恩人である召使いのことが不安になりました。この誠実な男は家に止 まっで、兵隊たちを阻止すると言いました。村は完全に略奪にお手上げでしたので、彼のことが非常に心配になりました。農夫たちはすべて略奪されましたの で、葡萄畑に野宿し、藁を敷いて眠っていました。何人かの人が私たちを見つけ、彼らの不運を嘆きました。このような嘆かわしい話は、輝く空の下、花が咲き 乱れる「愛の神殿」の近くにあるマダム・デュバリーの素晴らしい庭でも聞きました。こんな話や、絶え間ない大砲や鉄砲の音に怯えてある晩、地下室に行き、 そこで泊まりました。ですが私は足を痛め、止むを得ずに上に戻ってきました。
最後の事件が起きたのはロケンクールでした。マダム・オカールの家の近くで戦闘がありました。私と非常に近い場所です。この戦闘の後プロイセン兵はあるボナパルト派の女性の家を徹底的に略奪したと聞きました。この女性は戦闘中フランス人にテラスから「この連中をみんな殺して!」と叫びました。勝利者たちは この声を聞き、家に押し入り鏡や家具を粉々にしました。この女性は、靴も履かずシュミーズ姿で、ベルサイユに逃れて避難場所を見つけました。
最終的にルイ十八世がパリに戻られました。彼は過去のことは水に流すつもりでした。クェ・ド・ゾルフェーブルを通る彼を一目見たいと思いました。彼は馬車 に乗り、横にはダングレーム公爵夫人が坐っていました。彼が宣言した憲法には皆喜んで賛成しました。人々の歓喜は大変なものでした。行進にそった窓からは 旗が掲げられました。「国王万歳」という叫び声が天まで届きました。叫び声は大きく、偽りのないものでした。私はこの上なく感動しました。ダングレーム公 爵夫人の顔には、歓迎に対する喜びとつらい思い出が交互に読み取れました。彼女の微笑みは優しい中にも、悲しみが混じっていました。当然のことです。彼女 が行進している路は、彼女の母親が処刑に向かった路なのです。彼女は知っていました。国王と彼女の表情が呼び起こした歓喜は傷ついた心を充分に慰めまし た。この拍手はチュイルリーまで続きました。庭園を埋め尽くした群衆は喜びを爆発させました。宮殿の前で歌い踊り、国王が大きなバルコニーの窓から姿を現 し、人々に繰り返し投げキスを送ると、人々は限りなく喜びました。その夜はチュイルリーで壮大な宮廷レセプションがありました。途方もなく大勢の女性も参加しました。国王は一人一人に丁寧に話しかけられました。中には一族の名誉となる出来事を思い出されたりしました。
私はルイ十八世を間近に拝謁したいという願望にとらわれました。私は日曜日に廊の間に集まったが群衆に紛れ込み。ミサに出かける途中の国王を見ました。国 王が私を見つけるように窓の反対側にいました。国王は私を見ると近づき気軽に手をさしのべ、私と再会できた喜びを何度も語られました。国王は私の手を何度 も握り、他の人には話しかけませんでした。見物人は私を見の高い貴婦人と間違えたに違いありません。事実国王が通り過ぎられると、私がひとりでいるのを見た若い士官は私に手をさしのべ、私が馬車に乗るまで付き添いました。
国王とともに帰国された人々のほとんどが私の友人か知人でした。長い亡命生活の後生まれ育った国で再会するのは素晴らしいことでした。でもまあ!この幸福 も数ヶ月しか保ちませんでした。私たちが幸運に喜んでいる間に、ボナパルトはカンヌに上陸していたのです。1815年3月19日深夜、ルイ十八世と王族の 方々はパリを離れました。ナポレオンは翌日夜7時にチュイルリーを掌握し、軍隊が庭園を埋め、国王の宮殿は攻略された城のようになりました。ある立派な大 尉と勇敢な将軍たちそれに兵士たちがナポレオンのこの勝利を助けました。この人たちの思い出を傷つけるべきではありませんが、ボナパルトの勝利は結局どう なったか、血塗られた土地が一インチでもあったかどうか問うてみるべきです。永久に続く戦いに人々が疲れ果てたことで、「百日天下」には熱狂がなかったの です。国王は1815年7月8日パリに帰還しました。ほとんど一致して喜びました。さまざまの不運がありましたが、ルイ十八世は治安を回復しました。
これから王が知恵と能力を素晴らしい知的な資質で結合されたことに触れることにしましょう。重大な時期でした。ルイ十八世は間違いなく、このような時代の 支配者として適格な方でした。勇気と冷静さに高貴な精神と細やかな心兼ね備えておられました。彼は快く惜しげもなく与えました。彼は美術や文学の擁護者に なりました。彼自身この分野に素養がありました。彼の容貌は決して醜くありません。その表情は上品で、頑健ではなかったのですが、初対面で尊敬の念を抱か せます。彼の好きな趣味は教養ある人と文学を語ることでした。若い頃には非常に美しい韻文を書きました。その様式は名人ともいえるものでした。ラテン語を 完全に理解し、ラテン語でフランスの学識あるラテン語学者と議論することを好みました。彼は大変な記憶力の持ち主です。一度速読した本の印象に残る一節を 繰り返し暗唱していました。革命以前、王弟殿下の家に仕えたドゥシがベルサイユの隠遁所から、国王に敬意を表するためにやってきました。ルイ王はすぐに彼 を見つけ温かく歓迎し、彼の「エディプス」の一節を朗唱されました。著者自身高齢で、ほとんど自作を覚えていなかったのです。
陛下自身には政治的な著作がありました。「コブレンツへの旅」の報告も書いておられます。オペラ「キャラバン」や「リューベックのリュート奏者」のテキス トは彼の執筆とされています。一幕物の散文劇で、テアトル・フランセーズで上演されました。彼はテアトル・フランセーズに愛着があったのです。彼はこの劇 場によく出かけ、タルマの演技を賞賛していました。この偉大なる俳優は自分の出番がある時には、ボックス席の国王の前に松明を持っていきました。ルイは決 まって彼と長い間話をしました。会話は英語でした。聞く所によれば、タルマは「私はボナパルトから年金をもらうよりも礼儀正しいルイ十八世とお付き合いし たい」と言ったそうです。
礼儀作法こそは国王の最大の魅力です。これにより、ちょっとした親切も倍加します。この点に関してはダルトア伯爵殿下も兄上にひけを取りません。忘れてな らないのは親切心を示される数多くの適切な発言です。彼はこれで、人の心をつかむのです。ルイ十八世の死後、彼は王座につかれました。彼が画家や彫刻家に 勲章を授与されているときに、私はたまたまルーブルにいました。勲章を授与される前に彼は、思いやりある言葉を述べられました。「この勲章は奨励ではなく 褒賞です」芸術家たち一同は、この言葉に込められた上品な賛辞に感動しました。
ド・ベリ公爵に関しても、礼儀作法が父君と同じではないとしても、彼は非常に頭のいい方で、時宜を得たウィットは見事でした。一例をあげましょう。彼が初 めて軍を閲兵したときです。兵士の中から「皇帝陛下万歳」という声がありました。「そのとおりだぞ」が彼の返事でした。「すべての人は万歳まで生きるべき だ」それに対して「ド・ベリ公爵万歳」と叫んだ兵士が何人かいました。
彼の優しい心遣いは、友人関係に止まらず、一家の主として家庭内でも同様でした。召使いは彼を尊敬していましたし、その影響力で、召使いたちの行いや多少 でも蓄えをするように指導してきました。彼が馬車に乗ろうとしたときです。幼い皿洗いが彼に寄ってきました。「殿下、今年私は15フラン貯金しました」 「そうかね、じゃぁ30フランにしよう」と公爵は言い、この子が言った金額を与えました。ド・ベリ公爵は彼の収入を大事にしておられました。彼の最大の支 出と言えば、美術の趣味があったからです。この点では奥さんも同様でした。ド・ベリ公爵夫人は若き芸術家たちを激しました。彼女は絵画を買うだけではなく、注文もしました。気前よく支払いをされましたが、階級に相応しい礼儀正しさを忘れませんでした。才能ある人との交流における礼儀は模範的なものでし た。
タングレーム公爵夫人に関してあえてお話しつもりはありません。真実に不足することなどいえましょうか?この貴婦人の長所は全世界に知られております。私 は歴史の判断を弱めることをそれるのです。さらに付け加えるならば、運命の女神が彼女と彼女の心を正しく評価する貴公子と結びつけました。
王政復古によりフランスに戻られたのはこのような方々でした。いかに徳があり優秀であられても、それだけでは玉座を維持できないというのが政治家の話です。私は感謝の念で一杯ですが、残念に思います。
ボナパルトの時代、私が書いた女王と子供たちの大きな肖像画はベルサイユ宮殿の片隅に置かれていました。ある朝私は一目見ようとパリを出ました。門の前に 到着すると、一人の護衛兵が絵を収蔵してる部屋に私を連れて行きました。この絵は一般大衆には公開を禁じられていました。入室を認めた管理人は、ローマで 私に会っていましたので、私を見つけました。「マダム・ルブラン、ここでお迎えできるとは!」壁に向けて裏返しになっていた絵を見えるように、もとに戻してくれました。ボナパルトは、この絵を見に来る人が多いことを知り、撤去することを命じました。この命令の順守が不徹底であったことは明らかです。この 絵が見られていたことは事実です。私が管理人に心付けを上げたいと思いましたが、彼はかたくなに断りました。彼は充分に私のおかげで儲けさせて頂きました からと言いました。王制復古になるとこの絵は再度サロンで展示されました。ボナパルトの時代に私は自分のためにもう一枚女王の絵を描き、持っておりまし た。私は昇天するマリー・アントワネットを描きました。その左には雲の上のルイ十六世と二人の天使を描きました。二人の天使は、彼女の二人のお子様を表わしています。
フランスの平和が保証され、私は母国から出ようとは思わなくなりました。私はパリと田舎を行ったり来たりする生活をするようになりました。ルヴシエンヌの 家に対する愛着はなくなりませんでした。1年のうち、8カ月はそこで過ごし、この環境での私の生活は快適でした。絵を書き、庭仕事をし、ひとりで散歩しました。日曜日には友人を迎えました。私はルヴシエンヌが大好きでしたので、ここに私の記念となるもの、私を思い出してくれるものを残そうと思いました。私 は教会のために聖ジュヌヴィエーブの絵を描こうと思いました。マダム・ド・ジャンリは感謝の意を表して私に詩を献呈しました。私が絵を寄贈すると心のこもったプレゼントが頂けました。友人たちがルヴシエンヌの居間のパネルにお祝いの意を表したいという希望を口にしておりました。快適な夏の朝のことです。 まだ4時でしたので、私は眠っていました。ド・クリスピー公、フォン・ファイストハメル男爵、ムッシュー・ド・リヴィエール、私の姪のユゥジェニア・ルブ ランがこっそり仕事をしました。10時までに額縁は詰められました。私は朝食のために部屋に入った時の驚きはご想像にお任せします。部屋は絵や花輪で飾ってありました。私の誕生日だったのです。感謝の念で、私の目には涙があふれました。
ド・ベリ公爵殿下が私の「巫女」を購入したいという希望を表明されました。この絵は彼がロンドン滞在中に見たものです。私が全作品中最も高く評価して いるのですが、私は直ちにこの要求に応えました。数年後、ド・ベリ公爵夫人殿下が、チュイルリーでポーズをとってくださいました。彼女はちゃんと時間を守 りました。さらに、これ以上ないと思われる好意を私に示されました。私はいつまでも忘れないことでしょう。私は彼女の絵を描いていました。彼女は「ちょっ と待って」と言いました。それから立ち上がり本を捜しに本棚に向かわれました。その本には私を賞賛する論文が書いてありました。彼女は親切にも最初から最 後まではっきりと読んでくださいました。同じようにポーズをとっておられるときのことですが、ド・ボルドー公爵が現れて母親に習字の手本を持ってきまし た。先生の「優秀」という言葉が書き込まれていました。公爵夫人は少年に2ルイを与えました。当時六歳ぐらいでしたでしょうか、この貴公子は飛び上がって喜びました。「この花輪、あの気の毒なおばあさんのために使うよ!」。この子が出掛けてから公爵夫人は、あの子が言うのは、外に出かけた時よく会う貧乏な 人で、あの子が好きなのよ、と私に言いました。
公爵夫人が私のモデルになっていたときのことです。大勢の人たちが呼びにきますので、私はイライラしてきました。彼女はこれに気づき親切に「なぜ私にあなたの家でポーズを取るように言われないの?」と言われました。彼女は仕上げの二回は私の家に来てポーズを取りました。このような温かい配慮をいただいて、 私はついにこの優しい貴婦人のために費やした時間とマダム・ムラーのために浪費した時間を比較してしまうのです。私はド・ベリ公爵夫人の肖像画は二枚描き ました。一枚は赤いビロードのドレスを着た肖像画です。もう一枚は青いビロードでした。この二枚の絵がどうなったか私は知りません。
私は人生の悲しかった年について語ります。私の最愛の人たちがこの世を去りました。まず私はムッシュー・ルブランを失いました。長い間、彼とは疎遠であっ たことは真実です。それでも私は彼の死で大変悲しい思いをしました。結婚で結われた固い絆から切り離されるのは、言葉に表せないほど悲しいものです。この 打撃は私の娘の詩で経験した悲しみに比べれば小さなものでした。彼女の病気を知り、私は急いで駆けつけました。しかし彼女の病状は急速に悪化しました。 彼女を救う手だてがもはやないと分かりました。そのときの気持ちをどう表現していいのか。最後に彼女を見舞いに行き、恐ろしいほどやせこけた顔を見て、私 は卒倒しました。私の旧友である。マダム・ド・ノアヴィーユが私を悲しみのベッドから助け起こしてくました。足が動かなかったものですから、彼女が私を 支えて、家につれ戻してくれました。次の日私は子供を失ったのです!マダム・ド・ヴェルダンが知らせてくれ、私の悲しみを和らげようとしてくれました。 この娘の親不孝はみな消え去りました ― 私は再会しましたし、今でも子供の頃の彼女を眺めています。ああ!彼女は若かった!どうして私を残して死んでしまったの?
娘が死んだのは、1819年でした。1820年には私は弟を亡くしました。相次ぐショックで、私はかり落胆してしまいました。私の状態を心配した友人たち が、気晴らしに旅に出るように忠告してくれました。私はボルドーにいくことを決心しました。私はこの町を知りませんでした。私の心境を変えると思いまし た。失望はしませんでした。私の健康は、この旅でよくなり少し明るくなってパリに戻ってきました。
その日から今日に至るまで、私は一切旅をしておりません。ボルドーから戻ってから、私はいつもの趣味と仕事を再開しました。これがなによりの気晴らしに なりました。多くの親愛なる人を失うという不運にもかかわらず私は独りぼっちではありませんでした。私の姪であるマダム・ド・リヴィエールは細やかな愛情 で家の切り盛りをしてくれました。これが私の人生の救いでした。もう一人の姪についても話さなければなりません。ユージニア・ルブラン、現在ではマダム・ トリピエール・ルフランのことです。私は彼女を充分に見ることができませんでした。若いころから彼女の気性、精神的資質、画家としての天分は私の喜びになるはずでした。私は喜んで彼女を指導し、忠告を惜しまず、彼女の進歩を見守りました。私は充分に報われております。彼女の愛らしい性格と顕著な画才によ り、彼女は私の希望を実現しています。彼女は私と同じように、肖像画家としてのコースをたどっております。彼女の長所は見事な彩色と真実性、それになによりもよく似た肖像が描けることです。まだ若いし、内気で謙虚な彼女は考えていないようですが、今に名声を得ることでしょう。マダム・トリピエール・ルフラ ンとマダム・ド・リヴィエールは私の娘になりました。二人は私に母親の感情をより戻してくれました。二人の優しい献身で私の人生に魅力を振りまいてくれました。私はこの二人と友人たちに取り囲まれて穏やかに、正直でありましたが、放浪と困難の人生を終えたいと願っているのです。
終わり